掻っ攫われたのかもしれない、という件
呆気にとられる真希の腕を取り、朝倉は立ち上がる。
「帰るぞ。社長、ご馳走様」
「え?」
何が何だかよくわからないまま追い立てられて、気付けば店の入り口だ。
朝倉ががらりと戸を開ける間に、真希はどうにか向き直ってぺこりと頭を下げる。
「あのっ、ご馳走様でしたっ……と、うっわ」
言ったそばから再びぐいと腕を引かれ、よろめきながら暖簾を潜る。
視界の隅で、社長が面白がるように目を瞬かせ、柳瀬が憮然と腕を組むのが見えた。
「俺のって、意味不明なんですけどっ」
朝倉の背中に向かって抗議してみたものの。
「俺の同僚、どこが意味不明だ」
しれっと言い返されて、真希は言葉に詰まった。
「……上手いこと言い包めようとしているように感じるのは気のせいですか?」
「かもな」
夜の街は、まだ僅かに日中の熱気を宿している。
真希の腕を掴む朝倉の手も。
少し離れた駐車場に向かうその足どりは、冷静な口調とは裏腹にどこか荒々しくて――
「かもなって」
些か反抗的な気分になって、真希は腕を振りほどき立ち止まった。
「何だ」
「それはこっちのセリフです。何なんですか、これは」
数歩先で肩越しに振り返った朝倉は、フッと片方の口角を上げる。
「わからないか」
「全っ然、わかりませんっ」
「掻っ攫ったんだよ」
「――っは?」
朝倉の長い人差し指が、スッとこちらに向けられた。
「広田さんは、俺に掻っ攫われたわけ」
――とくり。
心臓が再び、その存在を主張する。
いやいやいや、これはペースを無視して歩かされたからにすぎないのであって。
真希は目を閉じ、こめかみを指先で押さえた。
落ち着け、私。
「……アレはいわゆる比喩的表現なわけで、ですね」
「実際、それほど難しいことじゃない」
「はい?」
難しくないって、何が?
目を開けると、朝倉が何やら考え込むように首を傾けている。
ああもう。
こういう状態なら、よく知っている。
自分の思考の海に沈んでいるのだ。
真希の言葉などまるで届かないところに。
「そもそもこれまでだって、広田さんの事情に踏み込んできたわけだし」
「それは否定できませんけど」
聞いていないと承知で相槌を打つ。
それから、聞こえていないと承知でぼやいた。
「今思えば、ピアスの一件、あれがいけなかったような気がします」
そう、あれで距離感を狂わせてしまったのだ。
真希も真希で、そんな物思いに耽っていたのだが――……
「あと一歩二歩踏み込んだとして、何が違う?」
聞き捨てならないセリフに、いきなり意識を引き戻された。
「まるっきり違う……っていうか、一歩二歩って、どこに踏み込むつもりですか」
問い掛けですらないと知りつつ、真希は突っ込む。
すると、ようやく海から浮上したらしい朝倉が、薄らと笑みを浮かべた。
こういう表情も、よく知っている。
事の首尾を確信した時、その顔に浮かぶものだ。
真希は身構えた。
「簡単だ」
そんなセリフと共に、いきなり朝倉に距離を詰められて、思わず後退りそうになる。
それでも真希はどうにか踏み止まった。
ここで退いたら、何だか負けのような気がして。
「簡単って、何がですか」
「掻っ攫うのも、掻っ攫われるのも、だ。こんな風に」
真希はぷいと横を向いてみせる。
「……こうやってお店からということであれば、掻っ攫うのも掻っ攫われるのも簡単かもしれません。でも、私は私の人生ごと誰かに掻っ攫われるつもりはありませんから」
「そうかな」
朝倉がゆっくりと上半身を傾け、真希の顔を覗き込んできた。
「明人が同じことをしても、ついて来たか?」
「え?」
思わず振り向くと、朝倉の顔がやけに近い。
咄嗟に仰け反った真希は、ぐらりと身体のバランスを崩した。
「――おっと」
さっと朝倉の手が腰に回る。
真希の手も、無意識に朝倉のシャツの胸元を掴んでいた。
「どう思う?」
どう思う、とは。
