そしていつものままで
「――おはよう。何かあった?」
研究所に向かうアプローチを歩いていると、隣に樋川が並ぶ。
「おはよう。何かあったように見える?」
「まあね。さっきから見ていたんだけど、首を振ってみたり急に立ち止まりそうになったり、結構挙動不審」
「あのさ」
真希は樋川に視線を向けた。
「――私って、いつもどんな顔してた?」
今朝起きてからずっと、自分がいつもと同じようで同じでない感覚に付き纏われている。
いつもと変わらぬ表情で、態度でいたいのに、肝心のいつもが、突然曖昧になってしまった。
「……え゛。どんな顔って?」
樋川が面食らったように目を瞬かせる。
「私、いつもと同じ顔してる?」
「いつもと同じ顔してるように見えるけど……っていうか、どこかいつもと違うの?」
マジマジと眺める視線に暫し耐えた後、真希は深々とため息を吐いた。
「何気に失礼な反応なんだけど」
「それを人の顔で間違い探しをしている樋口君が言うかな」
「配置は変わっていない」
「当たり前でしょ」
思わず突っ込むと、樋川がふっと口許を緩める。
「顔の方はよくわからないけど、何かいつもの広田さんらしくなった」
「――え?」
「もう少し放っておいたら、右手と右足同時に動かしかねなかったよね」
「まさか」
苦笑しつつ、真希は首を左右に傾けてストレッチした。
確かに、少し身体に力が入っているのかも。
「昨日のあれやらこれやらでメンタルをやられたとか?」
まさしくその通り。
なのだけれど、ダメージをくらったのは、彼が言うところの“あれやらこれやら”とは別口の方で――
「社長と通り一遍同行して会話したくらいでそんなになったら、研究者務まりません」
不意に浮かんだ細長い月との残像を、真希は慌てて振り払う。
その青白い光を浴びて立っていた男性のことも、その男性が囁いた言葉も。
「確かに。同業者の目に晒される学会発表とかの方が、よっぽどクる」
「樋口君が言うと、妙に説得力があるかも」
「それって、どういう意味さ」
「そりゃあ……」
切羽詰まった雰囲気で、安西さんを散々心配させていたことだし。
真希は隣にちらりと目を向け、ん? と首を捻った。
「……そっちこそ、何かあった?」
そういえば、やけに清々しい表情をしているように見えるけれど。
「聞きたい?」
ぬふ、と樋川がほくそ笑む。
そんな風に聞いて欲しそうにしていると、少しばかり揶揄いたくもなるというものだ。
「いや別に」
「そこは嘘でも、“是非”と言うところだよねっ」
ぷふっと噴き出した真希に、樋川が言葉を重ねた。
「聞きたい? 聞きたいよね? じゃあ聞かせてあげよう」
「はいはい」
「実はだな。とうとう! とうとう、バッチリなのがキタんだよ!」
胸の前で拳を握りしめ、樋川は感慨に耽る。
「バッチリな?」
「そう、これ以上ない完璧なデータ!」
つまり、論文データの補完が出来たということだ。
「おお、それはおめでとう」
「これで安西女史に『実験室と心中してこい』と言われずに済む」
「――再現データもとれてるの?」
「もちろん! そうでなきゃ『再現データもとらないで浮かれてるな、ボケ』って言われるに……」
そのセリフが背後からのものだと気付いた樋川がぐるりと返り、「げ」と仰け反った。
「……決まってるもんね、私に」
そう続けて安西がにこりと笑う。
目は笑っていないけれど。
「良かったじゃないのぉ。これで私も、パソコンの前で石と化した樋川君に『そこに答えはないのよ』って諭さないでもよくなるわけだしぃ」
「いや、あの、その、データ纏めないといけないんで、僕、先に行きますっ」
逃げるように立ち去る樋川に向かって、安西がふんと鼻を鳴らした。
「実験室と心中するくらいの意気込みがなくてどうするっつーの。パソコンの前で唸ってたって結果は出せなかったでしょうが。ねぇ?」
「ご尤もです」
