勝ち負けがあるのはゲームくらいのもの。
私もゲームくらいはする。テレビゲームやスマホゲームといったデジタルゲーム、トランプやボードゲームなどのアナログゲーム、スポーツも身体を使ったゲームである。
ゲームという言葉の射程は広く、どこまでをゲームと認識するかは人によって違いがあるかも知れないが、生涯において、およそゲームと呼ばれるものと全く無縁である人間は存在しないだろう。
ゲームとは勝ち負けを争う遊びのことであり、遊びとは好きなことをして楽しむということである。
そのため、ゲームのゴールは勝ち負けを決することにあるが、目的はあくまでも楽しむことにあると言える。勝ち負けはそこに到達したらゲームが終わるという、いわばゲームに区切りをつけるための仕組みに過ぎず、勝つことが目的となるわけではないということである。
なぜゲームには勝ち負けというゴールが設定されているのか。仮にゲームに勝ち負けというルールがなかったらどうなるだろうか。
目標とするところが明確でないので、遊びに飽きるまで終わりを迎えること出来なくなる。それでは限られた時間の中で楽しむには不都合である。人生にはゲーム以外にやらなければならないことが詰まっている。
また、ゲームの終着点がそのゲームに飽きることである場合、一度終わったら再び同じゲームを始めようという気持ちになりづらくなると思われる。勝ち負けがないということは、ゲーム自体の楽しさの持続性を損なうことになると言えるかも知れない。
勝ち負けが決することでゲームは終了し、一旦楽しい時間は途切れることになるが、長期的に見れば、人生における豊かな瞬間をより長くさせることに貢献していると言える。
もちろん、ゴールを目指すにあたっては勝利を狙うことになる。負けるためにゲームを進めていたら、いつまでもゴールに到達しないか、到達するまでの楽しさが生まれにくくなるだろう。ダラダラと惰性で進んで飽きる結果になるかも知れない。
勝敗の決定はあくまでもゲームを楽しむためにあり、その結果によってゲームの楽しさが左右されることはない。勝利にしか価値がないと考え、苦しみながらゲームを進めるようなことはゲーム本来の目的から外れているように思えてならない。
楽しむためのゲームで不愉快な思いをしては本末転倒であり、勝ち負けにこだわり過ぎてもいけない。ちょっとややこしい言い方だが、勝利を目指しはするが、勝利を目的にしないというのがゲームをするときの大事な心構えなのではないだろうか。
私たちは人生において多種多様なゲームと付き合うことになるが、人生そのものは決してゲームではないということを忘れてはならない。
勝ち負けというのはゲームに一区切りをつけるためにあるという考えを述べたが、そもそも勝ち負けとはゲームの中にだけ存在する概念ではないだろうか。
区切りをつけることのできないものには勝ち負けという仕組みを適用することはできない。
人生とはどこかで区切りをつけることのできるような代物ではない。生まれてからその命を終えるまでが途切れることのない一連のものであり、ゲームのようにリセットしたり、巻き戻したりすることはできない。
ゲームであればルールとして勝ち負けを設定することができるが、個人の生き方については、何が勝ちで何が負けであるかを決めることはできないし、決める意味もない。
区切りをつけることができず、やり直しのきかないただ一度の人生であるから、勝ちだとか負けだとかを他人に決められても詮無いことである。他人の生き方と自分の生き方を比較して一喜一憂する必要はない。ゲームと違って、人生に勝ち負けはないのだから。終わり




