第3話 <質問>
「あの、よろしいでしょうか」
彼女が首を傾げながら、言った
話し終えた達成感で、緊張感が途切れてしまっていた。
そのせいか、彼女の澄んだ目につい見とれてし
まっていたのである。
「え、えぇ。構いませんよ。何でも質問してください」
と軽く動揺しながら答えた。
とは言ったものの、正直自信はなかった。
自分でもなぜ例の「体質」を持ってしまったのか
見当が全くつかないからだ。
「つまり、小学生の時に溺れかけて入院した。
その時の事故でメタノールを被ってしまった。
その後遺症が『体質』だとあなたは考えているんですね」
「まぁ、そういうことですね」
質問というより、確認のような形で訊かれた。
確かに、メタノールを被ったことが原因だと考えてはいる。
しかし、それだけで「体質」がついてしまうものなのか。
具体的なことは何も思い付かなかった。
(彼女からどんな質問をされるのだろうか)
そう思いながらも、内心楽しみでもあった。
やがて、彼女はこんな質問を発した。
「小学生の頃は、理科が大好きだったということですが」
はい、と俺は意気込んで返事を返した。
「どの分野が好きでしたか?」
「はい?」
俺は思わず、聞き返していた。
「理科の中で、どんな内容が勉強していて
楽しかったんですか?という意味です」
彼女は真面目な顔でそう言った。
ズルッ、と予想外の質問に俺は気抜けした。
本当に理科が好きなんだなあ、と呆れるより
前に感心してしまった。
「あの、どうなんですか?」
質問されたことを思いだし、俺は慌てて答えた。
「そ、そうですね。あんまり覚えてないですけど。
やっぱり化学変化についてですかね。
物質が変化する過程を知るのが楽しかったです。
実験でも一番扱っていた内容でしたし」
そう答えると、彼女は笑顔で言った。
「私もそうでした。実験のある日が特別に感じること
もありましたよね」
俺は思わず、頷いてしまっていた。
思い返せば、俺も楽しみにしていた記憶があった
からである。
「外で遊ぶのも好きでした。
山で木に登ることはなくても、川で泳いだりはしていましたね」
そうなんですか、といいながら俺は変な想像をしてしまった。
彼女はどんな小学生だったのだろうか、と。
俺は首を振りまわして、不要な妄想を振り払らった
落ち着いた後、改めて彼女に向きなおった。
すると、彼女は心配そうな顔でこちらを見ていた。
どうやら「体質」が発症してしまったのかと心配しているらしい。
何でもありません、大丈夫ですよ、というと彼女は
変わらぬ顔で話を続けた。
「すいません。話がそれてしまいましたね。
では、次の質問ですが」
突然、まるで授業をしている先生のような口調になった。
この人と会話していると、驚くことばかりである。
とても変わっている人だというのは、俺でもわかった。
「その『体質』というのは、理科関係全ての用語を見る
と発症してしまうんですよね。分野に限らず」
「はい。そうです」
そのはずだ。中学校では1年から3年まで全ての範囲は発症した。
お陰でテストの度に課題の毎日だったのを覚えている。
「理科の用語以外で発症することってありましたか。
例えば、数学などは」
少し考えて、俺は答えた。
「いえ、なかったと思います。
数学や国語の授業では正常でしたし
社会でも何の異常もありませんでした」
「入院していた総合病院の医師に相談したことは」
「ありません。親が理解してくれなかったし、診断してくれた
医師さんにも失礼かなって思いましたから」
「では、医師さんから『体質』以外に後遺症の話はありませんでしたか」
「後遺症?メタノールを被った時のですか?」
「はい。目に何か後遺症が残っている可能性が
あれば、原因が特定できそうなのですが」
「・・・いや、何にも言われませんでした。
とにかく失明しなかっただけ奇跡だと
は散々言われましたが」
と、口では言ったが実は思い当たる節があった。
しかし、言うのは止めておいた。
後遺症といえるものではないから。
彼女は大きく傾きながら、こう言った。
「確かにそうですよね。メタノールは、目だけでなく
中枢神経系、つまり複雑な神経回路に大きな影響を与えます。
めまいや頭痛から混迷状態となった上、視神経を侵して
失明する危険があり、重篤時には死に至ります。
蒸気吸入だけでなく経皮侵入もありますので
メタノールを被ったとなれば失明だけでは済みません 」
医師もそんなことを言っていたのを思い出した。
「そ、そんな危険な薬品だったんですか?メタノールって」
「ええ。なので保存をする場合、密栓をするのが普通です。
この実験室でもそうしています。メタノールはアルコールランプ
の燃料としても使いやすいので」
そうだったのか、と俺は愕然としていた。
メタノールについて医師からは聞いてはいたが、小学生だった
のであまり理解していなかった記憶がある。
自分が被った液体が、そんな危険だとは。
今思えば、なぜ失明しなかったのが不思議でならない。
「他にも何か後遺症が残っているのであれば、共通する