「全く、あんなスッキリした顔しちゃってもう。あのグダグダな感じは何だったのよ」
誰に聞かせるともなくブツブツとひとしきり呟いていたかと思うと、安西は徐に片眉を跳ね上げる。
「それで? 広田さんはどうしてまたそんな難しい顔して歩いてるの?」
「難しい顔、してます?」
再びマジマジと視線を浴び、真希は口許を引き攣らせた。
「そうねぇ。想定外のデータが出ちゃって、それをどう扱ったらいいもんか悩んでる的な?」
樋川にしろ安西にしろ、基本研究者というものは観察眼に優れているのだ。
「……そういう時って、安西さんならどうします?」
何かを慮るようにこちらを眺め、それから安西はくいと口角を上げた。
「そこは我々研究者の定石通り、データをただただひたすらに集めるしかないんじゃない? それが特別な何かなのか、あるいは単なる例外か見極めるために」
研究をするにあたっての当然の心構えなのだけれど、何やら含みのあるセリフ。
「分析と解析は、それからだね」
「棚上げってことじゃないですよね?」
ちっちっちと安西は人差し指を振る。
「もっとポジティブな解釈でいこうか。あくまで保留。つまり、結論を急ぐなっつーことよ」
「まずはデータ収集、ですね」
そもそも分析と解析をして、結論を出したいのかもわからないのだけれど――
安西は、そんな真希の想いを読み取ったかのように、最後にこう付け加えてニヤリと笑った。
「とはいえ、それが目的になっちゃったら本末転倒。あくまでも分析と解析を経て、結論を導き出すための材料でしかないんだから。――もちろん、これは仕事の話よ?」
* * *
AI基部のフロアには、既に朝倉の姿があった。
真希は入り口で一瞬足を止める。
いつもと同じ、いつもと変わらず。
どんな表情をしていたかなんて考えるから、どんな顔をしていいかわからなくなるわけで。
そう自分に言い聞かせて足を踏み出した時――
「いよっ、おはようさん!」
背後から岡戸に声を掛けられた。
「おはようございます」
「昨日の疲れはとれた? ってか、緊張の素振りさえ見せてなかったんだし、疲れたもなにもないか」
「それなりに緊張してましたけど」
「うっそだー。そこら辺のオヤジでも案内するような感じだったじゃん」
半分、他所に意識が向いてしまっていたことを、岡戸にも見抜かれているとは。
真希は苦笑しながら答える。
「そんなことないです」
「そうかなー。でもまあ、どっちかっていうとピリピリしてたのは朝倉君だったよね」
本当に、研究者の観察眼は侮れない。
「そうでしたか? 私にはいつもの“無愛想な朝倉さんモード”全開だったように見えましたけど」
そこで、ついつい庇うようなセリフが口をついて出た。
「いやいやいや。何か、すっげーセンサー働かせまくっている感じだったじゃん。あれは――」
「あれは?」
何だろう、何か社長との関係を気取らせるような言動を朝倉はしていただろうか?
真希は思わず身構える。
「嫉妬だね」
「はぁっ!?」
「広田さんを独占していた社長に対する嫉妬」
不意に、緊張がプツンと途切れたような気がした。
と同時に、やっぱり緊張していたんだ、と頭の隅でチラと思う。
何だかもう、ホッとしていいのか怒っていいのかわからなくなって――
「岡戸さん」
「はい、何でしょう」
「朝から想像力が暴走しすぎです。私がその暴走を止めてあげましょう。――朝倉さん!」
「うっわ、冗談だよ冗談っ! でも朝倉君がピリピリしてたのはホントでしょ?」
「本人に確かめてみたらといいと思いますよ。――朝倉さん!」
岡戸のお陰で、いつの間にか“日常”にすんなり溶け込むことが出来てしまった。
どんな顔をして、などと考えることもなく。
そして、朝倉といえば。
「朝から煩い」
歩み寄る真希と岡戸を、いつもと同じ素っ気ない態度で迎える。
不機嫌そうに眉間に皺を寄せる顔を見て安心するなんて変な話だ、と真希は思った。




