足元注意
「ちょっとここで待ってて」
岩崎の上司に営業フロアで待つことの了解を取った後、そう言って案内されたのは片隅に置かれた会議用テーブルであった。
慌ただしく行き交う人と、次々と鳴る電話。
研究所の日常とはかけ離れた喧騒を物珍しく眺めながら、予定通り直帰する旨、服部に連絡を入れる。
「それで、どうでしたか?」
電話の向こうから聞こえるいつもの穏やかな声に、真希はふとため息を漏らした。
「先端技研に向けられるシビアな視線といったものを、少し理解したように思います」
「それは何より」
服部はふっふと笑いながら言葉を継ぐ。
「隔絶した環境にあると、ついついその手の意識を失いがちだからねぇ。終いには、研究のための研究をするようになっていく。自分の仕事の意義を自分自身に問い続けることは大事なことなんですよ」
じゃあ今日はご苦労さん、と言って電話は切れた。
「自分自身に問い続ける、かぁ……」
戻ってきた岩崎が、プラカップに入ったコーヒーを差し出しながら眉を跳ね上げる。
「何か難しい顔してるけど」
「迷子にならないように気を付けなくちゃなって」
さんきゅ、とそれを受け取りながら真希は答えた。
「迷子」
何やら思うところがあったのか、岩崎はひょいと肩を竦める。
「広田さんはいつもどこかにある何かを見定めている感じがするから、迷子にはならなそうじゃない? でも、身の回りで起きていることには案外無頓着だから、足元を掬われないように気を付けた方が、い・い・か・も」
人差し指を振りながら顔を覗き込まれて、真希は片眉を跳ね上げた。
「別に無頓着なわけじゃないし」
「ふぅうん。ま、そういうことなら? 何も問題ないんでしょうけど」
岩崎はニヤリと笑って体を起こす。
「で、だ。片付けなきゃいけない電話が何本かあるんで、三十分くらいここに待機でいい?」
「うん、構わない。私もメールをチェックしたいし」
真希は頷いて鞄からPCを取り出した。
それからメールをチェックし、その内のいくつかに返信した後、フロアの方に目を向ける。
岩崎は他の多くの者と同じように受話器を肩に挟み、何やら熱心に話しながらPCを操作していた。
手許の時計を確認すると二十分ほど経っている。
三十分で終わるのかしら?
ま、別に急いでいるわけではないからいいのだけれど。
「じゃあ、こっちに手を付けるか……」
今度は論文を呼び出して、添削された部分の手直しに取り掛かることにする。
「――見かけない顔だな。どちらさん?」
いつの間にか没頭していた真希は、突然話しかけられて我に返った。
テーブルの向こうに立っているのは、ネクタイを緩め、ワイシャツの袖を捲り上げた男だ。
三十代前半だろうか、コーヒーカップを片手に、もう一方の手はズボンのポケットに突っ込んだまま、興味深げにこちらを見下ろしている。
真希は目を瞬かせた。
「そう、お宅のこと」
男は軽く頷くと、コーヒーカップで真希を示し、それをそのまま口許に運ぶ。
初対面の相手に対してやけに不躾な態度だが、真希は作業を中断して答えた。
「先端技研の広田です」
「先端技研! それはそれは」
大袈裟にそう口にすると、男は断りもなく斜め前の席に腰掛ける。
「俺たち営業が稼いだ金を、毎年ただただジャカスカ使い込むだけの、先端技研のヒト」
喧嘩を売られてるの?
口許に皮肉っぽい笑みを浮かべた男は椅子の背に身体を預け、真希の反応を窺うようにこちらをじっと見つめている。
「その表現は間違いじゃありませんが、正しくはないですね」
しかし、真希が淡々とそう答えると、男はぽかんと口を開けた。
「……間違いじゃないのか?」
「仰る通り、我々先端技研は毎年主に営業が稼いだ利益から予算をたっぷり頂いて、ジャカスカ使わせていただいておりますから。但し、正しくはないとも申し上げました」
「どこがだ」
男はふんと鼻を鳴らす。
「ただただ使い込んでいるわけではありませんので。失礼ですが、営業の――」
「鏑木だ」
真希は薄く笑みを浮かべて小さく頷いた。
「では鏑木さん。あなた方営業が今扱っている製品の様々な技術は、本を正せば五年だか十年だかもしくはもっと以前に、当時の営業が稼いだ金をジャカスカ使って、先端技研が研究していたものの一部のはずです」
「かもな」
座談会と似たような話題じゃない?
