君子危うきに
「どうだった、修さんとのデートは」
後ろから声を掛けられて、真希は振り返った。
「おはようございます」
「おはよう」
朝倉が真希の隣に並ぶ。
月曜の朝八時半とはいえ、フレックスだったり裁量労働制だったりで同僚たちの出勤時間はまちまちだ。
そんな中で、真希もそうだが朝倉は割とコンスタントに朝が早い。
「デートですか? 修さんは古くて新しい思い出を手に入れて、また亀のように過去の中に首を引っ込めてしまいました」
「何だそれは」
くっくと笑いながら、朝倉は入館システムに社員証をかざした。
「実のところ、例の本妻に言われたことに影響されたか斜めの方向に暴走しかけてですね。でもまあ、これでウヤムヤに出来そうな気配です」
「どの辺りの斜めか、非常に気になるところだな」
ピ、と真希も社員証をかざし、朝倉の後に続く。
「父の中ではきちんと論理的な思考を経た上での行動だったようなんですが、私からしてみればトラップを仕掛けられたもいいところで」
真希はため息を吐いた。
父の方はどうにかなりそうだが――問題はそのトラップの方だ。
『ではまた』
あれが単なる社交辞令であればいいのだけれど。
それに、父はもうひとつ気になることを口にしていた……
「ところで、朝倉さん。つかぬことをお伺いしますが、先端技術研究所に柳瀬さんっていらっしゃいましたっけ?」
「――柳瀬?」
朝倉の声が僅かに強張ったのは、その意味するところに気付いたからであろう。
「そうです。柳瀬さんです。朝倉さんと年齢が前後するくらいだと思うんですけど」
あの“お勧め物件”は二十代のように見えたし、長男がまだ未婚だとすれば、研究所に勤めるという次男は三十代前半くらいか。
「――いや。聞かないな」
「ですよね」
真希はホッとして頷いた。
「私はまだ二年目ですけど、そういう関係の方が在籍していれば、さすがに耳にしているはずですし」
テクニカはいくつか研究所を擁しているし、父はそのうちのどこかと聞き違えたのだろう、たぶん。
「何だ。玉の輿狙いか」
その皮肉っぽい声音に、真希は肩を怒らせる。
「まさか! “君子危うきに近寄らず”ですよ」
「……広田さんが“君子”かどうかはさて置き、そいつは“危うき”にカテゴライズされるのか」
「当然です。面倒とトラブルのニオイがぷんぷんするじゃないですか。一応その所在を確認したのは、もし先端技術研究所に在籍しているなら、うっかりソレに近付かないようにするためです」
「ソレ扱いときたか……」
朝倉が苦笑混じりに呟く。
「因みに、仮にここに在籍していたところで、その“危うき”の方が“君子”に興味を示すかどうかはまた別の問題だということも重々承知しております、念のため」
「……もう手遅れだったりしてな」
「は? それはどういう……」
「俺はそういった名前を“聞いたことがない”と言っただけで、“在籍していない”とは言っていない」
真希は目を見開いて立ち止まった。
「まさか、暗黙の了解でこっそり在籍している?」
と、軽く頭を叩かれる。
「――冗談だ」
「性格わるっ」
憤慨する真希に、朝倉が尋ねてきた。
「ガセにせよ、どこでそんな情報を拾ってきた?」
「――え?」
「ピンポイントで先端技術研究所の名をあげただろう。年齢も具体的だった。俺はそんな話、初めて耳にしたが」
「どこでって……」
それは修さんが、ぽろりと。
でもって、年齢は“お勧め物件”からの推測。
――どちらも正直には話しづらい。
次男が研究所に在籍って、極秘事項か何かなの?
「やあやあ、おはよう、お二人さん。朝から見つめ合っちゃって、何事?」
岡戸の登場に、真希は返答を免れた。
「見つめ合っちゃいませんよ、岡戸さん。広田さんの論文の件で、ちょっと話していただけです」
朝倉がそう言って、すっとフロアの中に歩を進める。
ほぉう、と思わせぶりに頷きながら、岡戸がその後に続いた。
真希は暫くその場に立ち止まったまま、小首を傾げる。
つまり、次男は先端技術研究所にはいないってことでいいのよね?
