朝倉浩人というヒト
『彼が、広田さんのチューターを務める朝倉君』
『広田です。よろしくお願いします』
初めて引き合わされた時に朝倉から向けられた視線を、真希は今でもはっきりと思い出すことが出来る。
それは、設計した電子回路の出来を検分するかのような無遠慮なもので。
『朝倉です。こちらこそよろしく』
しかし次の瞬間、彼はぞんざいな口調でそう言うと、あっさりと真希から手元のPCへと関心を移してしまった。
この回路は取り敢えず瑕疵は見当たらないが、まあ、実際のところはシステムを走らせてみないとわからないしな、とでもいうように。
つまるところ、彼は態度と表情で「キミの能力にはそれなりに興味があるけどキミ自身には興味はないから、そこんとこ誤解のないように」とわかり易い一線をスパッと引いたのであった。
学部でも研究室でも、男女比からくる定めと容姿の都合で、どちらかというと真希自身がその一線をしっかりくっきりはっきり引くことの方が多かったため、朝倉からあからさまに距離を置かれて、逆に親近感がわいたのは皮肉な話だ、と思う。
尤もそれ以来、朝倉がその一線から踏み出してくることはないし、真希もその先に立ち入ることはないのだけれど。
そういった距離感は、傍目にはよそよそしくも映るらしく――
「お前さ。広田さんは女の子なんだから、もうちょっと気遣ってやれよ」
岡戸あたりは、時々こんな風に茶々を入れる。
でも、真希としては、無愛想な顔も突き放すような言動も、全く気にならない。
寧ろそれが朝倉のデフォルトであるのならば、変な気遣いなどせずに、そのままで是非、といった感じだ。
「新人だから気遣ってやれと言われるならわかりますけど、女だからなんて理由にもならないんじゃありませんか、岡戸さん」
だから、しれっとそう返す朝倉に、真希は内心盛大に拍手する。
いっそブレなくて、清々しい。
研究職に性差を持ち込むなんて、全くもって馬鹿馬鹿しいことなのだから。
それにそういった表面的なことはともかく、実際のところチューターとしての朝倉は、細やかな配慮を欠くことがない。
傍目には、わかりづらいというだけで。
「そんなこと言ったってさぁ。広田さんも、そう思ったりしない?」
「朝倉さんは無愛想な顔をしつつ、新人研究員を充分気遣ってくれているので心配ご無用です。このままご指導いただければ、来年には予定通りきちんと独り立ちできると思います」
「ほぉーお」
岡戸がひょいと眉を上げ、淡々と仕事を続ける朝倉を眺めた。
「それに、今更愛想のいい朝倉さんなんて、無愛想な岡戸さんと同じくらい想像できません」
「俺としては、初々しかったはずの新人研究員の口から、そんな容赦ないセリフが飛び出すことに涙を禁じ得ないね。オニイサンはキミをそんな風に育てた覚えはないよ」
「奇遇ですね。私も岡戸さんに育てられた覚えがないんですけど」
はっはっはーと乾いた笑いを交わしていると、朝倉の冷たい声が飛ぶ。
「広田さん。この間のデータ補強の件、ちゃんと追加のシミュレーションかけた?」
「かけました」
「欲しかった数字出てるの?」
「まずまずだと思うんですけど」
「見せて」
「了解です」
岡戸の面白がるような眼差しも、朝倉はまるで気に留めない。
そしてあの時朝倉が引いた一線は、相変わらずここに存在し続けている――……
はずであったのだが。
普段、岡戸は勿論、真希の軽口にも基本スルーの朝倉だ。
とはいえ、無愛想であっても不機嫌であるというわけではない。
それが突然の「気が散る」発言である。
今日は一体、どうしたというのだろう――
いや、どうしたもこうしたも。
自分の不機嫌を持て余しているかのような朝倉にちらりと視線を向け、真希はため息を吐いた。
不意に揺らいだその一線には、敢えて気付かないふりをする。
真希は手元の資料をがさっとまとめ、朝倉とは会議机のコーナーを挟んだ隣の席へと移動した。
「何してるの?」
岡戸が首を傾ける。
「え? これがチラつくというので」
真希は頭を振ってピアスを揺らして見せた。
「ここなら、視界に入らないんじゃないかと」
「そうきたかっ!」
爆笑する岡戸を軽く睨んでから、真希は朝倉に常と変わらぬ視線を向ける。
