心ここに在らず、な件
呼びつけられることがあっても、社長自らが出向いてくるなどということは滅多にないのである。
研究所で対外的なイベントが行われる場合か、あるいは年に一度あるかないかの、カレンダーに予め記された視察を除いては。
というわけで、急な来訪の連絡を受けた上層部の間には、すわ不祥事かと一瞬緊張が走ったらしい。
しかし、今日の明日というわけではなく、社長自らが乗り出すほどの不祥事と考えるには、些か間が空いている。
もしや予算削減の、あるいはかねてから尤もらしく囁かれている研究所再編のための査察か?
意図を探るべく情報収集に奔走した結果、夕刻にはどうやら急にスケジュールが空いた社長の気まぐれと判明したようで。
一気に所内の緊張が緩むと同時に、これを予算獲得の絶好の機会とすべく各方面に指示が飛んだ。
「つまり、こんなすっげーことやってるんです、予算つけてねってデモるの」
岡戸が頭の後ろで手を組み、椅子にもたれかかる。
「部長たちが緊急招集されたのは、そういうわけですか」
「折角だから、先端技研の技術力をアピールしておこう、さて何をってさ」
「色々ありそうですけど」
ちっちっち、と真希に向かって岡戸が指を振った。
「技術的に優れていることは大前提。その上で、インパクトのあるものじゃないと。製品化じゃなくて商品化に繋がるようなね。この違いわかる?」
「……言語学的な意味でじゃないんですよね?」
「もちろん、簿記会計的な意味でもなく、ね」
「うーん」
一般的には、工場で出来上がった物を製品と呼び、市場に出た物を商品と呼ぶ。
ふっふと笑った岡戸が「つまりだな」と身を乗り出す。
「単にモノに出来るってだけじゃなくて、モノとした時に売れる見込みのありそうな技術をデモりたいってこと」
技術的に製品として成り立ちました、で終わるのではなく、市場に受け入れられる商品に成り得るもの、ということだ。
「ああ……それはちょっとハードルが高め、ですね」
「研究段階がそこまできているようなものって、先端技研にはそうそうあるわけじゃないでしょ」
「確かに」
「そもそも、着地点からして怪しい研究だってあるからなぁ。専門的には凄いことなんだろうけど、誰がその技術必要としてるんですか、そこ極めてどうすんですか、みたいな」
そんな真希たちのやりとりを聞いていたのかいなかったのか、徐にスマホを掴み朝倉が立ち上がった。
「ちょっと席、外します」
フロアを後にする朝倉の背中を見送りながら、岡戸が首を傾げる。
「なぁんか、心ここに在らず?」
寝違えた、というのはもちろんそうなのだろう。
しかし垣間見える苛立ちの原因は、果してそれだけなのだろうか。
そういえば。
社長視察の話題で有耶無耶になってしまったけれど、朝倉は広報の何を――あるいは誰を気にしているのだろう。
「……ん?」
一瞬脳裏を掠った思念を捕まえ損ねて、真希は眉を顰めた。
何か、今引っ掛かったのだけれど――……
もう一度それを手繰り寄せようと、思考を彷徨わせたのだが。
「おっと、こっちもだ」
岡戸の面白がるような声に、何かの気配は瞬く間に掻き消されてしまった。
「う゛ぅ。モヤモヤする」
真希は眉間を指先で押さえながら呻く。
「キミたちを見ているオニイサンも、モヤモヤしますよ」
そう言ってニヤニヤ笑う岡戸を軽く睨んで、真希も席を立った。
「オニイサンを自称するには少々厳しくなってきているんじゃありません? コーヒー買ってきます」
「ぬぅおおぉおっ」という叫びと、「煩いよ、岡戸クン」とそれを素っ気なくあしらう声を背に、フロアを抜け出す。
中途半端な時間帯なので、廊下に人影は殆どない。
そこを真希は、半ば上の空で足を進めた。
一瞬、“そういえば”と閃いたのだ――
そういえば――……何?
