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侵食される日常

「金曜日、何かありました?」


朝倉が席を外したのを見計らって、真希は岡戸の方に身を乗り出した。


「ん、ん、ん――? 何かって何がぁ?」


時は月曜の昼前である。

PCを覗き込んでいる岡戸は、キーを叩きながら生返事をした。


「だから、それを聞いてるんじゃないですか」

「うぅーん、別にこれといった招集はかからなかったしぃ」

「そういうことじゃなくてですね」

「じゃあ、どういう……ぉおっ? うし、きたっ! 俺はやっぱ天才だな。いいねぇ。見よ、この美しい曲線を!」


シミュレーションの結果を、ぐふふとにやけながらひとしきり愛でると、岡戸はようやく真希の方に視線を向けた。


「――んで? 何がどうしたって?」


真希は声を顰める。


「朝倉さんが朝からおかしくてですね」

「んー……俺に言わせれば、朝倉クンがおかしくなったのは昨日今日の話じゃないけどね」

「は?」

「いやいや、それで、どんな風におかしいって?」

「全然こちらを見ないんです」

「……」


何とも言えない表情を浮かべた岡戸は、首を振りながら手元のPCに視線を戻した。


「悪いけど、そういうの、二人でやってくれる?」

「ちゃんと聞いて下さいってばっ」


真希は更に身を乗り出した。


「結構辛辣なコメントを口にする時はもちろん、些細なやり取りだって朝倉さんはきちんと相手と視線を合わせる人じゃないですか」

「まあそうね」

「それなのに今日は朝から、全然まともにこちらを見ないんです。デスクに向いたまま“おはよう”ですよ。私が何度か話しかけた時もずっとPCから視線を逸らさずって、さすがに何かあると思うじゃないですか」

「ふぅん。例えば?」

「例えば……例えばそうですね、朝倉さんの評価に関わるとんでもないポカを私がしでかしていたことが発覚したとか、この間招集されたプロジェクトから私はやっぱり外されることになったとか」

「何か思い当たる節でも?」

「全くありません」

「だろうね。しっかし広田さんが思い及ぶのはその辺りが限界なのかって考えると、ちょっと面白い」


どの辺りをもってして限界と言われるのかよくわからないんですけどっ。

ムッとする真希から、その背後に視線をスッと流して岡戸が口角を上げる。


「で、そこんとこどうなのよ、朝倉クン」


振り返ると朝倉が眉間に皺を寄せて立っていた。


「そんなポカをしたりプロジェクトを外されるとなれば、まずは本人が服部さんから朝イチで呼び出されるんじゃないですかね。尤もそういう話は今のところ自分の耳に入ってませんが」

「だってさ」

「左様でゴザイマスカ」


真希はそう答えると、そそくさとデスクに向き直る。

仕事絡みでないなら、なおさら気になるじゃないの。


「寝違えた」

「――はい?」


むっつりと前を見据え、椅子に腰掛けながら朝倉がぼそっと言った。


「寝違えたから、今日はそっちを向くことが出来ない」

「……」


前方で爆笑する岡戸を睨んだものの、図らずも気分が軽くなる。

座談会も柳瀬も鏑木も岩崎や古川も――そう、本社でのあれは謂わば幕間で。

この少し気難しいチューターとの日常は、自分にとって思っていた以上に大切なものなのだ、たぶん。


「笑いすぎです、岡戸さん」


無意識に首を捻ったのか、そういなした朝倉がうっと呻いて目を閉じる。

思わず噴き出した真希は慌てて俯いた。

先程までの緊張が、はらりと解ける。


「広田さんも、そこで笑うかな」


そう、こんな日常が。


 