まだ与えられた課題をこなすのに精一杯である真希が語ったところで、所詮理想論でしかないのだけれど、と思いつつ、真希は言葉を継ぐ。
「結果的に成果が出ない研究もないわけではありませんが、我々先端技研への投資は、未来への布石です。いつだったかどこぞの政治家が『二番じゃいけないのか』とほざいていたことがありましたが、事、技術の世界に関しては、二番手ではもちろんいけないんです。一番であることにこそ、技術的にも商業的にも意味と意義があります。そして、一番であることには、あるいは一番であり続けるには、金と時間と手が掛かるものなんです」
そう言い切ると、向かいの席から面白がるような声が返って来た。
「お宅たちは、俺たちのために働いているわけじゃないってわけか」
「語弊を恐れずに言えばその通りです。それはどちらかといえば生産技研の役割です。私たちは、未来の――」
「営業のために働いている」
「いいえ」
鏑木がすっと目を眇め、揶揄するように口にする。
「ああ。もっと大義のために働いていると言うのか。技術の革新やら人類の発展とやらの?」
「滅相もない。そういったお題目を唱えてやるのは大学の研究室ですよ。私たちはそんな大義やいち部署のためではなく、もっと身近な、それを手にする消費者のため、それを作る未来のテクニカのために働いているんです」
当たり前じゃないですか、といった口調で返すと、一瞬の沈黙の後、大きな笑い声が弾けた。
「――うっし、気に入ったっ!」
「っは?」
真希が呆気に取られていると、鏑木の背後に人影が立つ。
「お久しぶり、広田さん」
「え? あ……ああ、古川君、お久しぶり」
「で、鏑木さんは、こんな所で何しているんですか」
「おう古川。こちらさんはお前の知り合いか?」
肩越しに振り返りながら、鏑木が真希をコーヒーカップで差した。
うむ。
やっぱり不遜な人だ。
「同期ですよ。岩崎さん、自分が電話で席を外せないもんだから、帰ってきたばかりの俺にこっちをどうにかしろって、身振り手振りつきの百面相で煩いのなんのって」
古川の視線を追うと、相変わらず受話器を耳に当てた岩崎が、こちらを気にしながら苛々と立ったり座ったりを繰り返している。
「どうにか?」
真希が首を傾けると、古川が苦笑した。
「この人『闘犬の鏑木』っていって、割と見境なく咬みつくんで有名なんだ」
「……確かに咬みつかれた」
「甘噛みだ」
平然とそう返す鏑木に、真希は思わず半眼になる。
「キモイですよ、鏑木さん」
古川も冷たく言い放つ。
「煩い。俺はちょっとした議論を楽しんでいただけだ。本気で咬みつく時にはちゃんと喉元を狙う」
「闘犬じゃなくて狂犬じゃないの?」
ぼそっと真希が呟くと、古川が俯いて肩で笑った。
真希のそんなセリフをあっさり聞き流した鏑木は、コーヒーをくいと飲んでニヤリと笑う。
「しかし、研究所の人間とやり合うのは、何というかスリルがあるな」
「スリルですか?」
真希は片眉を跳ね上げた。
「言葉の温度と角度が違うんだな。こう、冷静でスパンと脇を抜かれる感じでだな」
鏑木が身体の前を斜め上に、ラケットを振り抜く身振りをする。
「それ、卓球ですよね」
古川が指摘した。
「あ゛? 悪いか」
「いや……普通そういう時振るのはテニスのラケットじゃないですか?」
「お前、卓球のスピード感を舐めてるな」
「別に舐めてませんけど」
「いいや。今一瞬、お前の目は俺を蔑んでいた」
目の前で始まった不毛な言い争いもまた、鏑木が言うところの甘噛みの一種なのだろうか。
この状態じゃ作業は続けられなそうだと踏んで、真希はPCをシャットダウンすることにした。
「まったく! 広田さんてば面倒なのばっかり引っ掛けて、もうっ」
