視線が語るもの
世間話をしながらも、思わせぶりな視線を向けてくる岡戸と、黙々と箸を口に運びながら、こちらも何やら意味ありげな視線を向けてくる朝倉。
視線で語り合う仲になった覚えはないんですけど。
真希は居心地の悪いランチタイムを早々に切り上げて、社員食堂を後にすることにした。
「食べた気がしないし」
食欲中枢の不満を解消するべくふらりと売店に足を向けると、そこには大した吟味もせずにおにぎりや飲み物をカゴに放り込む安西の姿があった。
「お昼はおにぎり……って、随分多くないですか?」
プリン・ア・ラ・モードを手に声を掛けると、くるりと振り向いた安西の目が何やら据わっている。
「あぁら、広田さん」
おっと。これは拙いタイミングで声を掛けてしまったのかもしれない。
「広田さんもお昼の調達――ってわけじゃなさそうね」
「ええ、まあ、一応、社食で済ませてきました」
「……ふぅん」
安西は真希の手からプリン・ア・ラ・モードをひょいと取り上げると、にっこりと微笑んだ。
「これ、ご馳走してあげるから、ちょっと付き合ってくれない?」
「ええと」
「忙しい?」
「そういうわけでも……」
「じゃあ、決まり」
レジに向かう途中で、これまた無造作にコーヒーゼリーとエクレアをカゴに放り込む安西の後を、真希は取り敢えずついていく。
「ところで広田さん、論文の方はどう?」
会計を済ませると、安西はビニール袋をぶらぶらと揺らしながら歩き始めた。
どうやら社員食堂でも休憩所でもなく、光半導体研究グループのフロアに向かっているらしい。
「ぼちぼちってとこでしょうか。皆さん、そうやって気に掛けて下さるので心強いです」
不意に立ち止まった安西は、がしっと真希の肩に手を掛ける。
「これよっ! これなのよ、私が求めている反応はっ!」
「……何となく、仰りたいことは理解しました」
真希は安西が手にしたビニール袋を指差して尋ねた。
ひとり分にしてはやけに多かったその中身はたぶん。
「もしかして樋川君の分、ですか?」
「もしかしなくてもヤツの分」
安西は、はあっ、とため息を吐くと再び歩き始める。
「樋川君の場合、もう少しデータの補強が必要でね。論文書きながら実験を重ねてるけど、なかなかこう、いいのがあがってこなくて、ちょっと余裕をなくしてる。その上、次世代集積回路の方にも私共々お呼びが掛かったじゃない?」
これは真希も加わっているプロジェクトのことだ。
樋川たちは増幅装置の設計を、真希たちはその受け側の装置設計を担当する。
「ヤツが何て言おうとしたかわかる? “論文の目処がつかない状態で、新しいことに取り組む余裕はありません”」
「それをグループリーダーに?」
「察して止めた。“頑張ります”と言わせて、慌てて席に回収したわよ。“断ろうとしたでしょう”って詰め寄ったら、案の定」
「ツーとカーですね」
「それ全然嬉しくない」
むっつりと答えると、安西は俄かに人差し指を振り立てた。
「余裕はありませんとな? っは! あたしら組織に属する者はだな。ましてやお前の如きぺーぺーは! 上から何か言われたら、例えそれがどんなに理不尽だろうが無茶だろうが、まずは“はい、喜んで!”と答えて然るべきだろうがっ!」
指先がくるっと回って、真希の鼻先に止まる。
「――と言った私は間違っていない」
「居酒屋さんみたいですね」
一瞬よろめいた安西は、しかし気を取り直したように頷いた。
「居酒屋って……でもまあ、その通りよ。チャンスが誰にでも等しく平らかに与えられるなんて幻想だし、それを有り難くも与えてくれるというなら一も二もなく掴むべき」
「“はい、喜んで!”ってですか?」
「そう。例えそれが自分の専門分野から外れていて、明らかに苦戦しそうな案件でもね」
「樋川君にとっては、そういうオファーだったと」
