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スペインの夜

涼やかな風が街路樹の葉をざわりと揺らし、日中の熱気を払って過ぎてゆく。

薄明かりの残る空には、ひとつ、またひとつと星が瞬き始めた。

娘にあんな面倒な物件を斡旋しようとした父に、ひと言もの申しておかねば――そう思いつつ真希はため息を吐く。

こんなことを考えた理由は、何となく想像がついた。

斎藤の言葉に触発されたに違いないのだ。

“自分自身のこれからの幸せを真剣に考えるべきだ”というそのメッセージは、どうやら父に、“娘を全然知らない男に突然掻っ攫われたら”という見当違いの危機感を抱かせることになってしまったらしい。

それにしても。

あの時少し考え込むような素振りを見せてはいたけれど、まさかこんな直截に解決しようとするとは……

隣を歩く父は、先程から思ったような結果が出ない今の研究について、ああでもないこうでもないと楽しそうに語っている。

それに半ばうわの空で相槌を打つうち、いつの間にやら目的地に着いたようだ。


「ここ、久しぶりだろう?」


蔦の這う漆喰の壁に、鎧戸の付いた窓。入り口には傘の付いたランプ。

Casa(カサ) de() Takamori(タカモリ)は、大学にほど近い老舗スペイン料理店だ。

鋳鉄でかしめられた重い木のドアを、ぎ、と音を立てて開き、低い騒めきと穏やかな琥珀色の灯りの中に足を踏み入れる。

すると奥から、ふさふさとした白髪と白い口髭の男性がにこやかに声を掛けてきた。


「おや先生、いらっしゃい」


黒いベストに黒いパンツ。白いシャツをラフに着こなすオーナーは、八十に手が届こうかという年であるはずなのに、何となく色っぽい雰囲気の男性だ。


「お二人ですね?」


父の向こうからひょいとこちらを覗き込んだ目が、パチパチと瞬く。


「あれ。誰かと思ったら真希ちゃん」

「こんばんは。ご無沙汰してます」


この店には、母が生きていたころから家族で時々通っていたので顔馴染みだ。

しかし就職してからは父の勤め先まで出向くことも無くなって、少し足が遠退いていた。


「今日は生演奏があるよ。楽しんでいって」


席まで案内してくれたオーナーが、メニューを差し出してにっこりと微笑む。

本日のお勧めなど聞きながら、小皿料理をいくつかと、パエリア、グラスワインをオーダーし、オーナーが立ち去ると、真希は徐に切り出した。


「ねえ、お父さん」


おしぼりで手を拭きながら、何だ、というように父がこちらに目を向ける。


「今日の……柳瀬さん、どう思った?」

「……真希。それは、お父さんのセリフなんじゃないのかな」

「いいから」


無表情で促すと、父は、そうだな、と中空を見上げた。


「すらっと背が高くて、なかなかの美男子だったね。それに、礼儀正しいけれどそこそこ押しも強くて、仕事が出来そうな印象を受けたかな」

「だよね?」


父に向かって手をつき出し、指を立てて数え上げる。


「ひとつ。あのルックス。二つ。あの如才ない振舞い。三つ。あの出自」


真希はずいとテーブルに身を乗り出し、言葉を重ねた。


「ああいうヒトは、放っておいても女の人がわらわらと寄って来るの」


父はきょとんとする。


「寄って来る女の人が、必ずしも彼の寄って来てほしい女の人とは限らないだろう?」

「その理屈で言えば、お父さんたちに押し付けられた私だって同じじゃない。それに、ああいうハイスペックな男の人に自ら寄って行くような女の人は、綺麗で頭が良くて家柄も良くて、しかも自分に自信があるとっても厄介なタイプだったりするの。娘をその仁義なき戦いの渦中に放り込むつもり?」


まあ、参戦するつもりはサラサラないけどね!


