とある依頼
「お帰り。早々に社食を出た割にゆっくりだったね」
フロアに戻ると、岡戸が缶コーヒーを飲みながら声を掛けてきた。
「安西さんにばったりお会いして」
さっと鋭い視線を向けてきた朝倉に、真希は小さく首を振って何も言っていないと伝える。
曰くセンシティブなお話ですからね。
それにしても、その存在さえ怪しい“柳瀬某”にまだ拘っているなんて。
何でそんなに神経を尖らせているんだろうと引っ掛かりを覚えたものの、続く岡戸の言葉に注意が削がれた。
「論文の方の探りでも入れられた?」
「というより、愚痴られたというか」
あはは、と岡戸が笑いながら頷く。
「彼女、前から偵察と言いつつ、ここに愚痴りに来てたしね。で? 樋川君どうだって?」
「光半Gのフロアまで顔を出してきたんですけど、ちょとピリピリしているみたいです」
「ふぅん。そういえば、最近社食でも見かけないな」
「お昼を抜くこともあるみたいで、安西さんも心配していました」
「え? 所内発表、結構いい感じでまとまってたよね?」
「追加データで手こずっているらしいです」
「ああー。あの手の実験は時間が掛かるからなぁ。しかもこう、因果関係が一目瞭然なデータが欲しいし」
「そこそこのものは出ているって聞いているんですけど、本人が納得していないみたいですね。もしかしたら、安西さんは私をダシにして樋川君を諭そうとしていたのかも」
「広田さんをダシに?」
「当人同士だとエキサイトするばっかりのようなこと仰ってましたし。でも、私がいたところで大した歯止めにはなっていなかったような……」
目の前で繰り広げられた言葉の小競り合いを思い出して、真希は腕を組み、うぅむ、と首を捻った。
「樋川君て、おちゃらけた態度を装いつつ、基本クールでドライなイメージがあったんですけど」
安西の前ではノーガードというか。
岡戸がニヤリと笑って真希の方に身を乗り出してきた。
「あの安西さん相手じゃ、流石の樋川君もクールでドライってわけにいかないんでしょ。朝倉君が広田さん相手にクールでもドライでもいられないみたいにさ」
でもあれは、言葉の立ち回りにちゃんと付き合ってくれると、お互いわかりあっているからこそのやり取りのような気がする。
単に安西が煽って、樋川が煽られて、というよりは。
果たして真希と朝倉の間にも、そういったものが――?
いやまさか。
そんな親密なものは、まだ。
――まだ。
思考が迷子になりそうで、真希は慌てて手近な話題に飛びついた。
「私が安西さんと同じ枠にカテゴライズされるというのが、ちょっと納得できません」
「え゛。そこなの?」
「そこです!」
朝倉がため息を吐きながら口を挟む。
「――岡戸さん。そうやって俺や広田さんで遊ばないで下さい。ほら、昼休み終わりますよ」
「へーいへい。お邪魔様でした」
そう言ってニヘラと笑うと、岡戸はくるりと椅子を回転させ自分の島へと戻っていった。
「広田さんも、自分の仕事にさっさと取り掛かる」
「了解です」
朝倉に促されて、真希もPCを再起動させ、メールをチェックする。
どうやら英文添削が済んだ原稿が、戻ってきているようだ。
岡戸の思わせぶりな言葉に、気を取られている暇はない。
樋川同様、真希とて論文の締め切りと新規プロジェクトに追われる新人研究員なのだ。
添付ファイルを開き、真希はそれに意識を集中させる。
“自分なりに出来ることと、しなくちゃいけないこと”
安西のチューターが言ったという言葉が耳に残る。
そう、今の真希はまだ“自分なりに出来ること”を模索している最中だし、“しなくちゃいけないこと”はただただひたすらに多い。
外線の着信音で、不意にその集中が切れた。
ちらりと時刻を確認すると、三時になる手前だ。
「テクニカ先端技術研究所、広田です」
PC画面上の原稿に目を向けたまま、真希は電話を受けた。
「広報の柳瀬です」
「――っ」
電話口で聞くことになるとは思っていなかった名前に、PCから視線が浮く。
「先日はどうも」
「いえ、こちらこそ……」
そういえば別れ際、『先端技術研究所の広田真希さん』と呼ばれたのだった。
名刺の交換をしていなくても、社内ネットワークには個人に割り当てられた電話番号が当然載っている。
恐らくそれを当たって連絡してきたのだろう。
でも、何のために?
