彼女は君に嫁ぐつもりはない
校庭の自動販売機の前には人が溢れていた。
夕陽は一人一人の影を長く伸ばし、まるで戦いを終えて帰還した隊列のようだったが、そこにあるのは厳粛さではなく、今にも弾けそうなほど軽やかな空気だった。
俺はそのうちの一台に寄りかかり、熱を帯びた金属の筐体に肩を預けながら、さっき選んだばかりのいちごソーダを手にしていた。
瓶は冷蔵されていたため、表面にはうっすらと曇りがかかっていた。霧は指の関節に張りつき、少し湿っている。
ピンク色の液体が瓶の中で細やかな光を反射しながら揺れている。瓶口を上に向け、親指でそっと弾いた。
パシュッ——
開栓音は大きくないが、周囲の笑い声が一瞬途切れたその隙間に、ぴたりと嵌まるように響いた。
ソーダの香りが一気に広がる。やけに甘ったるい人工いちごの匂いが、微炭酸の刺激と混ざり、風に乗って夕陽の中へ溶けていった。
俺は瓶を見つめながら、淡々と告げた。
「これにする。」
誰を見るでもなく、強調するでもなく、ただ事実の確認——いちごソーダ、150 円。
隣のクラスの十一人は、まるで儀式のように円陣を組んでいた。騒いでいるのではなく、本気で「おごり金額の精算」に取り組んでいた。
彼らはボールバッグから紙とペンを取り出し、電卓を叩き、財布と小銭を照らし合わせていた。
まるで「財務大臣による経済危機対策会議」そのものだった。
「一人 150 円……11 人で……1650 円……?」
「今週の昼飯代が消えた……!」
「うそだろ……小遣いが吹っ飛んだ……」
「彼が飲んでるのはソーダじゃない、俺たちの汗と涙だ……」
「無理だ……昨日マンガ買っちまったばっかりだし……」
「明日の朝食、袋のパンの袋だけしか食べられないかも……」
周囲は笑いの渦だった。高いからではない。
全員わかっていた——これは賭けの結果であり、そして自分たちが素直に負けを認めると最初から覚悟していた。
うちのクラスの連中は飲み物を開けながら、向こうの「財務会議」を眺めていた。表情はバラバラで、くすくす笑う者、深刻そうに見せかける者、首を伸ばして覗き込む者、遠慮なくツッコミを入れる者までいた。
「なぁ、小銭ちょっと貸そうか?利子つけて返してもらうけど。」
「いいじゃん、また澄寒に蹴ってもらえば?もう一回負けてもらおうよ?」
俺はそういうやりとりには加わらず、校庭の柵の前まで歩いて行き、そのまま腰を下ろした。
瓶を膝に乗せると、水滴が夕陽の斜光の中でキラキラと光った。
一口飲んだ。
炭酸の泡が舌先で弾ける。思っていたよりも甘くて、少しクドい。でも、嫌ではなかった。
特に嬉しいわけでもない。ただ、味覚として淡々と受け入れただけだった。
いちごソーダ、150 円。今日は俺が勝ち取ったものだ。
急いで飲み干すつもりはない。瓶口を指先でくるりと回し、再び膝の上にそっと戻した。
少し離れたところでは、もう誰かが芝の上に寝転んでいた。向こうのクラスの突撃型フォワード。彼は叫びながら転がり回っていた。
「高すぎるって!負けた上に、こんなソーダまで損した気分だよ!」
「今週のカレー代、全部これで飛んだわー!」
その隣で誰かが息ができないほど笑っていた。
「誰だよ「負けたらおごりな!」って言い出したやつ!最初からジャンケンにしとけばよかったんだよ!」
「違う違う、いちごソーダが問題なんじゃない、澄寒の「チョキ」が出てきたのが問題だったんだろ!」
この一言で爆笑がさらに膨れ上がる。
俺のクラスの数人は仰け反って笑い転げ、誰かが俺のラストの「チョキ」を真似して地面にひっくり返った。
「お前のはオーバーヘッドじゃなくて、ただの背面落ちだって!」
「お前には「逆さまチョキ落ち」って名前をつけてやるよ!」
俺は彼らを一瞥し、表情を変えずに右手を上げた。再び、あの「チョキ」のポーズ。
手のひらを外に向け、手首をわずかに傾ける。
「いちごソーダ、150 円。」