「真希だって、有希さんに似て綺麗だし、大手企業の研究所に勤務するくらい頭だっていいし、一応大学教授の娘じゃないか」


ここに真性の親バカがいる……

ぐらり、と真希は仰け反った。


「それ、親の欲目というやつだから」


テーブルに、グラスワインと前菜の盛り合わせ、熱々の海老とマッシュルームのアヒージョが置かれる。


「ともかく! 柳瀬さんもこれでお父さんの顔を立てたことになるんだろうし、これ以上何も言ってこないと思うけど、ヘンな干渉するのはこれっきりにしてよね」


自らを“お勧め”と称するような、胡散くさい物件に用はないのだ。

そう息巻くと、真希はグラスワインを手にした。

父はそれにカチリとグラスを合わせると、これ見よがしに、ふぅ、とため息を吐く。

ため息を吐きたいのは、私なんですけど。

真希はグラスをくいと呷った。


「真希。素晴らしいものほど、欲しがる人は多いだろう? 彼の周りにそういう人が多いのは、仕方がないんじゃないのかな」

「あのね。好きになった人がたまたまそういう人だったら、私だって頑張ります。でもね。諸々面倒だとわかっている人を、敢えて好きになろうとは思いません」


海老とマッシュルームを小皿に取り分けながら、真希はきっぱりと言ってのける。

丁度その時、フラメンコギターを抱えた三十代くらいの男性が、フロアの奥にある小さな舞台に現れた。

彼は周囲に関心を示すことなく無造作に木の椅子に座り、ギターの弦を爪弾き少しチューニングする。

それからいきなり曲を奏で始めた。

アランフェス協奏曲だ。

グラスを片手に耳を傾け、奏者を眺めるともなく眺めながら父が言った。


「大学生の頃、有希さんはとても人気があってね。あの頃の理工学部には、今以上に女の子が少なかったこともあったけど、きっと溢れるように女の子がいたところで変わらなかったと思う」

「惚れた欲目というのじゃないの?」


茶化す真希に、父はふっと笑う。


「お前が言うところの仁義なき戦いに、僕は参戦したよ。僕よりも格好いい奴や優秀な奴、裕福な奴がいたけど、諦めようとは思わなかった。まあ、好きになった人が、たまたまそういう人だったからだと言えるのかもしれないけどね」

「そうね」

「でもなあ真希。所謂そういう条件で選ぶ(・・)っていうことと、はじく(・・・)っていうことは、どこが違うんだろう」

「――え?」

「表面的なことで判断しているのは同じなんじゃないか? 研究と同じことだよ。まずは事象・対象を自分の目できちんと確認する。それから判断する。確認を怠ったらいけないよ」


出た、正論の三段論法。

わらわらと寄って行くのと同じ理屈で拒絶していると言われれば、返す言葉もない。


「それに、もしかしたら運命の人かもしれないじゃないか」


――忘れていた。

父は、真性のロマンチストでもある。

自らがそういった人(有希さん)に出会ったがゆえに、誰にでもそういう人が存在していると信じているのだ。

もちろん、娘にも。

でも、そんな人に出会うことが本当に幸運なことなのか、真希には確信が持てない。


「――もし運命の人なら」


真希は、マッシュルームにフォークを刺し、ぱくりと頬張った。


「誰かの手を借りないでも、また会えるんじゃないのかしらね。そうしたら、その時改めて真剣に検討してみるわよ」


曲は、いつの間にか速く激しいものに変わっている。

奏者の指先が滑らかに弦を弾き、コッ、コッ、と盤面を叩く音が独特のリズムを刻む。


「スペインの曲って激しくて情熱的なのに、どうしてこんなに哀愁が漂うんだろう……」

「さてね。情熱というものの本質に、どこか仄暗いものが含まれているからかな」


ふっと父が笑う。


「光が強ければ強いほど、影が濃くなるのと一緒かもしれないね」


愛も同じだ。

その愛が深ければ深いほど、喪った時に傷付く。

ギターの音色に煽られたのかもしれない。

真希は何だかたまらない気持ちになった。

運命の人と出会えたとしても、その人をあっと言う間に喪ってしまったら、意味がないんじゃないの?