「うーん」
そんなにあからさまではないけれど、よくよく考えれば腑に落ちるような、何か。
結構、重要なことのような気がするのだけれど……思い出せないからそう感じるだけだろうか。
蓋を開けてみれば、案外そんなことか、と失笑するような?
そうやって忙しく思いを巡らせていたので、真希は緊迫した雰囲気の休憩室にうっかり足を踏み入れてしまった。
「……はあっ!? そんなこと罷り通るわけないでしょうが……当然大騒ぎに……そうです……ああ、そうですよ、当たり前でしょうっ!? ……っいや、無理ですって!」
スマホに向かってひとり声を荒げている朝倉を目にして、ハタと足を止める。
うわ、お取込み中って感じ?
「ったく、どうやってそんな都合よく遭遇するつもり……」
こっそり後退りしたはずだったのだが、気配を察したのか、さっと振り向いた朝倉と目が合ってしまった。
「……っ」
痛みからか驚きからか、朝倉が息を呑み、顔を顰める。
スマホを握る手に力が籠ったのが見えた。
真希は身体の前で両手を広げ、「どうぞ。そのまま」と声を出さずに口を動かすと、慌てて身体を翻す。
ああ、もう、うっかりもいいところだ。
売店に行き先を変え、足を速めながら、真希は何とかモヤモヤ感を振り払おうとする。
この落ち着かない感じは、暫く抜けないだろう。
かといって、無理に思い出そうとしても絶対に思い出せないのだ。
「――広田さんっ!」
いやでも、そう、今またここまで出かかって……
真希は立ち止まってその感覚に集中しようとする。
ほら、どこかで……
「広田さんっ!」
「……あ゛あ゛っ、ほらまたわからなくなっちゃったっ」
頭を抱えて地団駄を踏む真希に、朝倉が追いついた。
「何をやってるんだ?」
「ここまでっ}
真希は喉元で手を水平に振りながら、朝倉を振り返る。
「ここまで出かかっていたのに!」
「何が」
「……っ何だかわからないですけど、ここまでっ……」
怪訝な表情を浮かべる朝倉に向かってため息を吐き、真希は肩を落とした。
「もういいです。私のスッキリを返せとは思いますけど」
「は?」
「……電話はもう済んだんですか?」
「そうだ、それなんだが」
朝倉が一歩踏み出し、真希の表情を探るように見つめる。
「それなんだが?」
「それなんだが……あ―、どの辺りから、耳にしていた?」
真希は目を瞬かせた。
「耳にって言われても。考え事をしていたので、スマホに青筋立てている朝倉さんを視覚で捉えただけというか」
「スマホに青筋……」
「あ、ですからその、聴覚が正常に機能する前に取り込み中だと察知しましたので退散したというか」
まだ少し疑念を含んだ視線に、真希は肩を竦める。
「ええと実際のところ、何を聞いちゃいけなかったのかわからないくらいに、何も聞いてません」
そう言い切ると、朝倉はふっと視線を逸らして髪を掻き上げ、苦笑を浮かべた。
「悪い。少し頭に血が昇っていた」
何と。
そんな状態にあったということもだが、それをこうもあっさり認めることにもびっくりだ。
「やっぱり、今日の朝倉さんはヘンです」
「――いや」
再び真希に視線を戻した朝倉は、口許を皮肉っぽく歪める。
「俺がヘンなのは今日に限ったことじゃない。それくらいは自分でも自覚している」
「開き直ってるし」
思わずそう呟いてしまい、真希は口を押さえた。
「原因はわかっている。どうやって対処すればいいのかも」
「それは、何よりです?」
「――そうだな」
つかの間、強い視線で見つめられて真希は戸惑う。
「あの?」
「本気出していくことにした」
「はい?」
「……いや。何でもない」
朝倉はそう言うと踵を返し去って行った。
「ワケがわからない……ってか、コーヒー! 忘れるとこだった」
真希は我に返って、慌てて売店に向かう。
全く、モヤモヤ感が増す出来事ばかりだと思いながら。
――そして。
その翌々日、真希は混乱の真っただ中に放り込まれることになった。




