表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/32

謎の客人

翌日から真希は、英語論文の執筆作業に取り掛かった。

データは全て揃っているとはいえ、最初の提出期限まで約三ヶ月。

それまでに論文の体裁を整え、社内での英文チェックも受けなければならない。

そしてそれに並行して、朝倉と共に他グループと共同で設計するモデル基盤のプロジェクトに加わるよう服部から指示が出された。

AIとひと口に言っても、その示すものは幅広い。

いわゆるロボット型など高度な判断技術を擁するものから、冷蔵庫の自動温度調整まで。

そしてそれを支えるのは、中枢であるソフトウェアからハードウェアまで様々だ。

大手家電メーカーであるテクニカでは、もちろん将来を見越してロボット型のAIの研究・開発に取り組んでいる。

その一方で、身近な家電に組み込まれるAIの大容量高速処理化、省電力化、小型化にも余念がない。

今回真希が加わることになったプロジェクトは、そのどちらにも対応し得る次世代の集積回路を作ろうというものであった。


「広田さんもいち研究者として、設計を担当してもらいますから」


服部がにこりと笑う。


「テーマ企画でも見てたけど、アナログ回路の設計そこそこいけるよね。シミュレーションソフトも使いこなしている感じがしたし」

「PC上ではそれなりですけど……。貧乏研究室でしたから、実物を作るところまではなかなかできなくて。実験装置もハンダゴテでその辺の部品を組み合わせて作っていたくらいでしたし」

「おお、それは心強い。最近はちょっとした装置も外注に出そうとする輩が多いからね。電気の世界に身を置いているのに、自分のハンダを持っていないヤツもいるんだ。信じられないだろう?」


デスクの下に身を屈めると、服部は年季の入ったマイハンダゴテを取り出して見せた。

恐らく、いまだ現役。


「……父もそう言って、大学に入学した日に私にプレゼントしてくれました」


リボンまで掛けられた丁寧な包装を解いて、中身を取り出した時の微妙な気分を真希は今でも覚えている。

とはいえ、在学中には大変重宝したのではあるが。


「頭の中やPCの中だけじゃ、わかんないことだってあるのよ。皆、スマートに仕事しようとしたがって困るんだよねー」


そうぼやくと、「ま、忙しくなるだろうけど、そういうことでよろしく」と服部は真希を解放した。




論文を書き、プロジェクトの打ち合わせに顔を出し、設計に取り組む。

時々人事主催のフォローアップ研修に召集される。

真希は、研究発表の前と同じく――いや、それ以上に多忙な日々を送っていた。

そんなある夕刻のこと。


「論文の進捗はどう?」


朝倉が声を掛けてきた。


「この間朝倉さんに見て頂いたもので、原文はOKでました。今、それを英訳しつつ図表を修正中です。今度社内の英文チェックを受けるんですけど、服部さんの設定する締め切りがまたキツイんですよ」