声は軽く、特に強調もない。ただ「この取引は正当だった」と再確認したような、そんな一言だった。
彼らはまたも爆笑。
「出たよ!またチョキだよ!」
「このチョキは飲み物のパスコードかよ!」
「お願いだから明日は高いぶどう味にしないでくれよーー!」
俺は答えず、ただまたひと口ソーダを飲んだ。
泡は少しぬるくなっていた。炭酸の刺激も少し弱まっていたが、甘さは安定していた。
瓶の中の気圧が少し上がっているのを感じ、俺は瓶口を押さえて泡が溢れないようにした。
「腹減ったな……試合のあとってマジで唐揚げ定食食いたくなるよな……」
「黙れ!さっきおにぎり最後の一個取ったくせに!」
「誰か明日コンビニ弁当予約してない?俺、カレー&ハンバーグ弁当食いたいんだが……」
「スポドリのチケット余ってるやついる?昨日アイス烏龍余分に買っててさ……」
夕暮れの校庭に、日常の会話が静かに広がっていく。
瓶の開栓音、缶のリングが鳴る音、笑い声、石を蹴る音、遠くで靴音が地面に長く尾を引く音まで。
それらすべてが、ゆっくりと景色に溶け込んでいった。
彼らは本気で明日の「リベンジ戦」について楽しそうに話していた。
誰かが「明日はバスケな!」と叫べば、別の誰かが「俺ドリブルできないけど!?」と首を振り、さらに「じゃあお前はブロックされ役な!」という声が飛ぶ。
「絶対に勝ち返すぞ!」
「明日は絶対勝つからな!」
「お前ら、俺のスリーポイントの準備できてるか!?」
それは挑発じゃない。
負けるかもしれないと分かっていて、それでも「勝つ」と叫ぶのは、青春の儀式のようなものだった。
俺は柵に腰掛け、足を地面につけたまま、手にしたいちごソーダの瓶の冷気が指先に伝わるのを感じていた。
指先に震えはない。
こういう時間が嫌いじゃない。
明るくて、賑やかで、うるさくて、若者の匂いがする。
俺は中心にいるわけじゃない。けど、確かにこの輪の中にはいる。
騒がず、でも離れない。
ひと口、ソーダを飲んだ。
喉に炭酸が軽く刺さる。
甘さは現実味がないほどに甘い。
けれど——確かに勝利の味だった。
「——明日、昼休みにまたバスケやろうぜ!」
その声が群れの中から飛び出した。隣のクラスの中で一番足が速い男だった。
自販機で買ったばかりのウーロン茶を片手に掲げ、高らかに叫ぶ。まるで今日の負けをその場で清算しようとしているみたいだった。
「そうだ、リベンジだーー!」
もう一人が続く。声はグラウンドの風に乗って、旗みたいに広がった。
「でも今度はクラス分けじゃなくて、くじ引きだ!ランダムチーム戦にしようぜ!そっちの方が絶対盛り上がる!」
俺はいちごソーダを握ったまま、コンクリの段に腰掛けていた。
瓶にはもう薄い霧がかかり、冷気が掌にじわじわと染みてくる。
すぐには返事をしなかった。
耳に入ってくるのは、次から次へと飛び出す彼らの声。
誰かはもう地面にしゃがんで、くじの順番をシミュレートしていたし、誰かは「瓶のフタに名前書いて、それで引こうぜ」と提案していた。
誰かがふざけて言った。
「なあ、天霧が俺のチームだったらお前ら涙目確定な?」
「うわ、それ引いたら勝ち確やん!」
「もうアイツ一人で全員相手にさせようぜ。止められるもんなら止めてみろ!」
笑い声が爆発する。
まるで空気そのものが熱を持ったみたいに、どんどん熱気が膨れ上がっていった。
俺はゆっくりと瓶を持ち上げた。
いちごソーダの液面が小さく揺れ、気泡が瓶の内側をゆっくり上昇していく。
何も派手なことは言わなかった。
叫ばなかったし、大げさな動きもなかった。
ただ彼らを見て、いつも通りの平らな声で——
「明日はぶどう味で。」
一瞬、全員が黙った。
次の瞬間——
「うわあああ!!また飲み物予告きたーー!!」
「マジで毎回試合の前に決めてんのかよ!?」
「この人、飲み物の預言者だろ!?チョキの召喚術かよ!?」