「お父さんは、お母さんと出会えて幸せだった?」

「もちろんだよ」

「あんなに早く、お父さんを残して死んじゃったのに?」


目を瞬かせた父が、穏やかな笑みを浮かべる。


「沢山の思い出と、真希を遺してくれただろう?」

「でも」


もうそこにはいないとわかっている人を、ずっと探し続けるような年月を送っているのに。


「一緒にいられた時間が短かったのは結果論だよ。最初からそうとわかっていたわけじゃないだろう? それに、長く一緒にいたところで幸せじゃない人たちだっている。短い時間だったけど、僕はとても幸せだったし、今だって幸せだよ」


真希は唇を噛んだ。


「そういう人に出会ったら、真希だってきっと僕の気持ちがわかんじゃないかな」

「……そんな人に出会わなくていいし、そんな気持ちはわからなくていい」


少し可笑しそうな顔をして、父が言う。


「それこそ、そういう人には出会おうとして出会えるものでもないし、だからこその運命なんだよ。誰にも避けられない」


科学者なのにそんな非科学的な事言ってていいのか、とか、じゃあ今回みたいな仕組まれた出会いは運命とは言えないんじゃないか、という文句は、テーブルにパエリアが運ばれたことによって呑み込まれた。


「はい、お待たせしました」


オーナー自らが運んでくれたパエリアは、シーフードがたっぷり入った豪華なものだ。

丁度曲が盛り上がった所だったのか、オーナーはテーブルの横で舞台に向かって手拍子(パルマ)を打ち、掛け声(ハレオ)を掛ける。


Toca(トカ) bien(ビエン)(いいギターだ)!」


こちらにチラリと視線を向けた奏者の無愛想な口許が、一瞬ニヤリと歪む。


「おっと、失礼」


オーナーがこちらに向き直り、パエリアを皿に取り分け始めた。


「この曲はね――」


今、演奏されている曲について、手を動かしながら解説してくれる。


「――フラメンコにも色々な曲種があるんだよ。どのような場で踊られるかによっても、地方によっても」

「オーナーは、フラメンコを踊るんですか?」

「ほんの少しね」


真希の問いにウィンクして答えると、二人の前にそれぞれ盛り付けた皿を置く。

それから一歩下がると、曲に合わせて手拍子を打ち、足を踏み鳴らした。


「おお。格好いい……」


すかさず舞台の奏者から掛け声が飛んでくる。


Baila(バイラ) bien(ビエン)(いい踊りだ)!」


ひゅうひゅうと周囲が囃し立てると、オーナーはポーズを決めて優雅にお辞儀をした。

あちこちから拍手が沸き起こる。

それににっこり応えてから、奏者の方に手を差し向け、再びその演奏に人々の意識を向けさせた。

客席に残る熱気を、ギターの音が更に掻き立てる。

くるりとこちらを振り向いたオーナーが、どうだった? というように首を傾けながら言った。


「真希ちゃん。今度はお父さんとじゃなくて彼氏を連れておいで」

「え゛」

「私がその男を見定めてあげるよ。何といっても、私は真希ちゃんのお母さんに、お父さんを見定めてくれって頼まれたことがあるんだからね」

「――っへ?」

「それは初耳です」


父が狼狽えた。


「私みたいに悪いことをいっぱいしてきたような男だったら、男を見る目も確かだろうってね」


あはは、とオーナーが笑う。


「女子大生の目には、私はかなり悪い男に映っていたらしい」

「当時の僕は、合格をもらえたってことなんでしょうか」


苦笑いする父に、オーナーはちっちっち、と指を振る。


「いやいやいや。私は先生のことなんか見てませんでしたよ。先生のことを見る有希ちゃんを見ていた。結局、本人がその相手をどう思っているかってことが一番大事なんじゃないかな」


ね? と真希に向かって微笑んだオーナーは、「それじゃ、ごゆっくり」と席を離れてゆく。

またひとつ思い出の欠片を手にして、父はそこから動けなくなる――

それなのに、懐かしそうで、愛おしそうで、幸せそうで。

真希は、父に声を掛けた。


「さ、冷めないうちに食べよ」


スペインの夜は暮れていく――


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