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 原子番号1「水素」  第1話 <出逢い>

挿絵(By みてみん)


「ここがバイオケミカル部の活動場所か」

 実験室のドアの前で、俺はそうつぶやいた。

 間違いないよな、そう思って上にある表札を見てみた。

 実験室の表札には、輪状の紙がかかっていた。

その紙にバイオケミカル部、と書いてあった。

 その瞬間、ズキズキと突然の頭痛に襲われた。

「くそ、やっぱり・・・」

 何故、頭痛が起きたのか。理由ははっきりしていた。

しかし、その原因はいまだ未解明のままである。

「痛たたたた・・・」

 "あの日”を思い出すとさらに痛みが強くなる。

 考えるな、忘れろ、そう自分に言い聞かせ、ドアに手をかけた。

 しかし、そのままドアは直ぐに開かなかった。

何故なら、自分が開くのをためらったからだ。

 頭痛が止むかわりに、ある考えが浮かんだ。

俺の「体質」が理解されるのかな、と。

 やっぱりやめておこうかな、どうせ信じてもらえないだろう

今始まったことでもない、中学でもそうだったんだ、やめておこう

そんなネガティブな独り言が浮かんだ。

 帰ろう、そう思ってドアから手を離した。その時である。

 ボン、と実験室の中から大きな破裂音が聞こえた。

なんだろう、なんの音だ、と好奇心がうずいたのだ。

気付いたら、ドアを衝動的に開けていた。


              ◇H―H◆


 目の前に広がる光景に驚きを隠せずにいた。

 部屋自体は、中学校の理科教室と変わらなかった。

しかし、部屋の中央にある机の上を見て驚いたのだ。

 そこには、ガラス器具がたくさん並んでいた。

見たことのない器具や、見たことはあるが名前が直ぐに出てこない器具

がそこに並んでいたのである。

細長い筒上のガラス器具が、立て掛け台みたいなものに

10本ほど並んでいる。

確か、試験管という名前だったはずだ。

その口にはゴム栓で栓がしてあった。

 他の器具の名前は全く思い出せなかった。

いや、知らないだけかもしれないが。

 しかし、驚いたのはそれだけではなかった。いやそれよりもというべきだろう。

 それらの実験器具を睨む女性が、机の傍らに立っていたのだ。

白衣を着て、黒いボートに何か書き込んでいることから、実験中なのだと想像できる。

その女性を見て、絵画にいそうなくらい綺麗な人だと、驚いたのだ。

 黒縁眼鏡をかけた、整った顔つきの女性であった。

艶のあるロングヘアーで、前髪を自然に分けている。

キリッとした二重まぶたの下には、大きな瞳の黒さが目立っていた。

鼻筋は目立たず、むしろシャープな鼻が強調されている。

 一方肌の色素が薄く、背も高くないので少し子供っぽく見える。

しかし、顔は大人っぽく見えるので、まるでスポーツ選手のような

凛とした美しさをまとっていた。

つまり、息が詰まるほど綺麗な人だったのだ。

俺のどんな知り合いにも似ていなかった。

京都のバスガイドさんでも、こんなに綺麗な人はいなかった。

いや、探してもいないだろう。

 想像していたとは全く違う人がそこにいたのでうろたえた。

なにしろ、男の、しかも縮れ毛で丸眼鏡をかけた

いわゆる優等生タイプの部員しかいないもんかと想像していたからだ。

しかも、他の部員が見当たらない。これはどういうことだ。

 そんな俺の混乱を尻目に、彼女はこちらに気づかずに実験器具を睨み続けていた。

とんでもない集中力だ。目を輝かせた、ランランとした表情である。

我を忘れて、という表現が似合う表情だった。

理科の先生でもこんなに楽しそうではないだろう。

それくらい実験が好きに見えた。

 何がそんなに面白いんだ?衝動的にそう訊きたくなって、口を開いていた。

しかし、そのまま口を閉じてしまった。声が出なかったのである。

俺にとって凄く羨ましいことだ。しかし、俺には絶対無理なことなのだ。

実験はできても勉強ができないんだから。

俺が聞いても意味のないことなんだ、諦めろよ。

そういう「体質」になってしまったんだから。

中学の時もそれで諦めたんだろ、忘れたのかよ、仕方ないことだ。

高校でも諦めるしかない。

 落胆した気持ちで、ドアに手をかけた。