事を捜してみましょう。解決する方法がわかるかもしれません」
「えっ、それってどういうことですか?」
「メタノールを被ったことだけでなくて違う要因も
関係しているということです」
「違う要因、ですか・・・」
「薬品による身体的な刺激だけでなく、精神的な刺激と一緒に
影響し後遺症となって現れた、というのは有力です」
うーんと、俺は腕を組んで悩んでしまった。
「精神的な問題も絡んでいるということですか」
「はい。仮説ですけど。『体質』のお話の際、あなたは研究者のお話を
聞いてショックを受けたということですが」
「ええ、まぁ」
あまりいい思い出ではなかった。サンタクロースが
本当はいないと聞いたときと同じショックだったからだ。
今考えてみれば、当然のことではあった。しかし、子供心から
聞けばショックを受ける言葉だったのだ。
「そのトラウマ的な体験と、メタノールを浴びる前に読んでいた論文が
影響しているのではないでしょうか」
「・・・・・」
「他にも、好んでいた理科の分野が影響しているのかと考えました。
しかし、分野に限らず発症するということですのでやはり、その
2つが精神的な要因だと考えられます。いや、正確にいえば1つですね」
最初の質問にはそういう意図があったのか。
興味があって訊いただけではないということだ。
しかし、気になることがまだある。
「1つ?2つではないですか?」
いえ、と彼女は首を横に振りながら言った。
「研究者が人を不幸にするという、刷り込まれた固定概念を振り払う
ためにあなたは論文をお読みになりました。そのことを考えれば
正確には精神的な要因は1つです」
俺は黙り込んでしまった。薄々感じてはいたことだった。
「・・・では、その固定概念を振り払えばいいってことですか」
「どうでしょう。可能性はありますが」
彼女は考え込んでしまった。
よく考えてみれば、俺が病院に行って診断
してもらえばいい話である。
彼女が真剣に悩む必要はないのだ。
これ以上、彼女を巻き込むのはやめよう。
俺は、話を切り上げるため口を開いた。
「あのー、俺のために考えてもらってなんですけど。
もう下校時刻なんで帰宅したほうがいいのでは」
えっ、と彼女が驚いていた。
もう7時をまわっている。部活動を終えて、帰宅する時間だ。
「そうですね。興味深いお話でしたが・・・」
と、言ったところで彼女が急にうつむいてしまった。
「どうしました?」
と訊くと、彼女がボソボソと言った。
「す、すいま、せんでした。興味深い、なんていって」
変に区切って、彼女は言った。
元の内気な彼女に戻ってしまったようだ。
ああ、と俺は合点した。
「大丈夫ですよ。別に気にしてませんし」
本当のことだった。昔からのことだから気にしなくなったのだ。
「で、でも、これから、どうするん、ですか?
また3年間、我慢していくんですか」
「そうですね。まぁ、原因がわかっても治るかはわかり
ませんし。何とか切り抜けていきます」
「そう、ですか・・・」
彼女は少し悲しそうな顔をした。
同情してくれているのだろうか。
彼女からすれば信じられないことなのだろう。
好きな理科が勉強できないということは。
俺は自分に言い聞かせるように、彼女に言った。
「大丈夫ですよ。ノートは写せなくても、今までのように授業態度で
稼いでいくつもりです。どこまで通用するかわかりませんけど」
すると彼女が何か言いたそうにこちらを見ていた。
しかし、直ぐにうつむいてしまった。
「長いお話を聞いていただきありがとうございました。
それでは、失礼します」
俺は頭を下げて、不恰好なお礼をした。
彼女も礼儀正しく、お辞儀を返してくれた。
ふと机の上に並ぶ、実験器具を見た。
そういえば結局、実験の趣旨を理解していないことに気付いた。
「最後にお訊きしたいんですが。
この実験にはどういった狙いがあったんですか?」
失礼さ全開で訊いてしまった。普通は自分でその狙いを考えるところだ。
主催者に直接訊くことではない。
それでも彼女はちゃんと答えてくれた。
「水素の集気が目的です。集気とは言葉通り、気体を集めることです。
水素は、一番身近でありながら新エネルギー源として期待されている
元素です。燃料電池を使った自動車などがいい例ですね。
水素と酸素を燃料に、発電した電気で走る車です。
排出は水のみなので環境に優しいとして注目されていましたよね。
科学への一歩の勉強に水素が最適かなと考えて選びました」
「なるほど、よくわかりました。
丁寧に教えていただきありがとうございます」
いえいえこちらこそ、と彼女が弱々しい声で言った。
俺より頭を何回も下げてくる。どっちが見学していたのか
わからなくなってしまう。
帰ろうと実験室のドアに向かおうとした時、またしても実験器具
が目についた。ゴム栓がしてある試験管10本である。
気になったことがあったのでさらに質問してみた。
「すいません。さっき最後って言ったんですが。
この手前の試験管5本は何に使うんですか?