「ぶどうソーダですね!?了解です、150 円準備しときます!」
「俺は絶対同じチームがいい!じゃないとまた財布が死ぬ……!!」
「勝ちたいのか、保険かけたいのかどっちなんだよ!?お前、人間保険システムかよ!!」
否定はしなかった。
瓶の口を唇に当てる。
ひと口だけ、軽く。
泡はもう少しぬるくなっていたけど、甘さは相変わらずで、夕暮れの風と混ざって心地よく広がった。
多くを語らなくても、彼らはちゃんと聞いていた。
「明日はぶどう味」——それはただの冗談じゃなくて、静かな宣戦布告のようでもあった。
「じゃあ、こうしようぜ!」
「明日はくじ引きでチーム決めな!」
「クラス戦は禁止な!また一人で蹴散らされるのは勘弁!」
「いいぞ、くじで決めよう!負けたらまたぶどうソーダおごってやるからな!」
俺は何も言わずに、手元のいちごソーダの瓶を軽く持ち上げた。
ガラス瓶は夕陽の光を浴びて、淡いピンク色の反射を返してくる。
瓶の露が指を濡らし、残りの液体はもう半分を切っていた。
気泡は細かく、もう最初みたいに弾ける音を立てることはない。
ただ静かに、微かに甘い後味を残して、唇の隙間に広がっていく。
彼らはまだ騒いでいた。
笑って、叫んで、戦が終わったばかりなのに、もう次の戦いを待ち望んでいる少年たちのように。
俺はただ耳を傾けていた。
口を挟むことはなかったけど、立ち去ることもなかった。
初めから俺の姿勢は変わらない——
騒がず、でも離れない。
いちごソーダはまだ残っていた。
明日のぶどう味は、もう予約済みだった。
夕陽はまだ空にあって、校庭の影はすでに花壇の縁まで伸びていた。
自販機の周りには人だかりができていて、別のグループは地面にしゃがみ込み、試合後のまとめと戦術反省会をしていた。
誰かが制服を肩にかけ、誰かは膝あてを直し、誰かはそのまま寝転がって日差しを浴びていた。
俺はすぐには帰らなかった。
ただ操場の柵の下に寄りかかって、まだ手にあるそのいちごソーダを握っていた。
中身はもう三分の一。
気泡は細くなり、最初の弾ける音は消えていたけど、口に含めばまだその柔らかくて粘るような甘さが広がっていく。
ゆっくりと、焦らずに飲んでいた。
そのとき、校舎のほうから走る足音が聞こえてきた。
一人の男子が風のように駆け寄ってきて、息を切らしながら叫んだ。「——おい!生活指導の先生が正門にいる!今、人数を数えてる!!」
全員が静まり返った。
さっきまでの盛り上がった声が、電源を切られたみたいに一瞬で止まり、みんなの頭の中に同時に浮かんだ三文字:
「ヤバい。」
「マジで……?もう放課後だろ?」
「なんで人数なんか数えてるんだよ?点呼か?」
「名前書かれたら、昼休みは教室から出られないぞ……」
「しかもあの人、名前を黙って親に通報する恐ろしい権限持ってるからな……」
誰かがそう言いながら、こっそりとバッグを手に取り始めた。
芝生に座っていた数人も、すぐに立ち上がる。
「早く早く早く!校舎の方から行こう!」
「正門はダメだ!絶対に最後に出た人を覚えるぞ!」
「横から回るぞ、あそこの出口だ!」
爆弾が落ちたみたいに、スズメの群れが飛び立つように、七、八人が一斉に校舎の側廊へと走り出した。
何人かは一緒に走りながら、「急げ——正門行くなよ!!」と叫んでいた。
俺は走らなかった。
ただ、いったんストロベリーソーダの瓶を唇に当てて、ひと口啜ってから、瓶を手に下げ、指先で冷たいガラスを握った。
そして、方向を変え、ゆっくりと校舎の側廊へ歩いていった。
歩くペースは早くもなく、遅くもなく。
自販機の角では、まだ離れていない悲鳴が聞こえていた。
あの、飲み物の費用をまだ計算していた隣のクラスの連中らしい。
でも、俺はもう校舎脇の細い通路に曲がっていた。
コンクリの地面は日差しを長く受けていて、足の裏で触れると、じわじわと熱が外に逃げていくのがわかる。
