ファザコンじゃないし
翌日も稼働日ということで、打ち上げは早めに切り上げられた。
帰宅ラッシュとは逆向きの上りなので、比較的空いている電車に皆で乗り込む。
「服部さんは、開発も経験なさっていると伺いましたが」
真希が尋ねると、うん、と頷く。
「こっちでやってた研究が実用化できそうだって話になって、それ引っ提げて開発に行ったねぇ。七年くらい前かな」
「実用化されたんですか?」
「実用化して商品化もしましたよ。一年でね」
「一年!」
「そう。そういったスピード感なんだよ」
いや大変だったけどね、と服部が笑う。
「ねえ、広田さん。研究と開発の違いって何だと思う?」
「違い、ですか?」
真希はうーん、と首を傾けた。
実際その境界線は曖昧だ。
「研究でも実用を考えた開発に近いものがありますし、開発にも十年先を見越した研究に近い開発がありますよね」
「そうだね。でもひとつ、決定的な違いがあるんだよ」
ほんわか穏やかな服部の瞳に、一瞬シビアな光が宿った。
「極論すれば、研究には失敗が許されるけど、開発には失敗が許されない。僕たちはさ」
傍に立っていた朝倉も岡戸も、その言葉に真剣に耳を傾けている。
「やっぱり営利企業に所属する研究者じゃない? “研究”っていっても、学術的な研究を求められているわけじゃないのよ。それが出来たからって、誰がどう得するのかわからないような研究も、正直先端研究所にはあるけどさ。でも、僕たちが常に意識しなくちゃならないのは、自分が今やってることは、いずれ本業に結び付く研究かどうかってことなんだと思うんだよね。絶対、そこを外しちゃいけない。そこを外さない上で、先駆的な研究をすることを求められているんだよね。だから、失敗も許される。許されるんだけど、次に繋がる某かを残すことも同時に求められてるわけ」
二人が頷く。
「当然黄熊だって、ハチミツ舐めながらその辺り厳しくチェックしてるのよ、岡戸君」
「――っげ」
岡戸が仰け反った。
どうやら服部は、若手の間で交わされた会話を聞いていたらしい。
少し離れた所で、『失敗してもいいって言ってくれるなんて、いい上司ですよねー』と能天気に笑っていた先輩が、こっそりこちらに背を向けるのが見えた。
「それで? そんなことを聞くなんて、広田さんは開発に興味があるってこと?」
彼らに与えた動揺などどこ吹く風で、服部は再び真希に尋ねてくる。
「いえ、そういうわけではなくて、ですね。父が、いつか私と一緒に何かを開発する仕事をしてみたい、と言ったことがありまして」
「広田さんのお父さんも、こういった仕事をしているの?」
「ええ、まあ」
真希は少し曖昧に頷いた。
その道では結構有名な父であるからこそ、余り公にはしたくないというか。
「その時に、私は開発部隊じゃないから無理だと答えたんですけど」
「うん」
「でも、服部さんのお話を伺って、着地点さえ間違えなければ、いずれそんな機会が巡ってくることもないわけじゃないのかもしれないなって思えました」
「ファザコン」
“修さん”を巡る事情を幾らか知る朝倉が、ボソリと呟きニヤッと笑う。
「じゃ、ありませんし!」
「いやいやいや。お父さんとしては、娘と一緒に何か形あるものを作り出すなんて、夢だね。ロマンだね。わかるよ、その気持ち」
服部が目を潤ませる。
「……服部さん、娘がいるんだよね」
岡戸がこそっと真希に耳打ちした。
「確か高校生だって言ってたな」
「何か、汚らわしい物でも見るような目で見られるって、この間涙ぐんでいたがな」
憐れむように朝倉が囁く。
黄熊の癒し系オーラをもってしても、思春期真っ只中の女子高生は手強いということである。
真希たちの微妙な表情に気付いたのか、服部は軽く咳払いして言葉を継いだ。
「いずれにせよ、まずは研究者としてしっかり独り立ちすることが大前提の話です。論文投稿、頑張って下さいね、広田さん」
