プロローグ
『有希……有希……有希っ』
何度何度も、繰り返される母の名。
黒い縁取りの中で、母は突然にその日常から切り離されてしまったことなど、
まるで知らずに穏やかに微笑んでいる。
――あの時。
父は中学生だった私を守るように掻き抱きながら、
その実、私に縋っていたのではないかと思う。
母が亡くなって、十年以上経つ。
それでも未だに、父の目はどうかすると母を探している。
慌ただしい朝の、カウンターキッチンの向こう側に。
穏やかな日曜の、昼下がりのリビングに。
庭先の、母が好きだったヒメシャラの木の下に。
あるいは――私の中に。
喪った悲しみよりも、
出逢えたことを、共に過ごせたことを、幸せに思う、と父は言う。
もう、一緒に過ごした時間よりも、
喪ってからの時間の方が長くなるというのに。
そして――
繰り返し聞かされる恋の物語は、
いつだって甘く切なく、少し胸に迫る。
ハッピーエンドの向こう側にたったひとり取り残された父が、
それでもとても愛しげに母を語るから。
広田真希、二十五歳。
父と母が恋に落ちた歳を、とうの昔に過ぎてしまったけれど――
そういう運命の誰かは、まだ私の前に現れない。
――でも。
いつか、喪ってしまうかもしれないものならば。
いっそ何も手にせずに――
身を焦がすほどの想いも、
身を振り絞るほどの嘆きも知らないまま。
ただ、今を微睡んでいたい――