画面を閉じて顔を上げると、いつの間にか岩崎が腰に手を当てて仁王立ちしている。
「電話は終わったの?」
「全部片付けた。ってか古川君! あんたも鏑木さんがご馳走の周りをウロウロしているのわかってたら、さっさと引き離さないと、喰い散らかされちゃうでしょっ」
「広田さんは喰い散らかされるようなタイプじゃないだろう? うっかり歯を立てたら歯の方が折れる」
古川がくすっと笑った。
「実際、鏑木さんは甘噛みしただけだって言ってる」
「キッモ」
岩崎が口許を引き攣らせる。
「うるせー。お前如きは噛む気にもならんぞ」
「そして酷っ!」
がはは、と笑いながら席を立った鏑木は、「んじゃな」と手を上げフロアに向かう。
「あのっ」
真希はその背に思わず声を掛けた。
「ちゃんと、いい研究します」
いつか誰かの日常に役立つような。
そして、自分自身の経験論として語れるように。
ちらりと振り返った鏑木が、ぴっと二指敬礼を投げる。
「……闘犬を手懐けるとは、さすが広田さん」
古川が感心したように呟く。
「売られた喧嘩、買っただけですけど」
「わかってないし。ほら、古川君。あんたも行くわよ」
「お前な。俺、今帰って来たばっか」
「三十分だ」
「……お供仕りますよ」
ため息を吐く古川に向かって、岩崎が「よし」と機嫌よく頷いた。
* * *
とはいえ、会社近くの居酒屋に着いたのは一時間後である。
「お疲れー」
ビールのジョッキをそれぞれと打ち合わせた岩崎が、ぐいとそれを呷った。
「今日の座談会、意外と面白かったね。部署名は知っていても、実際どんな仕事しているのかって、案外わかってないって思った。法務とか、よっぽどのトラブルでもない限り、私たちのレベルでお世話になることないし」
真希もジョッキを傾けながら頷く。
「所属によるかもね。私たちにとっては、特許の申請で割とよく知る部署のひとつだけど」
「ああ、なるほどそういったことも手掛けているのか」
「でも、資材調達に関して言えば、初めてその実態を知った」
「私も。工場を滞りなく回していくための数や納期や単価の見極めとか、へえぇって感じ。……ところで」
枝豆を手に、岩崎が身を寄せて来た。
「広報とはどういった繋がり?」
「今回の座談会の主催ってだけじゃないのか?」
静かにジョッキを傾けていた古川が、向かいの席で眉を上げる。
「それがね」
岩崎が今日の経緯を語り始めた。
「――柳瀬さんと?」
「そう、殿下と」
二人の会話を無視して、真希は黙々と枝豆を口に運ぶ。
「“真希さん”って呼ばれてたよね」
視線を上げると、岩崎の興味津々な顔が目に入った。
まあ、確かに気になるわよね、あんなやり取り目の前で見たら。
真希は小さくため息を吐くと、かいつまんで事情を話すことにした。
「大したことじゃないのよ。父の仕事の関係で、この間、たまたま一度顔を合わせたというだけで」
「お父さんは、何やってる人?」
古川が、運ばれてきたホッケを崩しながら尋ねる。
「某大学の教授」
「で、うちの広報が?」
「そう。父の研究室に来ていたの」
「ふぅん」
岩崎がそこで口を挟んだ。
「でも、何で“真希さん”?」
「ああ、それは父と呼び分けるためというか」
「お父さん、教授なんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、お父さんを“先生”とか“教授”って呼べば済むことじゃないの。ってか、そう呼ばれてるんじゃないの?」
「――う゛」
学生が皆そう呼ぶものだから、ついついあの時押し切られて……
「ほらこれだ」
岩崎がふふんと笑う。
「足元掬われまくり」
そんなことはない。
――はずだったのだけれど。
真希は少しへこんだ。