まぁね、と安西が肩を竦め、髪を掻き上げる。
「以来、ヤツはこれ見よがしにデスクにかじりついているわけ。全く、扱いづらいったら」
真希は少し躊躇いつつ口にした。
「――あの。樋川君は、完璧主義なところがあって」
「知ってる」
「自分の能力に対する自負もあって」
「それも知ってる。プライド、エベレスト級よね。でも、プライドで飯は食えないの。泥臭く愚直に結果を出していくしかないのよ。専門外なら勉強しろ。文句があるならやってから言え。やってもいないうちから、出来ない言い訳するなっつーの」
安西はシニカルに言葉を重ねる。
「世の中にはね、二種類の人間しかいないのよ」
わかる? というように片眉が跳ね上げられた。
「やる人か、やらない人か。出来るかどうかじゃないの。やるか、やらないか」
経験からくる重い言葉だ。
真希は心にそれを刻む。
「でもね、やればいいってもんでもないってのが難しいところで。……まあ、論文の提出期限が迫っているのに、実験の結果は出ないし新しい仕事を言い渡されるし、その上、優秀な同期がいてプレッシャーが掛かるのはわかるんだけど」
「そうですかね?」
真希は首を傾ける。
「樋川君、私たち同期のことなんて眼中にないと思いますけど。プレッシャーを感じているのは、主に目の前にいる優秀な先輩に対してなんじゃないですか」
「――確かに私は優秀だけど?」
安西は、んふっと笑って、ビニール袋をぶんと振った。
……プリン・ア・ラ・モードは無事だろうか。
昼休みの光半Gのフロアは、当然人影もまばらだ。
そんなフロアの中央付近の島で、樋川がPCに向き合っているのが見えた。
隣で安西は、ふぅと強く息を吐くと背筋をピンと伸ばし、ヒールの音をたてながらそこに近付いていく。
そして、PCから顔も上げない樋川の目の前で、ビニール袋をこれ見よがしにちらつかせた。
「――」
「はい、ランチタイム」
「腹減ってません」
子供の意地の張り合いのようだ。
当人たちにとっては至極真面目なやり取りでも、端から見ると笑える。
図らずも岡戸の気持ちがわかったような気がして、真希は思わず噴き出した。
樋川の視線が突き刺さる。
「何で、広田さんいるの」
笑いを呑み込んで、真希はしれっとした態度を装った。
「プリン・ア・ラ・モードをご馳走になりに」
その途端、減っていないはずの樋川のお腹がぐうと鳴る。
「キミの優秀な頭脳は諸々の煩悩を超越しているのかもしれないけど、身体の方はもうちょっと即物的なのではないかしら」
安西はそう言って、おにぎりをいくつかと緑茶を取り出し樋川のPCの横に置く。
それから隣の席の椅子を引き出すと、真希に「座って」と促した。
渡されたプリン・ア・ラ・モードは、やっぱりクリームが崩れフルーツが傾いていたが、有難く受け取る。
「連日、こんな陰々滅々とした空気に晒されていると、たまには女同士でたわいのないおしゃべりをしたくもなるというものよ」
頑なにPCに向かっていた樋川が、おにぎりを手にした安西の向こうで、ぴくりと肩を揺らす。
「そういうのは、社食か休憩室でやって下さい」
「私だってそうしたいけど、それじゃ樋川君がお昼を摂ったかどうか確認できないじゃないの。私の差し入れなんだから、ちゃんと食べなさいよ」
「そういえば樋川君、少し痩せた?」
真希はクリームを掬って口に運びながら、ひょいと身を乗り出して樋川の横顔を眺めた。
「そう言われてみれば、そうかも」
安西がおにぎりを頬張りながら同意する。
「こめかみがピクピクしているのが見えるとか、顔の肉が落ちたのかしら」
やにわにバリバリとセロファンを破り、樋川がおにぎりにかぶりつく。
それを横目で確認すると、安西は真希に向かって目を剥き口をへの字に曲げて、小さく首を振ってみせた。
“やれやれ、世話の焼ける”ってとこ?