彼女の邪魔にならないよう、静かにドアを閉めようとした。その時である。

 なんとドアが閉まらなくなってしまったのだ。

レール上に何か引っ掛かったのだろう。

 何だよこれ、密室殺人にでも使ったのか、まるで俺の人生みたいだな

そんな冗談を考えていたらガタガタッと大きな音を立ててしまった。

慌てて、彼女のほうを見た。

 さすがに彼女も気づいたらしく、怯えた目付きでこちらを見ていた。

顔面蒼白の表情である。

 そんなに驚かなくてもいいのでは、と少し感傷的になってしまった。

しかし、直ぐに当然かとも思った。

 なぜなら、ノックもせずに入室したことになるからだ。

気付いたら、入口で見知らぬ男子が覗いていたんだ。

驚くのも無理ないだろう。

 彼女の視線が痛い。とりあえず何か言わなければ、そう思い、口を開いていた。

「し、失礼します・・・」

 声が震えてしまったが、ちょうどよいボリュームで言えたと自画自賛したくなった。

 しかし、彼女は直ぐに目を背けて、実験器具を睨み始めてしまった。

無視されてるのか、と思ったが直ぐに声が聞こえてきた。

ボソボソとした、小さな声である。よく聞き取れなかった。

「え?すいません。もう一度言ってくださりませんか」

「何か、ご用、ですか・・? 」

 不自然な言葉の切り方に驚いた。大人っぽい雰囲気なので、てっきり外交的な気質だと思っていた。

しかし、この様子ではかなり内向的な気質の人のようだ。口べたのようにも見える。

もちろん美人に変わりないが。てか、この人に実験の説明ができるのか?

ひとごとだが少し心配になってきたぞ。

「えーと、活動の見学をしたいのですが、よろしいですか」

「・・・どうぞ」

 ありがとうございます、とお礼を言ってから彼女に近付いた。

机の上には、遠くから見たときと同様、沢山の器具が並んでいた。

中央には、試験管2本を埋め込んであり、その間に目盛りが書かれた器具が立っていた。

どうやらこれがメインの器具らしい。彼女が睨んでいる器具の正体である。

「・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 彼女は実験器具を睨んだまま黙り込んでしまった。

予想はしていたが、いざ現実に起きると痛々しい。

 何か質問しなくては。沈黙を破るために、質問事項を考えてみた。

まず、何という実験をしているのかわからなかったので、それを質問してみた。

「あの、すいません。これは何の実験をしているんですか?」

 彼女は少し間を空けて、こう答えた。

「電気分解、です」

「電気分解?」

 聞いたことのある言葉だった。

確か電源となる電池の電力を使って、ある物質を分解して目的となる物質を

得るという実験だった。

小学生の時のワークに付いてきた、別冊ワークに載っていたのだ。

しかし、それ以上のことは何も知らない。

「この筒の中に流れている液体は何ですか」

 突然、彼女の目が輝き始めた。なぜか不吉な予感がする。

手に汗がかいてきたぞ。

「塩化ナトリウム水溶液です。いわゆる食塩水ですね。

 電解液として使っています」

 彼女が少し弾んだ声で返答してきた。

電解液、と聞き慣れない言葉と返答の変わりように少し戸惑ったが

さらに気になったことがあったので次の質問をしてみた。

「なぜ、食塩水を使っているんですか?」

「それはですね。水素を析出するためです。

 通常、塩化ナトリウムを電気分解するとナトリウムと塩素が析出されます。

 しかし、水に溶かして電気分解すると、ナトリウムの代わりに水素が析出されるんです。

 水を構成する水素イオンが、ナトリウムイオンの代わりに還元されてしまうんですよ。

 では、なぜ水素がナトリウムの代わりに還元されてしまうのか。

 それは、水素イオンよりもナトリウムイオンの方がイオン化傾向が大きいからです。

 この現象を利用して、水素の析出方法として食塩水を用いた電気分解を選びました。

 塩化ナトリウムなら、調味料として身近にありますし、正塩(せいえん)です

 ので扱いやすいかな、と考えて選びました」

 頭が混乱してしまった。理由は、知らない用語が続出したからだ。

還元ならなんとかわかったが、イオン?イオン化傾向?正塩?製塩のことか?