週明けの慌ただしさに紛れて、そんな会話を交わしたこともすっかり忘れかけていたのだが――
「広田さん」
社員食堂に向かう廊下で、真希は朝倉に呼び止められた。
「今朝の話だが」
「今朝の? ……――ああ、“危うき”!」
一瞬何のことかわからなかった真希を、朝倉は拍子抜けしたように眺める。
「そんな調子じゃ心配するまでもなかったか。いやだが、社食で安西の姿を目にしたら、ついでにヤツにも聞いてみようって気を起こさないとも限らないからな」
「なるほど! 安西さんならその手の情報を抜かりなく押さえていそうですよね」
「いやだからだな。そういうセンシティブな話は、あまり口にしない方がいい」
「センシティブ」
「この手の話は、あっという間に尾ひれがついて回るのも早い。ここにいるかもしれないが、いつの間にかここにいるということになりかねない」
「はあ」
「本当にいないならいいが、もしいたら?」
「いるんですか!?」
「もしと言っただろう」
朝倉が呆れたようにため息を吐く。
だって、紛らわしい言い方をするから!
「……脅かさないで下さいよ」
「柳瀬という名は聞いたことがない。だが、仮にここに在籍しているとなれば、名を変えているということだ。それは何故だと思う」
「本人がそれと知られたくないから、でしょうね」
「だとしたら、この手の話が流れたのを面白く思わないだろうし、どこから流れたのか当然探るだろうな」
「……それは本末転倒な成り行き」
うっかり近付かないどころか、ばっちりサーチされちゃうとか。
真希は朝倉に向き直って、きっぱりと言った。
「朝倉さん、この話は聞かなかったことに」
了解、というように片眉を跳ね上げると、朝倉は僅かに身を寄せてくる。
「ところで――」
「ほらほらほら、またこんな所で。君たち、そういうこと?」
言葉を遮られた朝倉は一瞬何かを堪えるように目を瞑ると、身体をゆっくり起こして岡戸を振り返った。
「岡戸さん。“そういうこと”とはどういうことですか」
「どういうことって、それは」
二人の顔を見比べながら、岡戸はニヤリと笑う。
「広田さんの論文の件は、そんなに煮詰まってるのかなってこと?」
はぁあっと思い切り大きくため息を吐いて、朝倉は社員食堂に向かって歩き出した。
「えっ、何でスルー? 俺は同じグループの先輩として二人をば心配してだな」
「白々しいですよ、岡戸さん。絶対何か勘違いして、面白がってますよね」
真希がすかさず突っ込む。
「勘違いなの?」
「勘違いもいいところです」
そう言って歩き出した真希の隣に、岡戸が肩を並べた。
「でもさ。朝倉君変わったんだよねぇ。前はもっと四方に壁をぶち建てていて、誰も寄せ付けない感じだったんだけど」
「今だって、たいして変わらないんじゃありません? 基本的に無愛想ですし、その上私に対しては無遠慮ですよ」
「そこだよ」
岡戸は真希に人差し指を突きつける。
「無遠慮ってことは、無関心じゃないってことだろう?」
「私と朝倉さんがたまたま男女であるというだけで、そこに意味を置きすぎなんじゃありません? 朝倉さんは“新人研究員を指導する”という課題を与えられているんですよ。当の朝倉さんが、その新人研究員に無関心だったらお話にならないじゃないですか」
「……それはそうかもしれないけどね」
真希に突き付けられた人差し指は、変なリズムを刻みながら岡戸の胸元に戻って行った。
そのまま並んで社員食堂に行くと、ランチを注文し、何となく岡戸とテーブルを囲むことになる。
「妙な組み合わせですよね」
真希の言葉に、岡戸がふふんと笑った。
「今はね」
カタン、と音がして、岡戸の隣にランチの乗ったトレーが置かれる。
「ほら、違和感なくなったでしょ」
朝倉がむっつり座って、「いただきます」と箸を取った。