真希の用心深い反応に、笑いを含んだ声が告げた。
「ああ、心配しないで。半分私情を挟んでますが、一応仕事の依頼で電話してます」
全然安心できないんですけど、そのセリフ。
「実はね。新卒対象の就職情報誌で、我が社の特集が組まれる予定なんです。その中で、“活躍する女性社員”という企画があってね。広田さんに、研究職としてそれに出てもらえないかと思って」
「あの、まだ活躍はしていないかと……」
なにぶん、助走期間なもので。
柳瀬はふふっと笑うと、言葉を重ねる。
「謙虚だなぁ。そんな風には聞いてないけど?」
誰から何をですか、と思わず口を突いて出そうになった言葉を真希は呑み込む。
余計なことは、知らないに越したことはないのだ。
「それに、新卒対象って言ったでしょ? 実際彼らが知りたいのは、何年も先の自分の在り様じゃなくて、入社直後、自分がどんな風に働くことになるかじゃないのかな。他に、営業やバックオフィスからも数人出てもらう予定なんだけど」
「スケジュール的な問題もそうですけど、適任かどうかの判断もありますし、私の一存では何とも……」
ささやかな抵抗は、しかしあっさりと退けられた。
「ああ、それなら大丈夫。さっき先端技研の所長に話を通しておいたから、近いうちに部長経由で話を聞くことになると思います」
研究所のアピールが出来るとあれば、所長としても断る手はないだろう。
真希は小さく唸った。
広報の柳瀬にせよ、その存在が怪しまれてる先端技研の柳瀬にせよ、これっぽっちも関わり合うつもりはなかったのに。
こちらの想いを他所に、電話の向こうの声は軽やかに続く。
「広田さんは適任じゃないかな。先日研究室を案内してもらった時、その説明がとてもわかり易かった。君は自分の伝えたいことを、相手に理解しやすい言葉で伝えることが出来る」
「……ええと、ありがとう、ございます?」
「というわけで、取材の詳細が決まったらまたご連絡します」
つまり、決定事項ということだ。
「……了解しました」
それ以外答えようがないじゃないの、と思いつつ、真希は渋々頷く。
とはいえ、わざわざ電話をする労を執ってくれたのだし、一応礼の言葉を口にした。
「あの、ご丁寧にご連絡いただき、ありがとうございました」
「いやいや、口実ですから」
「――はいっ?」
「では、取材楽しみにしていますね、真希さん」
クスッと笑い声を残して、電話はふつりと切れた。
――何でこうなるかな。
受話器を置いて、真希はそのままデスクに深々と沈む。
全くお父さんめ。余計なことをしてくれおってからに。
それに柳瀬。
金曜日に会ったばかりだというのに、月曜日の午後にはここまで手配しているという手際の良さに腹が立つ。
しかし、ある事実に思い当たって、真希はぱっと顔を上げた。
“活躍する女性社員”という企画ならば、当然集まるのは女性ばかりだ。
しかも、こういった企画に選ばれる女性となれば、恐らく仕事のデキる自分に自信のあるタイプばかりに違いない。
彼女たちはもちろん、柳瀬を見逃さないだろう。
ということは、あんまり心配する必要ないんじゃない?
「百面相か」
真希はハッと我に返った。
朝倉が不審気にこちらを眺めている。
「顔が大忙しだった」
「実は頭も大忙しだったんですよ」
ここで依頼の内容を明かすには、電話が広報からだと伝えねばならないし、ひょんなことから電話の主が柳瀬だとバレないとも限らない。
そこで真希は、ははっと笑って誤魔化し、再びPCに向かった。
これ以上、面倒な展開はごめんだ。