「だから、そっちは向けないんだって言いましたよね、岡戸さん」


トレーをテーブルに置きながら、朝倉は右側に陣取った岡戸に文句を言う。


「俺はオブザーバーだから」

「またワケがわからないことを。広田さんの隣に座ればいいじゃないですか」

「それじゃあ、広田さんの可愛い顔が見えないでしょ」

「よくもまあ、次から次へとどうしようもないことが口から出てきますね」


呆れて真希が笑った。


「じゃあ、俺と席を替わりましょう」

「もう座っちまったし、面倒だからヤダ」

「わかりましたよ」


ため息を吐いた朝倉が席に着く。

結局その流れのまま、三人で社員食堂にやってきている。


「いやぁよかったね、広田さん。取り敢えず杞憂で」


岡戸が朝倉の右隣りで、箸を手に取りながら白々しく言った。


「全然取り合ってくれなかったくせに、そんなこと、どの口が言うんですかね」

「この口。そもそも朝倉クンがおかしいなんて、これっぽっちも気付かなかったし」

「それは岡戸さんが朝倉さんの斜め前で、私が右に座っているという位置関係だったからじゃないですか」


真希もランチに箸をつける。


「にしても、仕事絡みの理由しか上がらないってのがね」

「あそこで仕事絡み以外の理由が上がることを期待する岡戸さんが間違ってます」

「だよね」


はっは、と岡戸は笑った。


「っていうか、大見栄を切ってきてしまった手前、ここでコケるわけにはいかないという危機感で、ちょっと狼狽えてしまたかもしれません」

「大見栄? 座談会で?」

「……いえ……営業部で……」

「は? 営業?」


箸を口に運びながら、真希はもそもそと答える。


「座談会には同期も出ていて、久々に飲もうという話になったんですよ。で、営業部のフロアで待たせてもらっていたんですけど、そこでちょっと絡まれて」

「へえ、何て?」

「“先端技研は俺たちの稼ぎを毎年ジャカスカただ使い込むだけだ”、みたいな」

「ああー……ありがち。で、どう答えたの」

「“仰る通りです”って」


げほっと岡戸が咽た。


「いやでも、今ジャカスカ使い込んだ分は、何年か先の営業が成果として手にするはずだと言っておきました」

「……あっそっ」


岡戸は胸を叩き、水を流し込んで頷く。


「それに、ちょっと悔しかったんで、“いい研究します”って捨て台詞みたいなことを、ちらっと口走ってしまったというか」

「おやおや」

「その後の同期との飲み会では、余計な雑音に煩わされずにまずは仕事を頑張ろうって気炎を上げてきたんです。それなのに」


真希は黙々と食べている朝倉に、ちらと目を向けた。


「今朝の朝倉さんですよ」


箸を止めて、朝倉が視線を上げる。


――今日初めて目が合った。


じゃなくて!

私までおかしくなってどうする。

慌てて視線を逸らし、真希は早口で捲し立てた。


「頑張るはずの仕事で、何かあったかやらかしたかしてしまったんじゃないかと、気にもなるってもんです。同期には身の回りで起きていることには案外無頓着とか言われてしまいましたし、うっかり足元を掬われないように気を付けろと釘も刺されて……」

「そんな釘を刺されるようなことがあったのか?」

「え?」


再び目を向けると、朝倉がこちらを探るように見つめている。


「それは、その絡んできたヤツのことでしょうよ。ねえ?」


暢気な岡戸のセリフに、真希は飛びついた。


「そ、そうですそうです」


こんな所でまた殿下(・・)がどうのこうのという話をするつもりはない。


「座談会は……」


朝倉は言いかけて押し黙る。

やはり、今日の朝倉はどこかおかしい。


「どうだった?」


岡戸がその言葉尻を拾う。

そこでの出来事や感想を掻い摘んで話しながら、真希はこっそり朝倉を観察した。

眉間に薄く皺を刻み、心ここにあらずな様子で箸を口に運んでいる。


「そういえば、成果が見えにくい、というようなことをそこでも言われました」

「まあ、俺たちの研究は、わかり易いモノにならない場合(ケース)が殆どだからな。蓋を開けたその中の基盤に乗っかっているソコ、とか」

「しかも、必ずしもモノになるとは限らないですしね」

「とはいえ、きちんとアピールすべきところではアピールしていかないといけないってハナシかな。自分たちだけがわかっていればいい、わかるヤツだけがわかればいい、なんて通用しないってことでしょ。ね、朝倉クン」


呼び掛けられてはっと我に返った朝倉が、不用意に岡戸を振り向いた。


「……っく」

「あーあ、痛そうだねぇ」

「……確信犯ですよね」

「リハビリ、リハビリ」


岡戸が笑いながらしれっと口にする。


「ぼんやりしてるから。やっぱり何かあったと違う?」

「いいえ、別に」


朝倉はむっつりと答え、再び箸を口に運び始めた。


――やっぱりヘンですよね。

――やっぱりヘンだよな。


真希は岡戸と目で語り合う。

しかし、朝倉は何も答えることなくただ黙々と食事を続けるのだった。




「――広田さん」


岡戸が売店に寄るといって別れた後、並んで歩いていると、何だか様子がおかしいままの朝倉が切り出した。


「広報からは、その後何か連絡がある?」

「広報から、ですか?」


今ここでその質問もかなりおかしい、と思いつつ真希は答える。


「一応、お疲れ様でしたという言葉と、今回の座談会が情報誌の次号に掲載される予定で、それはこちらに送っていただけるとか、そういった連絡はいただきましたけど……」


実は広報(・・)からだけではなく、柳瀬個人からもメールが届いていた。


――座談会、お疲れさまでした。

 結構いい内容のものになったと聞きました。

 どんな記事になるのか楽しみです。

 ところで、広田さんがまた本社に出向く機会がありましたら、

 あるいは、私がそちらに出向く機会がありましたら、

 今度は是非飲みにお誘いさせてください。

 近いうちにまたお目に掛かりましょう――


これにどう返せばいいのか、真希は暫く悩んだ。

社交辞令を社交辞令として受け取る意思は、まるでなさそうである。

そもそも、断られることなどまるで想定していない文章だ。

そこで。


――座談会では、日頃関わることのない部署の方々とお話し出来て、

 なかなか有意義な時間を過ごすことが出来ました。

 このような機会を与えていただき、ありがとうございます。

 記事、楽しみにしております――


返答にはなっていないが謝意は伝わる、そして返信の必要がないメールを送り返したのだった。

そちら(本社)に出向く?

まず当分ないでしょ、新人研究員としては。


「広田さん?」

「え? ああ、問題ないです」


こちら(先端技研)に出向く?

一体何用をもってして――……


「問題?」

「あの、朝倉さん、広報に知り合いがいらっしゃるんですか?」


訝し気な朝倉のセリフに真希は言葉を被せる。


「この間も“広報”っていうキーワードに、えらくビビットに反応してましたけど」

「……いや、そんなことは」


その時、背後から安西が騒がしくやってきた。


「ちょっとちょっとっ! 聞いた?」


安西が朝倉の横に並ぶ。


「今週社長が急に視察に来るとかで、上の方が大騒ぎ」


朝倉が勢い良く振り向いて「っぐ」と呻いた。


「何やってんのアンタ」


安西の無慈悲なセリフに、真希は同情していいのか笑っていいのかわからなくて顔を逸らせる。

この時はまだ、日常が密かに侵食されつつあることに気付かなかった。



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