カレーなる殺人
推理小説には「館もの」と言われるジャンルが存在する。
通りすがったならば誰もが目を向けてしまうような巨大な豪邸で殺人事件が発生し
自然災害や地理的状況などにより犯人は屋敷内部の人間だと推定される。
そして真相の特定には大抵の場合その館の特殊性が関係してくるのが特徴だ。
1987年に出版された綾辻行人の「十角館の殺人」によって定着し今やミステリーの王道と言っても差し支えない。
このところ推理小説どころか読書自体から遠ざかりがちな捜査一課の船引太郎警部も「館もの」については知っていた。
県警が誇る天才捜査官として知られている彼に対してミステリー関係のジョークを投げかけてくる人間は珍しくないからだ。
だが流石の警部も令和の時代に自分が「館もの」事件を手掛けることになるとは予想していなかった。
「あぁ、咖喱館の殺人。あれ兄さんの担当だったんですか。
内部はスパイスの強い匂いに包まれているとテレビでやってましたが本当ですか?」
船引次郎はいつもながらアポなしで押しかけてくる兄にアイスコーヒーを差し出しながらたずねた。
「半日いただけでも鼻がおかしくなりそうだ。あんな家で生活するやつの気がしれん」
「被害者は館の主人でカレー研究家の中村諭吉でしたっけ。
親の財産を受け継いで始めることがカレー作りとはお金持ちの考えることは分かりませんねぇ。
警察は内部の犯行と見て捜査しているんですか?」
「咖喱館があるのは僻地もいいところだからな。
行きずりの強盗がふらっと侵入するような場所じゃないし今のところ金品が持ち去られた形跡もない。
おまけに事件当日は台風のせいで土砂崩れが発生して付近の道路は通行止めだ」
「まさにミステリーにはうってつけのシチュエーションですねぇ。容疑者候補は何人ですか?」
「5人だ。しかも全員に動機がある。
妻の中村香子は諭吉より20歳も年下で財産目当ての結婚だともっぱらの噂。
その香子の兄で諭吉にとっては年少の義兄となる山岡和彦はギャンブル狂いで諭吉に2000万の借金があった。
料理評論家の海原スーザンとはカレー論争とやらで裁判沙汰寸前まで揉めていてたし
雑誌記者の河城勇気は大学の後輩だった香子に惚れていて二人が結婚した時は相当に荒れたらしい。
酔って殺してやると叫んでいたという証言も取れている。
使用人の水原幸子は事件前日にイラついていた諭吉にスパイスの瓶を投げつけられて頭に傷を作っていた」
「死因は?」
「鈍器による撲殺。後頭部に思いきり振り下ろしている。
犯人は被害者がDVDボックスから中身を取り出そうとしゃがんだところを背後からガツンとやったようだ」
太郎は現場写真を投げ渡す。
家族とはいえ捜査資料を部外者に見せることは服務規定違反にあたる行為である。
しかし太郎は難しい事件に行き当たるたびにこうして弟に資料まで見せて助言を仰いでいた。
次郎の職業は登録者数200万人超えの人気Vtuber天海士郎の中の人であり
その天性の推理力を駆使して様々な事件の真相を探り当てるバーチャル探偵王子として
今や日本だけでなく海外にまでファンがいる名探偵なのだ。
秘密裏に弟の力を借りて事件を解決し、その功績で天才捜査官と持ち上げられることには太郎としても複雑な思いがあるが
自分のつまらないプライドのせいで事件が迷宮入りしては被害者に申し訳が立たないと
最近はある程度割り切ってこの出来の良すぎる弟に捜査協力させている。
「………DVDを掴んでいますね、1枚だけしっかりと」
流石はバーチャル探偵王子というべきか、次郎は一瞥しただけでポイントを把握する。
頭から血を流して倒れる被害者、中村諭吉は大量に散乱したDVDの中から一枚をしっかりとその手に掴んで亡くなっていた。
「検死によると被害者は後頭部を強打された後も数分間は生きていた可能性が高いそうだ」
「つまりこのDVDはミステリーのお約束、ダイイングメッセージだと警察は考えているわけですね」
「そうだ。問題はこのDVDには犯人に関する手がかりなど一切残されていないということだ」
DVDは真っ白なROMに#65と書かれただけのシンプルなものだった。
「この数字は?」
「研究記録だ。散乱しているDVDは全て被害者がカレーを作る際の映像を記録したものでな。
一応容疑者の中に65と関係する者がいないか生年月日からSNSのアカウントまで調べてみたが該当なし」
「となれば手がかりは映像の中にあると考えるのが自然ですね」
「ところがこちらも手がかりなしだ。本人が無言でカレーを作っているだけで
妻の香子や使用人の幸子がちらりと映ることさえない。
間違って別のDVDを手にとった可能性を考慮して若手の連中に全てのDVDを調べさせているが