「というわけで、これで問題なしですよね?」
「……俺は別に、コウフンしたわけじゃない」
「当たり前じゃないですか。岡戸さんでさえコウフンしないモノに、何で朝倉さんがコウフンするんですか。で、データはどうですか?」
広田さんの俺に対する扱いがヒドイ、とぼやく岡戸の声を無視して、真希は朝倉の手元に身を乗り出した。
何も気付かないふりで。
今度は躊躇いなく、資料で頭を叩かれる。
いつも通りの扱いに、真希は密かにほっと胸を撫で下ろした。
揺らいだように見えた一線は、相変わらず今も、ここに存在する。
筋張った朝倉の手が、ぱらり、とページをめくり、そこに書かれた数字を追う視線が、鋭さを増してゆく。
「気が散る」と髪を掻き乱した姿は、もう、そこにはない――
「進捗はどう?」
資料の確認を終え、それを反映したスライドをチェックしていると、グループリーダーの服部がふらりとやってきた。
朝倉の背後に立ち、PCを覗き込む。
「データは、前回服部さんにアドバイスしていただいように追加しているので、これで充分なんじゃないかと思います」
「ああ、条件変えてシミュレーションをもう一本ってやつね? ……うん、因果関係がはっきりしてよくなった」
服部は頷きながら真希に尋ねた。
「オーラルの方も準備している?」
「一応仕上げてあります」
「じゃあ来週あたり、グループ内で発表の予行練習をしようか」
「了解です」
「それとさ。配線のこの仕組み、これだけ省電力化が図れるんだったら、特許いけそうだよね? 朝倉君、出願の指導もよろしく」
「了解です」
「で、君もついでに何か出してね」
「……マジですか」
「マジですよー」
目尻の皺を深めた服部が、げんなりした朝倉の肩をぽんぽんと叩く。
アラフィフで物腰柔らかな服部は、その実かなりのやり手だ。
主幹研究員である彼自身の実績もそうであるが、部下たちのマネジメントにも定評がある。
「朝倉君だけじゃなくて、その辺で聞こえないふりしてる君たちも、よろしく。岡戸君とか」
「俺、もう一件出してますよー」
「朝倉君も一件出してるけど、僕は二件出してるからねー」
自分がちゃんとやってなきゃ、部下に偉そうに言えないでしょ、とは服部の常なる言。
ふふん、と胸を張る。
「多忙なグループリーダー自ら出しているんだから、君たちもそこんとこよーく弁えてね」
そう言いながら席に戻ろうとした服部が、あ、そうだ、というように足を止め、真希を振り向いた。
悪戯っぽい笑みを浮かべながら。
「僕はねー、ちょとコウフンするかも」
「――っは!?」
「その、チラチラってするヤツ。何ていうか、男心をくすぐられるっていうか。そういうのに心惹かれるように、遺伝子レベルでどこかに刻まれているんだと思うなぁ」
「セクハラですよ、服部さん」
朝倉が冷たく言い放つ。
ああ、ほらまた額に筋が……
「でも、岡戸君はこの程度のモノには反応しないんだっけ」
服部は、ちゃっかり聞き耳を立てていたらしく。
「でもって、朝倉君も」
いやぁ、最近の日本男子は遺伝子レベルで劣化が進んでいるのか? などとわざとらしく嘆いてみせた後、頬を引き攣らせた二人の顔に、それぞれ思わせぶりな視線を投げた。
それから、最後に耳元に手をやって固まった真希に向かってひと言。
「ま、そういうわけで頑張って」
そういうわけって、どういうわけだ。
でもって、頑張るって、何をなんだ。
真希は眉根を寄せる。
「あ、勿論、研究発表の準備と、特許の件だからね」
そこんとこ、誤解のないように、と付け加えると、上機嫌で自分のデスクに戻って行った。
「……バブル世代のあのアグレッシブな感じって、ついていけない」
思わずそう呟くと、朝倉が、クスと笑う。
それは、いつものシニカルな笑いではなく。
このヒトこんな表情もするんだ、と真希は目を瞬かせた――のであるが。
その笑みは一瞬で消え失せて。
「猫は、チラつくモノが好きなわけでも気になるわけでもない。狩猟本能を刺激されるだけだ」
「えっと?」
「そうだな。遺伝子の方はどうだか知らないが、本能の方はきちんと反応してる。たぶん」
いつもの不愛想な表情で、よくわからないセリフを口にした。