思わず口が滑りました
正門からの長いアプローチを歩いていると、街路樹の葉をざわめかせて五月の爽やかな風が通り抜けた。
ふわりと巻き上げられた長い髪を押さえながら、風の行方を追うように視線を遠くに彷徨わせる。
ガラスとコンクリートで出来た無機質な建物の向こう側には、緑豊かな山々。
通勤には少しばかり不便ではあるが、郊外にあるこの立地を真希は気に入っている。
空を仰げば、抜けるような青と明るい日差し。
人間だって、光合成するのかも。
自分のどこかが、この光に反応しているような気がする。
何が変化するのか、何を作り出すのか、わからないけれど。
――なんて。
口許を緩めて、真希は肩から下げたビジネスバッグを、よいしょ、と揺すり上げた。
ノートパソコンやら資料やらが入ったごついそれは、見た目に違わずずっしりと重い。
人類初の光合成で作り出す何かを妄想する前に、この課題の方を片付けなくちゃ。
再びの風に背を押されるように、真希は足を速めた。
* * *
株式会社テクニカは、複数の事業体からなる大手の総合電機メーカーである。
各事業体は、それぞれの扱う製品の改良、並びに新製品の開発を目的とする研究所を擁しているのであるが、ここ先端技術研究所は、“全く新しい何か”を作り出すことを目的としているので、それらとは少し立ち位置を異にする。
“全く新しい何か”
例えばそれは、新しい概念なり技術なりを打ち出して、ゼロから未知なる何かを作り出すということであり、あるいは、既存の技術やシステムを使って、新しいコンセプトの何かを作り出すということである。
電気工学を修士課程まで修めた真希は、昨年この先端技術研究所に入所した。
そうはいっても、新卒のぺーぺーである。
当然ながら一般の新入社員と共に数日の導入研修を受け、その後三ケ月に渡る工場での現場研修をこなし、本来の配属先へと落ち着いたのは七月も末のことであった。
人工知能(artificial intelligence)基盤技術研究部、大規模データ収集システム研究グループ――略してAI基部大デG。
主としてセンシングのシステムを研究するグループだ。
真希の長い睫毛に縁どられた大きな目やふっくりした唇からなる甘やかな顔立ち、色素の薄い儚げな雰囲気は、当初この男所帯でかなり異質なものとみなされたのだが、今やすっかり馴染んでいる。
つまり、中身は著しく外見を裏切るものだったので。
とはいえ、一人前の研究員への道は長く険しい。
大学院で学問の一環としてやってきたことと、企業で求められる研究スタイルは全く違った。
上司であるグループリーダーの指導の元、チューターに並走してもらいながらの修行は今も続く。
グループが担う研究分野に則ったテーマを決めるところから始まったそれは、予備実験や試作、検証を繰り返している。
そして――
一ケ月後に研究テーマ企画の所内発表を控え、真希はフロアの隅に設えられた会議机に、件のチューターと向かい合わせで座っている。
所内発表は新人研究員全員に課せられたもので、各自の研究テーマ内容、それに対するこの一年の予備研究の成果、今後の展望を発表する場だ。
所長以下役職者たちが出席し、もちろん質疑応答がある。
それ故に、ペーパーの資料にも、スライドにも、オーラルの原稿にも入念な準備が必要だ。
“研究者としての訓練中”の真希であるが、目の前で眉間に皺を刻みながら、資料をチェックしている男もまた、“部下を育てる訓練中”という立場にある。
朝倉浩人研究主任、入社六年目の三十歳。
切れ長の涼やかな目元、すっと通った鼻筋、皮肉っぽく歪められた薄い唇。
研究者としては些か整いすぎた面立ちのその人は、すっきり整えられたツーブロックショートの髪をやにわに掻き乱すと、唸るように呟いた。
「……ダメだ」
「どこが、でしょう?」
真希は身を乗り出して、朝倉が手にした資料を覗き込もうとした。
今までのたたき台を基に、作りこんだものだ。
そんな言われ方をするほど酷い出来だとは思わないのだけれど――
すると目の前に、待てとでもいうように掌が突き付けられる。
「いや、そうじゃない」
「はい?」
目を瞬かせる真希から、朝倉は不機嫌そうに視線を逸らした。
「気が散る」
「――えっと?」
基本無愛想。
しかし、この人の言葉は非常に端的で、良くも悪くもわかり易い――はずであったのだが。
真希は意味を捉えかねて首を傾けた。
「さっきから、チラチラチラチラと」
チラチラって、何が?
「こう、資料を見ているのにだな。視界の片隅で揺れるのがわかるんだ――それが」
朝倉が指差した先を振り返ると、窓越しに大きなプラタナスの木が見える。
「――違うだろう」
氷点下の声におずおずと向き直ると、朝倉はこれ見よがしに自分の耳たぶをぐいと引っ張ってみせた。
真希も同じように自分の耳に手を添え――
「――ピアス、ですか?」
今日つけているのは、耳元で小さなピンクトルマリンが一粒揺れるタイプ。
仕事中は髪をシュシュでまとめているので、それが目についたということなのだろう。
でも、ちょっと意外。
そんな思いが真希の口を滑らせた。
「いや、猫と男は揺れるモノが好きって聞いたことがありますけど」
「……何だと?」
朝倉の額にピシッと筋が立つのを目にして、真希は若干の訂正を試みる。
「あ、揺れるモノが気になる、でしたっけ?」
ぶふっと噴き出す音が朝倉の向こうから聞こえた。
「……岡戸さん、何笑ってるんですか」
真希は、小刻みに震える背中に向かって眉を寄せる。
もう、面白がっちゃって。
岡戸歩は、朝倉の二年先輩で、このグループのムードメーカーともいえる陽気な研究主任である。
「朝倉クンを、猫と一緒にしちゃう広田さんの勝ち!」
そう言って、くるり、と椅子を回転させた岡戸が可笑しそうに真希を眺めた。
「俺も猫と一緒だけど、その程度のモノにはコウフンしないなぁ。広田さんに似合ってるとは思うけど」
「……ありがとう、ございます?」
朝倉の額の筋が、もう一本増えた――ような気がする。
勘弁してくれ。