「……了解です」
* * *
玄関を開けると、父が「おかえり」と奥から顔を出す。
『ファザコン』
朝倉の面白がるような声とニヤッと笑った顔を不意に思い出してしまい、真希は框に片足を掛けたまま一瞬動きを止めた。
――ちょっと酔ってるのかも。
軽く頭を振って真希は父に答える。
「ただいま」
「お疲れさん。無事に終わったのかな?」
「うん、問題なく。質疑応答も“答えはわかっているけど、そこは重要な所だろうから敢えて聞いてあげよう”みたいなのだった」
「こんな時間だけど、お祝いにケーキが買ってあるよ」
インスリン分泌過多による、糖分の要求。
それが、アルコールを摂った後に甘いものを食べたくなる理由なのだとしても。
打ち上げの席での諸々が、既に脂肪になってしっかり備蓄されてる、なんてことは今は考えない、うん。
「やった。じゃあ、急いでシャワー浴びて来る」
さっぱりしてリビングに戻ると、父が淹れたコーヒーの香りが穏やかに漂っていた。
夜更けに父と一緒に囲むのは、母のお気に入りだったショートケーキだ。
「有希さんは、この店のショートケーキがお気に入りだったからねぇ。生きていたら、きっと今日これを用意したと思うんだ」
仏壇にも供えられたショートケーキを眺めながら、真希は笑った。
「そうだね。“ショートケーキが基本なのよ”っていつも言ってたもの。でも私はチョコレートケーキの方が好き」
「実はお父さんも、モンブランの方が好きだ」
そう言って笑うけれど、これから先も、何かの記念日にはやっぱりショートケーキを買ってくるのだろう。
母の思い出は、まだこんなにも父にとって現実だ。
「ところで、折角お祝いしてもらってなんだけど、延長戦が待っているの」
懐かしい何かを思い出すかのように暫く遠くを見つめていた父の視線が、真希に戻ってきた。
「延長戦?」
「論文にしなくちゃいけないのは承知していたんだけど、投稿先がね」
その学会名を口にすると、父は苦笑を浮かべた。
「ああ、それは大変だ」
「他人事みたいに」
真希は口を尖らせる。
「正直な感想を言ったまでだよ。でも、採用率がそんな厳しい所に投稿させようと考えてもらえるくらい、研究内容が良かったということだろう? 凄いじゃないか」
コーヒーを片手に、父が微笑む。
「研究者としても、いよいよ独り立ちか……。何だか、律子君に言われたことが身に染みるなぁ」
「律子さんが、何て?」
ケーキを口に運ぶ真希の手が止まった。
「昨日、研究室に顔を出してくれてね。そうそう、わざわざ真希を訪ねてくれたこと、お礼を言っておいたよ」
やっぱりわかってない父に、真希はちょっと複雑な気分になる。
「……それで?」
「いつまでも真希にべったりだと、真希が独立した時に抜け殻みたいになっちゃうんじゃないかって言われてね」
父は、ふぅむ、と首を捻った。
「べったりはしてないつもりだったけど、どうなのかなぁ?」
「どうなのかなぁって。大体、研究に没頭すると、娘のことなんか頭からすっかり抜け落ちちゃうような人が、“娘にべったり”なわけないと思うけど」
「でもなぁ。全然知らない男に、ある日突然真希を掻っ攫われたら、お父さんきっと抜け殻になる」
「安心して。そんな予定は今のところ全くないから」
「予定が全くないというのも、それはそれで心配だ」
だけど、突然は困るなぁ、心の準備がしたいしなぁ、と呟いた父は、何やら考え込んでいる。
そんな父を眺めながら、真希は、あふ、と欠伸をした。
今日は長い一日だったし、明日も仕事なのだ。
「お休み、お父さん。私はいつかお父さんと開発の仕事が出来るように研究に精進する予定だから、当分そんな心の準備は必要ないと思うよ」
「――真希っ!」
ちょっとうるっとした父の瞳が、何だか服部のそれと重なって見えた。
いやいやいや!
ファザコンじゃ、ないから。