しかし、理由はもうひとつある。それは、彼女が別人になったかのようにはきはきと解説し始めたからだ。

力強く鋭い目で、まっすぐに俺を見てである。

先ほどは、目をそらしていたのに。

彼女の変容ぶりに、俺は思わず気圧された。

「分かりにくかったですか?」

 彼女はそういいながら急に顔を、俺に近付けてきた。不器用なのだろう。

距離感を無視した動きだった。顔との距離が数十センチもない。

女性特有のいい香りが、俺の鼻をくすぐった。

違う意味で頭が痛くなってきた。クラクラとした感じである。

 俺は慌てて顔を後ろに下げて、動揺しながらこう言った。

「い、いえ、わからない用語があったのでちょっと・・・・・。

 その、勉強不足で申し訳ないのですが、イオン化傾向とはなんでしょうか?」

「イオン化傾向というのはですね」

 笑みを浮かべた顔で彼女は言った。

「イオンになりやすい度合いのことをいいます。

 例えば、主に金属元素を、そのイオンになりやすい順に並べたものを

 イオン化列といいます。

 このイオン化列に、ナトリウムがアルミニウムや鉄よりもイオンになりやすいことが示されています。

 この場合ナトリウムは、アルミニウムや鉄よりもイオン化傾向が大きい、という風に言うんですよ」

「なるほど。つまり、水への溶けやすさを示すということですか」

「うーん、少し違いますね。溶解度とはあまり関係ありませんので、水への溶けやすさを示すものではありません。

 そうですね・・・イオンとして溶液中に存在する力の強さを示す、といったほうが適切かと思います。」

「そうなんですか・・・。わかりました」

 口ではそういったが、一つ理解できないことがあった。先ほどからちょこちょこ出てくる用語についてである。

「あのー、最初に聞くべきだとは思うのですが、イオンって何ですかね。

 マイナスイオンとかよくテレビで聞きますけど、それと関係があるんですか」

「いえ、マイナスイオンとは関係ありません」

 やけにきっぱりと断定した言い方だった。

「マイナスイオンとは疑似科学の一種です。

 マイナスイオンとは、電気を帯びた小さな粒子、主に水分子のことを指します。

 陰イオンのことをanion(アニオン)ということはありますが、minus ion(マイナスイオン)ということはないんですよ。

 また、マイナスイオンの健康に対する効果は科学的根拠はありません。

 よって、科学的な用語とは全く関係ありません」

 全く、といったところで語調を強めた。

相当、感情を込めていたように感じる。

それは憎しみにも近い感情だったが気のせいだろうか。

 彼女が、イオンとはですね、と話を続けた。

「電気的な性質を帯びた原子のことです。

 原子は通常、電子と陽子の個数は等しいので電気的な性質は持っていません。

 しかし、時として電子を受け取ったり、与えたりすることで安定しようと

 することがあるんです。

 そのようにして、電子が欠けたり余ったりしている原子のことをイオン

 と呼んでいます。

 例えばこの食塩水には電子が一個余ったナトリウムイオンと

 一個欠けた塩化物イオンが水溶液中を漂っているんです。

 そのようにイオンとして存在することで、化学反応の自由性が生じるんですよ。

 奥深いと思いませんか」

 奥深いと思いませんか、と訊かれても困る。

理解するだけでも頭がパンクしそうなのに。

 彼女は笑顔で、さらに解説し始めた。

「また、その状態によっても「イオン」の前に名前が付くんですよ。

 1つの時は単原子イオンと呼ぶのですが、2つ以上の時は多原子イオンへと変化するんです。

 さらに、先ほどでも話した電気的な性質を持った原子にもちゃんと名前があるんです。

 電子を受け取った時は陰イオン、与えた時が陽イオンといった具合です」

「・・・凄いですね」

 と、俺は思わずつぶやいていた。

「でしょう。だから私、実験の方法だけではなく、ある現象が起きる理由や科学用語の

 名称の由来を勉強するのが好きなんです」

 弾けるような笑顔で、彼女は何回も頷いた。

 まぁ、俺が凄いと言ったのは彼女のことなのだが。

 伝わらなくて少し残念な気持ちになった。

 しかし、弾けるような笑顔が見れて少し嬉しかったのも事実である。

「すいません。分かりにくくなってしまいましたね。

 黒板に内容をまとめてみましょう」

 彼女は黒板の前に立ち、チョークで”イオン”と書き始めた。

 その文字を見た途端、急に気分が悪くなった。頭痛が始まったのだ。

 彼女はというと、気にせず黒板に内容をまとめている。

 イオン傾向という文字が目に入った。

 我慢しろ俺、と言い聞かせたが結局、しゃがみこんでしまった。

 今度は吐き気がしてきた。

「だ、大丈夫ですか?」

 俺の様子に気付いたのか、心配そうな声で訊ねてきた。

 まとめるのを途中で中断してしまっていた。

 「や、やっぱり、つまらなかったですよね、私の話・・・。

 いつも話が長くなってしまうんですよ。そのくせ、大したことが言えないし」

 俺は慌てて、俺に原因があることを話そうと必死に口を開いた。

「い、いや・・・あなたのお話はとても興味深くて面白いと思います。

 ですので、この頭痛は関係ありません。

 これは、俺の「体質」のせいなんです」

「体質?」

「ええ。実は俺・・・」

 今度は俺が話す番か。話すしかないか?話すしかないよな。

「科学が勉強できないんです。科学用語を見ると頭痛が起きてしまう体質なんです」

 彼女は驚いたように、目を見開いて俺を見つめていた。

 長い話になりそうだな。俺はボンヤリと、そう感じた。



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