「広田さんがそのキツイのに合わせてくるから、服部さんもタイトな予定組んでくるんだろう」


英語論文を読む分には全く問題ないが、書くとなると、それなりの作法があって少し手間が掛かるのだ。

泣きが入る真希に、朝倉はひょいと肩を竦めてみせる。


「まあ、プロジェクトの方が本格的に動き始めたらかなり時間を取られるのは間違いないし、その前にある程度目処を付けておいた方がいいって判断だろうけど」

「何ていうか、ペースメーカーに引っ張られて、自分の実力以上のペースで走らされている長距離ランナーな気分なんですけど」

「是非そのまま、ゴール目指して駆け抜けてくれたまえ」

「駆け抜けるといっても、査読(さどく)というハードルが……」


投稿した論文は、その内容に対して同じ分野の研究者――世界中のあらゆるところにおり、メールでのやり取りは全て英語だ――の査読を複数回受ける。

つまり、研究内容が学会誌に掲載するに足るものなのかの審査である。

その過程で説明や修正を求められたり、あるいは却下(リジェクト)されたりするのだ。


「……長距離っていうより寧ろ障害物競争?」

「は?」

「ペースメーカーのいる障害物競走なんて聞いたことないですよ」


真希はため息を吐くと、手元の時計にチラッと目を落とした。


「息切れする前に、今日はちょっと離脱です」


PCをシャットダウンしデスクを片付け始める。

時刻は五時少し前。

裁量労働制が適用される前の研究者見習いは、フレックスタイム制で働いている。

コアタイムは十時から三時だが、真希は基本的に八時半には出社しているし、六時を前に退社することは滅多にない。

朝倉の眉が片方跳ね上がった。


「珍しいな」

「週末ですから」


思わせぶりに、真希は微笑んでみせる。


修さん(・・・)とデートか」


何でピンポイントでくるかな。


「私が親しい男性は、別に修さん(・・・)だけじゃありませんから」


そういう意味で、親しい誰かがいるわけでもないけれど。

口を尖らせる真希に、朝倉ははいはいと追い払うように手を振る。


「何か用事を言いつけられる前に、早く帰れ。修さんを待たせるぞ」

「だから、修さんじゃないかもしれないじゃないですか」

「違うのか?」

「――え?」


不意に真剣な目を向けられ、思わず真希はぐっと詰まってしまった。


「……違いませんけど」


ああ、もう!

何で「ご想像にお任せします」くらい、咄嗟に言えないかな。

くくく、と可笑しそうに肩を震わせて笑う朝倉をその場に残し、「お先に失礼しますっ」と真希は足音荒くフロアを後にした。




一時間後。

真希は父の勤める大学構内を歩いていた。

こんな風に、特別でもない日に食事に誘われるなんて、珍しいこともあるものだと思いながら。


「こんにちはー」


教授室のドアを開けると、ソファに掛ける先客の背中が見えた。

そもそも教授室はそれほど大きな部屋ではない。

正面に窓を背にした大きな父のデスク、壁両側にスチールの本棚、中央にソファセット、手前に長年秘書を務めている沢村のデスクがあるだけだ。

顔見知りの沢村に手土産の洋菓子を渡し、「研究室に顔を出してきますね」とそっと告げてドアから身を引こうとすると、「真希、こっち」と父が手招きする。

沢村に視線で「いいの?」と尋ねると、何やら含んだような笑顔で奥へと促された。

先客の男が半身を捻り、こちらを振り向く。

――あら。

切れ長の涼やかな目元。柔らかくウェーブした少し色素の薄い髪。意志が強そうな口許。

院生にしては、やけにスーツを着慣れている雰囲気。

研究室のOB?

でも、エンジニアというには、随分と洗練されているような――いや別に、職場の皆様方をディスっているわけではないけれども。

ガサゴソと音をさせながら父の元へ足を運ぶ。

客人の視線が、カップラーメンが大量に入ったコンビニ袋に刺さった。

笑いを堪えるかのように一瞬歪んだ口許は、しかしすぐ元に戻る。


「これが娘の真希です」

「広田真希です。父がいつもお世話になっております」


真希よりも少し年上かというその男に、父がどうお世話になっているのか皆目見当もつかないが、そこは社会人スキルでにっこりと微笑む。


「で、こちらが柳瀬(やなせ)明人(あきと)君」

「柳瀬明人です。広田先生には、僕の父がお世話になっておりまして。今日はその父の名代として伺っているんです」

「そうでしたか。あの、私、ちょっとこれを」


大量のカップラーメンが入ったコンビニ袋を少し掲げて見せる。


「研究室に差し入れてきますので、ごゆっくりどうぞ」

「それでしたら」


柳瀬が真希の方に足を踏み出しつつ言った。


「産学協同のお話のこともありますし、折角なので僕も研究室を見学させていただいてよろしいでしょうか?」

「ああ、構わないよ」

「でも、お話があるんじゃ……」

「いえ、もうお暇するところだったので。研究室を見学させていただいたら、そのまま失礼することにしますから」

「そう。じゃあ真希、案内して差し上げて」

「……はい」

「お見送りもね」

「わかってますよ」


父娘のやりとりに微笑みつつ、柳瀬は鞄を手にする。


「では、広田先生、今日はありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ。お父さんによろしくお伝え下さい」


そう言って部屋を後にすると、柳瀬は真希が手にしたコンビニ袋を自然に受け取った。


「ありがとうございます」

「いえいえ。こんなに大量にと思ったら、学生への差し入れでしたか」

「ええ。男子が多いですから、こういった物の方が喜ばれるというか。あの、柳瀬さん……」


真希は目を瞬かせる。

――あれ?

ちょっと待て。

真希は足を止めた。


「……柳瀬(・・)さん?」

「はい、何でしょう」

「産学協同……って……」


お父さん。

この柳瀬(・・)さんは、もしかしてあの(・・)柳瀬さんですか!



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