一瞬思考が飛んで、真希は朝倉に抱きとめられたまま、はて、と首を傾ける。
すると微かに頬を染めた朝倉が、チッと舌打ちして顔を逸らせた。
「そういうのは、なしだろう……」
腰に回されたままの手に、ぐっと力が込められてふと我に返る。
「――うわわわわ」
シャツを掴んでいた手をパッと放して、真希は跳び退った。
負けとか勝ちとか、最早それどころではなくて。
「や、柳瀬さんでもついて来たか、でしたよね?」
取り敢えず原状回復を図るべく、直前の会話に縋りつく。
「それに関しては比較になりませんっ。柳瀬さんは、よく知らない人ですしっ」
「知らない人にはついていかない?」
「当然です」
真希が勢いよく頷くと、朝倉が皮肉っぽく片眉を上げた。
「世の中、一度会っただけで“知っている人”にカテゴライズするヤツも多いと思うが」
「私としては、朝倉さんだって“よく知らない人”にカテゴライズすべきかもしれないと思い始めたところです」
「手強いな、広田さん。でも」
ズボンのポケットに両手を突っ込んで、朝倉がニヤリと笑う。
「実は自ら選択しているんだとは思わないか?」
「選択?」
「そうだ。仮にも社長の席だぞ。いち社員としてはそこに留まるのが社長に対する礼儀ってものだろう?」
「強引に連れ出した本人がそれを言うんですかね」
掻っ攫うとか掻っ攫われるとか言っていたくせに。
呆れる真希に、朝倉は畳み掛けた。
「手法はこの際置いておくとして、俺だったから、一緒に席を立った。そうだろう?」
「それは、単にお店まで一緒に来たからにすぎないとは考えないんですか」
真希は思わず噴き出してしまう。
そもそもあの時の私に選択権があったかさえ怪しいと思うんですけど。
話題は未だ危険な領域を彷徨っているものの、張り詰めた空気が俄かに緩んだ気がした。
「手法だけじゃなくて論法もえらく強引じゃありません?」
「そうか?」
朝倉が目の前に車のキーをかざして、ちゃらりと鳴らす。
「どの辺りがどんな風に強引なのか、帰りがてら説明してもらえると嬉しいんだが」
「……どうしましょう。知らない人の車に乗っちゃいけないって、父に言われているんです、子供の頃から」
真希は腕を組んで首を傾げた。
「俺は知らない人じゃなくて、“よく知らない人”なだけだろう?」
「“よく知らない人”にもついて行かないと、先程言ったような気が」
降参、と両手を上げて朝倉がくっくと笑う。
「じゃあ、取り敢えず今は、広田さんがよく知っている“朝倉さん”に戻るということで」
そう言うと、駐車場に向かって何事もなかったかのように歩き出す。
真希はその後ろを、数歩遅れて追いかけた。
「――あの、どこか適当な駅で降ろしていただければ」
走り出した車の助手席で真希が切り出すと、朝倉がチラッと視線をよこした。
「どうせ通り道だ。家まで送って行く」
それはそれで、とても面倒な展開が予想されるんですが。
もう帰宅しているはずの父が、車の音を聞きつけたら?
「でも……」
「ああやって社長の前から連れ出したんだ。ちゃんと送り届けたと報告する義務が俺にはある」
そう言われてしまえば、無下に断るわけにもいかない。
「……すみません、よろしくお願いします」
帰りの車中は気詰まりなものになるかと思いきや、先程の天ぷら屋の話題で意外にも和やかに過ぎていく。
「シメの穴子を食べ損なってしまいました、天ぷらのシメといえば、かき揚げなのかと思っていましたけど」
「あそこは穴子と決まっているんだ。そのままでも、丼でも、茶漬けでも美味い」
「うーん、それは残念」
真希がそう言って笑うと、シフトノブを捌きながら朝倉がぐんとアクセルを踏み込んだ。
断続的に街灯に照らされるその横顔は、やっぱり何だか知らない人のようにも見えて――
「じゃあ、それは次回の楽しみに」
それは、誰と行く次回ですか。
「はい」とも「いいえ」とも、実に答えに困る言葉を発して、朝倉は真希を惑わせるのであった。