安西と視線で会話をするようになるとは。
真希は内心苦笑した。
「それで、広田さんは例のプロジェクトで回路設計もやるの?」
「ええ、一応」
プリンの甘味を味わいながら頷く。
「そっか。樋川君と同じ電気出身だっけ?」
「安西さんは、違うんですか?」
「ん? 私は材料やってた」
「ええっ!」
「びっくりよね。私もびっくり」
安西はあはは、と笑うとウーロン茶をぐいと呷った。
「だって、大学で扱ってたのは鉄よ? 研究室で鉄鍋作って、皆でおでんパーティーしてみたり。すっごいキーンとした味がしたけど」
「うっわ、それはまた……」
金属っぽい味を想像して、真希は顔を顰める。
「まさか、自分が電気をやることになるとは思わなかったわ。玉突き人事でここに配属されたらしいんだけど、ちょっと途方にくれた」
「安西さんがですか?」
想像上の金属の味を消し去るべく、プリンを口に運びながら尋ねた。
「テーマ企画からして大苦戦よ。与えられたテーマにどうアプローチしていいのか見当もつかなくて」
「でも専門外なのに、五年でそこまでになるって凄いです」
「“自分なりに出来ることと、しなくちゃいけないことを考えろ”って、チューターだった人に言われたの」
「“出来ることと、しなくちゃいけないこと”ですか」
「そう。基盤も配線も、鉄じゃないけど金属を使っている。だったら、そういったアプローチで何か出来るかもしれない。電気の常識を知らないから、そういったものに囚われないで考えることが出来るかもしれない。だけど、基本的なことは知っていなくちゃいけないから、そっちの知識を大急ぎで詰め込まないといけない」
そう、安西はやる人なのだ、もちろん。
「でも、“しなくちゃいけないこと”があんまり多すぎたし、成果を焦ってもいたんでしょうね。出社して気付くと退社時間をとうに過ぎていてを繰り返してたら、ある時ぶっ倒れたわけ」
「ああ――……」
真希と、安西の向こう側に座る樋川の視線がぶつかった。
“なんだよ”って感じ?
「つまり」
真希は視線を安西に戻すと、クリームをぱくりと口にする。
「安西さんは樋川君に自分を見てしまうと」
「そう。思い出したくない、痛々しい自分がソコにいるわけ」
「僕は、ぶっ倒れるようなみっともない真似しません」
ぐるんと椅子を回した安西が、樋川の額をぺチと叩いた。
「愚か者。自分の顔をよーく鏡で見てこい。げっそりしちゃって、みんな心配してる。身体が持ってもメンタルがイっちゃうことだってあるんだからね」
「……」
「十時間以上掛けてやる必要がある実験なのに、苛々しているから思わぬミスをする。当然求める結果が出るはずもないから、同じ実験をまた十時間以上掛けてやらなければならない。それが更に苛々を生む。何回それを繰り返してる? まさに悪循環じゃないの」
安西と樋川がバチバチと火花を散らす様を、真希はスプーンを咥えながら見守る。
苛立ちと、怒りと、反発と、それから――あの、樋川の目に宿るものは何なのだろう。
真希の考え込むような眼差しに気付くと、樋川はスッと目を伏せ、再び手にしたおにぎりを頬張った。
「まったく」
くるりとこちらに向き直った安西が、がさごそとビニールを漁りながら言う。
「もう少し自分を信じてあげなさいよ」
肩越しに差し出されたコーヒーゼリーを、樋川が何ともいえない表情で見つめた。
「ほらっ」
ぶんぶんと振られたそれを受け取り、「ありがとうございます」と、ぼそっと口にした樋川は――
「あれ。樋川君、熱でもある? 何か、顔が赤い」
「――ええっ!」」
真希の言葉に安西が慌てて立ち上がり、樋川の額に手を伸ばす。
「いや、ないないっ! 何言ってんの、広田さん!」
その手を必死で躱しながら、樋川がこちらを睨む。
「だって、赤いよ」
「そうよ、赤いわよ」
「ほんと、マジで! 大丈夫ですって!」
「何でそんなムキになってるの? まさか本当に体調悪いの押してやってるんじゃないでしょうね」
「なわけないじゃないですかっ。熱なんかあったら、安西さんとこんな風にやりあえませんよ」
「何気に失礼なことを言われているような気がするな」
「事実を言ってるまでですよ」
丁々発止のやりとりを眺めながら、真希はカップの中身を掻き寄せ、最後のひと匙を平らげた。
何となくお邪魔な感じ?
「ご馳走様でした」
二人がハッとしたように、真希を振り向く。
視線が語るものは時々難しくて、理解できないことがある。
だけど今、二人の視線が語っていることは真希にも容易に理解できた。
曰く、“こいつの存在忘れてた”
真希はクスッと笑いながら席を立つ。
「ええと、プリン・ア・ラ・モードをご馳走様でした、安西さん。色々お話しできて楽しかったです。では、私はこれで。それから樋川君、お大事に」
「だから違うって!」
樋川の叫びを背に、真希は光半Gのフロアを後にした。