今のところ容疑者どころか被害者以外の人間が動画内に出てきた報告はない」
「なるほど、興味深いですね」
「で、どうだ。犯人は分かったか?」
次郎は呆れた顔で太郎に返答する。
「兄さん、推理は超能力じゃないんですよ。
DVDの映像も見ないで犯人が分かるわけないでしょ」
「お、おう。すまんな」
太郎はノートパソコンを取り出してコピーした映像を次郎に見せた。
次郎は最初真剣な表情でそれを眺めていたが20分ほどしたところで
「あぁなるほど」と言うと早送りにしてしまった。
「……まさかとは思うが犯人が分かったのか?」
「分かりましたよ」
太郎は愕然とした。
推理は超能力ではないというがただカレーを作っているおっさんの動画を見て犯人が分かるなど完全に超能力ではないか。
「この謎はさほど難しいものではありません。最初からしっかりと見ていけば兄さんにも犯人が分かりますよ」
こう言われては捜査一課の警部として太郎も挑戦しないわけにはいかない。
深呼吸をして顔をはたく。さぁいくぞ、一挙一動を見逃すな。
材料としてキッチンに並べられたのはトマト、たまねぎ、パプリカ、人参、鶏もも肉、にんにく、生姜。
映像の中の中村諭吉は手際良く並べた材料を切っていくが不審なところはない。
やがて鍋に油がしかれ、にんにくと生姜を炒め始める。それから玉ねぎ。
料理番組で玉ねぎは飴色になるまで炒めると聞いた記憶があるが確かに色が変わるまでしっかりと火を入れている。
次に鶏肉。丁寧に焼色をつけていく。そこに人参、ピーマン、小麦粉が加えられた。
最後はトマトだ。具材が揃ったところで全体をかき混ぜて蓋をする。
ここで次郎が早送りをしたのはそこからは弱火で30分ほど煮込むのが続くだけだからだろう。
完成前に調味料が加えられる。味噌・醤油・ケチャップ・ウスターソース。
流石はカレー研究家の作る料理だ。
料理のことはよく分からないが母親や恋人の田貫明美が作ってくれたものより本格的な感じがする。
映像を眺めているだけで腹が減ってきた。
しかし腹は減っても謎は解けなかった。
念のためにもう一度通して見るがモニターに映るのは美味そうなカレー作りの様子だけだ。
そんな兄の苦戦ぶりを次郎はニヤニヤと眺めていた。畜生め。
「おい次郎、ヒントをよこせ」
「もうヒントですか。自分で考え抜く癖をつけないといつまで経っても推理力は向上しませんよ兄さん」
「うるせぇ。こっちは何度も美味そうなカレー見せつけられて腹が減ってるんだ。
もったいぶらずにヒントを寄越しやがれ」
「やれやれ。それでは大ヒントです。犯人は山岡和彦ですよ。
そこから逆算すればこのカレー作りに秘められたダイイングメッセージの謎が解けるでしょう」
読者への挑戦状
船引次郎の言葉通り、カレー作りに隠されたダイイングメッセージを解くための手がかりは既に作中で出揃っています。
推理力に自信のある方は船引警部と一緒に答えを考えてみて下さい。
あなたの知的奮闘はきっと本作に足りない最後のスパイスを加えてくれるに違いありません。
「………少しだけ分かった」
ヒントをもらってから10分後、船引警部はそう口を開いた。
「というと?」
「中村香子が犯人でない理由は分かった。
このカレー、カレーのくせにルウもカレー粉もスパイスも使っていないんだ。
つまり「香」辛料がない。だから香子は犯人ではない。どうだ次郎」
「お見事、正解です。時間はかかりましたがちゃんと真実に辿り着くあたり
流石は県警が誇る敏腕捜査官、船引警部ですね」
「茶化すのはやめろ。自分が馬鹿なことは自分が一番よく分かっている」
次郎としては兄を茶化したつもりはなく事件解決のためにはプライドすら捨て泥臭く捜査を続ける
兄の粘り強さを自分にはないものとして劣等感すら抱きながら尊敬しているのだが
それをこの場で伝えるのは気恥ずかしいので黙っておくことにした。
「だが考えに考えてもここまでだ。
残りの3人、海原スーザン、河城勇気、水原幸子を除外する方法は分からない」
「考え方は同じですよ。このカレーには香辛料だけでなくもう一つ、足りてないものがあるんです」
「足りていないもの?」
「水ですよ。このカレーは普通のカレーと違って水を使わずに調理する無水カレーなんです。
だから名前に水と氵を含む3人も除外できるというわけです。
さて綺麗に謎が解けたところで出かけましょうか」
「出かける?どこへだ」
「スーパーですよ。
僕だって兄さんに付き合ってあれだけ美味しそうなカレーを何度も見せられているんですよ。
実際に食べたくなるに決まってるじゃないですか。
材料を買ったら久しぶりに実家へ顔を出しましょう。
たまには兄弟で母さんに手料理の一つも振る舞おうじゃないですか」