ガラス越しの告白
俺は何も言わなかった。ただ「うん」とだけ応え、彼女の横から視線を外した。
彼女の言い方は、俺が「生活に困っている」と誤解しないようにという配慮だった。
それでも、それが言い訳には聞こえないようにしていた。
言葉は軽かったが、俺には分かった。
彼女はこれを「自分の責任」として捉えていた。
不満でもなく、悲しみでもない。
ただ「欲しいなら、自分の手で手に入れるべき」と、そう思っていたのだ。
俺がそれ以上何も聞かないと見るや、桐生は頃合いを見計らったようにスマホを持ち上げた。
「実はね。」
桐生の声が少しだけ伸びた。まるで「理由になる秘密」を準備していたように。
「私が好きなIPのグッズが出るの。しかも限定なの!」
桐生の声は一気に弾み、目まで少し輝いていた。
ついに「本当のバイト動機」を言えた、とでも言いたげな表情だった。
桐生はスマホの画面を数回スワイプし、それを俺の前に軽く見せた。
俺が見下ろすと、そこには商品の紹介画像が表示されていた。
ガラスのような透明の球体チャーム。中には、柔らかそうな色合いの猫型ぬいぐるみ。
ピンクと白のグラデーション。背中には小さな羽。
チェーンは金属製で、上部にはリボン型の結び目がついている。
パッケージには「わたあめ星系限定発売」の文字があり、背景は淡い紫の星空。
キャラクター名:「シュガーナピ(Sugar Nappy)」と印字されていた。
「これだよ。」と、彼女は言った。
俺は一つうなずいた。それは「見たよ」のサインだった。
桐生は説明を続けた。やや早口で、少し期待を込めて言った。
「明日発売なんだ。限定コラボで、コンビニ先行販売なの。各店舗にあるのは決まった数だけ!」
俺は彼女のスマホ左上の時間表示を一瞥した。
午前十一時六分。
昼の太陽はとても明るく、彼女のスマホのガラス面に反射して少し眩しかった。
でも桐生自身の雰囲気は澄んでいて、やっと本音を言えたことで少しリラックスしているように見えた。
「……そのためにバイトしてるのか?」
「うん。」彼女はまったく迷わずに答えた。
そして、誤解を避けるようにすぐ付け加えた。
「お金に困ってるってわけじゃないよ? 普段のお小遣いで足りてるの。でも今週は……ちょっと先に別のもの買っちゃって。」
「……先に使い切ったってことか?」
「うん。」彼女は素直に認めた。
「それでね、友達から借りるのもイヤだったし、家の人にも言いたくなくて。だから、バイトして、ちょうどそのチャームの分だけ稼げればいいなって思ったの。」
俺は何も言わなかった。
桐生は俺を見て、まだ理解していないかもしれないと思ったのか、もう一言付け加えた。
「つまり……自分のお金で、自分の欲しいものを買いたいってだけ。そうした方が達成感あるでしょ?」
彼女の口調は軽かったが、その表情は本気だった。
俺は彼女のスマホ画面に映るその猫をもう一度見た。
ピンクと白の毛、紫の星のような目、小さな羽が背中にふわりとついている。
確かに、女の子が好きそうなファンタジー系のキャラだった。
そのチャームが女子の間でどれだけ人気なのか、あるいはこのキャラが全校で話題になっているのか、俺には分からない。
でも桐生が「自分で手に入れたい」と言ったときの目は、本物だった。
桐生は甘えてもいないし、可哀想ぶってもいないし、見せびらかしてもいなかった。
ただ、本当に、心からの動機を真剣に説明していただけだった。
彼女は本当にそのキャラが好きで、
その小さな願いのために、わざわざコンビニの前で何時間も立っていた。
彼女がさっき「今日からバイト始めた」って言っていたのを思い出した。
そして今、彼女はただガラス扉の隣に立っているだけで、複雑な作業はしていなさそうだった。
だが、立っているだけでも、これは彼女自身が選び取った手段なのだ。
「これが欲しい」とはっきり言える人。
そのためにまじめに働いて、チャーム一つのためにバイトを選ぶ女の子。
俺は彼女を見つめたまま、言葉を続けなかった。
彼女はスマホをしまいながら、俺が「しつこい」と思うのを気にしてか、
けれども口元は我慢できずに少しほころばせた。
「とにかく、あの猫ちゃんが大好きなの。」
俺は軽くうなずいた。
彼女はそれ以上、俺の感想を聞こうとはしなかった。
おそらく、他人がどう思おうと気にしていないのだ。
彼女はただ、自分がやりたいことをやろうとしているだけ。
俺は落ち着いた声で、ひとつ尋ねた。
「だったら、友達から借りればよかったんじゃないか?」
これは単なる一般的な疑問だった。
大抵の人なら、友達に少し頼って、数日後に返せば済む話だと考えるだろう。
だが桐生は首を小さく横に振った。
彼女はまるであらかじめ答えを用意していたように、迷いなく、ためらいもなく話した。
「もしその子たちがお金を貸してくれて、それでお昼ご飯が買えなくなったら、それって、私がすごく悪い子になっちゃうでしょ?」
彼女の口調は穏やかで、冗談のような雰囲気はなかった。
かわいこぶっているわけでもないし、甘えてもいない。
彼女自身が、心からそう思っているだけだった。
俺はすぐに返事をしなかった。
代わりに、昨日のある場面が頭にふっと浮かんだ。
試合が終わった後、負けたクラスのメンバーがコンビニの自販機の前で、
「敗北のおごり代金」を分担していたあの光景。
「一人 150 円か……11 人で1650 円?」
「今週のランチ代なくなるって……」
「うそ……お小遣い、全部吹っ飛んだじゃん……」
「アイツが飲んだのはサイダーじゃなくて、俺らの汗と涙だよ……」
「漫画買ったばっかなんだぞ俺……」
あの叫び声、愚痴、泣きマネ、集団の絶叫。
俺はあの時、手に草苺サイダーを持って、欄干に座りながら、
計算機をはじいている彼らの様子を静かに見ていた。
……もし彼女が借りていたら、誰かの昼食が消えていたかもしれない。
俺はそっと笑った。
声は出さなかったし、バカにしていたわけでもない。
ただ、彼女のその考えが、
口当たりの良いだけの「美談」ではないと分かったからだ。
俺は頭を少し傾けて、彼女を見た。
「……その考え方、なかなか立派だな。」
そう言ったとき、俺は笑っていなかったし、感情の色も乗せていなかった。
淡々とした口調、だが、真剣だった。
彼女は目を上げた。
少し意外そうな表情。まさか褒められるとは思っていなかったようだった。
だが俺は、さらに一言添えた。
「褒める価値がある。」
それは賛美というより、評価に近かった。
俺は誰かの行動で簡単に人を褒めたりしない。
だが彼女のその言葉には、迷いも演出もなかった。
その「自然と人のことを思いやれる在り方」は、
多くの人が作文では書けても、本心では持っていないものだった。
だから俺は言った。
こういう人は、褒められるべきだ。
彼女は、俺がここまで真面目に言うとは思っていなかったらしく、
一瞬だけ固まったように見えた。だが何も言わなかった。