塩素の集気に使うんですか」
彼女は驚いた顔になった。
まだ内気な状態なんだろう。
「そ、そうです。塩素を一時的に集気しておくのに使います」
「では、そのマッチ棒は?」
試験管の傍らに置いてあるマッチ棒2本を指差した。
「これは水素の燃焼実験のためです。
水素が集気されているか確認するために行いました」
そういえば、部屋の前で中から、ポン、と音が聞こえていた。
その正体は水素の燃える音だったのか。
「なるほど、|だから残りが3本(、、、、、、、、)なんですね」
すると彼女は考え事をするかのように、またうつむいてしまった。
俺が何か変なことでも言ってしまったのか。
執拗な質問に嫌気が差したのだろう。
ふと窓の外を見て、真っ暗であることに気付いた。
それで今が7時過ぎであることを思い出したのだ。
「すいません・・。本当に帰りますね。
どうもありがとうございました」
部屋から出ようとした時、彼女に呼び止められた。
何かに気付いたような顔である。
「どうして分かったんですか」
「え?」
「どうして、水素の入った試験管が3本と分かったんですか」
いきなり質問されて面食らう。
先ほどは興味を無くしたようにうつむいていたのに
今は眼鏡のフレーム越しに、俺を睨んでいたからだ。
「水素は見ての通り、透明な気体です。目で見ただけでは、入っているか
など判断のしようがありません。なので、燃焼実験で確認するんです。
しかも、このように10本全ての試験管にゴム栓がしてあればなおさら
本数の判断など不可能なはずです。
あなたはどうやって3本だと見抜いたんですか」
「そ、それはもちろん2本のマッチ棒を見てです。
それで、5本のうち水素の入った試験管が3本だな、とわかったんです。
簡単な推理ですよ」
声を震わしながら俺は言った。
しかし、彼女は質問を続けた。
「確かにそうですね。しかし、まだ疑問点があります」
彼女は、人差し指を立てて話を続けた。
先の丸い、綺麗な指である。
「なぜ、手前の試験管5本には何も入っていないと分かったんですか」
「い、いや、塩素が黄緑色の気体であることは知ってましたので、それで・・・」
「そうですね。試験管を見て透明であれば、塩素が無いと判断
するのはおかしくないと思います。
では逆に、どうして水素が入っていないという判断はできたのですか」
「で、ですから質問したように」
「塩素を入れる試験管だと思ったでは理由になりません。
なぜなら、先に水素の析出が目的であるという話を
私がしていましたから」
彼女はさらに、問い詰めるように言う。
「確かに、塩素が目的でないにしても取り出す必要は生じるかもしれません。
しかし、この電気分解の器具は電極部をゴム栓で密封できるようになっています。
よって、いちいち集気する必要はないんですよ。
また、もしそうなら試験管よりも丸底フラスコを私なら使います。
その方が、短時間で集気が済みますからね。あ、すみません。脱線しましたね」
彼女は、はきはきとした口調でそう言った。
「もう一度質問します。どうして水素が入っていないと判断できたのですか」
「えーと・・・・」
答えに詰まってしまった。
それは答えられないということではない。
正直に答えたほうがいいか、悩んだからである。
「・・・・実はですね。この5本には水素を集気するつもりだったんですよ」
「えっ?」
「だから、とても驚きました。『この手前の試験管5本は何に使うんですか?』
って訊かれたときは。まるで|中身が空であること(、、、、、、、、、)がわかっているかのように
訊かれましたから」
「・・・・・・・」
「そこで、考えたんです。あなたはお話しした『体質』以外にも何か
特別な能力があるのではないかと。でなければ説明できません」
「・・・どのような能力があれば、説明できるんですか」
俺は、彼女に皮肉っぽく質問してみた。
「そうですね。例えば、|原子が見えない限り(、、、、、、、、、)は説明できませんね」
彼女は、イタズラっぽく微笑みながら答えた。
俺はとんでもない女性に話をしてしまったようだ。
隠し事も彼女との間には成立しないのかもしれない。
「もう一度お訊きします。どうして分かったんですか
よろしけば、教えてくださりませんか」
懇願しながら彼女はそう言い、俺を睨んだ。
部屋に入った時に、実験器具に向けていたランランとした目である。
隠し通すつもりだったが観念したほうがよさそうだ。
どうやら、彼女には何でもお見通しらしい。
俺は、息を大きく吐いて一気に言った。
「実はですね俺、原子が見えるんですよ。肉眼で」