校舎の影が前方の廊下を覆い、日向からそこに入ると、一気に気温が一段階下がったような感覚になった。
俺の足音はこの空っぽの廊下に落ち、反響する。ストロベリーソーダの瓶は指先で一度回され、また掌に収まった。
まだ三分の一残っている。
急いで飲み切る必要はない。
俺は一人で、この廊下をゆっくりと歩き、校舎内部の裏口へと通じる道を進んでいった。
——生活指導の先生から逃げてるわけじゃない。
ただ、こっちの道の方が静かだから。
校舎一階の側廊は、正門よりずっと静かだ。
空はもう暗くなり始めていて、夕日が廊下の端の非常口の窓から斜めに差し込んで、橙の光を床に敷いている。
俺は歩きながら、手を上げてストロベリーソーダをひと口啜った。
瓶のガラスが指の間で軽く揺れ、泡が瓶口に沿ってゆっくりと消えていく。
右手側の壁には掲示板がずらっと並んでいて、毎週の通達や、部活の勧誘、時々は成績発表や表彰者の簡報が掲示されている。
特に見るつもりはなかったけど、視線がふと右に流れて、止まった。
廊下の一番端、少し新しい掲示がある。その四隅は透明なテープで貼られていて、紙に折り目はない。背景は白地に金の文字。
タイトルにはこう書かれていた:
【全国高校テコンドー選抜大会 女子の部 優勝】
その下には一枚の写真があった。
笑顔を大きく見せる女子生徒が写っていた。テコンドーの道着を着て、髪を高いポニーテールに結び、肩には金メダルのリボンがかけられていた。
口元はコントロール不能なほどに大きく開いていて、試合直後に撮られたのだろう。まだ熱の残るような興奮が表情に残っていた。
写真の下には、小さくこう書かれていた:
【二年 真璧舞華】
俺は立ち止まらず、視線をそこに滑らせただけだった。
「真璧舞華」……聞き覚えがあるような、確かに「見覚え」はあるが、特に気に留めたことはなかった。
ソーダを一口飲んで、冷たい泡が喉をかすめたまま、目線を掲示板から外し、また歩き出す。
別に彼女に特別な感情があるわけじゃないし、「可愛いな」って感想も浮かばなかった。ただ、歩きながら一瞥して——写真に写るその顔を記憶に刻んだ。
ピンクの長髪、少しカールのあるポニーテール、前髪に乱れた毛束、小さめの顔立ち、澄んだ目、自然な笑み。
それだけ。
細かい特徴は覚えてないが、名前と顔の輪郭だけは頭に残った。
俺の中では、それは「校内情報」の一つだった。誰が物理コンテストで表彰されたとか、誰が文芸部部長だとか、そういうものと同じ。
ソーダを飲みながら、俺は校舎裏口への道を進んだ。
炭酸はもう泡立たず、舌の奥にほんのりと甘さだけが残っている。
彼女の写真も、もう頭の中から遠ざかっていた。
正門へ行くつもりはなかった。
背後で自動ドアがゆっくりと閉まり、夕日の光も校舎の向こう側に切られていく。外の明るいグラウンドとは対照的に、校舎の廊下はだいぶ薄暗くなっていた。
床には反射するような金属的な冷たい光が浮いていた。
手の中には、まだ飲み残したストロベリーソーダがある。瓶の口が唇に触れたまま。泡はもう静まり、味も薄くなっていたが、冷たい甘さはまだ残っていた。
掲示板の角を曲がった先は、裏口へつながる階段エリア。
ここからの廊下は空洞が強く、足音を落とすと、天井と壁に何重にも反響する。
本当はそのまま通り抜けるつもりだった。
でも、ちょうど角を曲がった瞬間、前方から何人かの声が聞こえてきた——。
騒がしいわけではない。低い声の会話だった。
男子たちのようだった――声は大きくないが、わざと抑えた口調で、「薄く笑ったような」調子と、先生に聞こえないようにする狭い周波数があった。
「聞いたか?真璧さん、この前の体育の授業でまた先生にデモンストレーションやらされてたってさ。」
「うんうん、俺も聞いた。組んでた男子がちゃんと受け止められなくて転んだらしい。怪我はなかったけど……その時クラス全体がびびったって。」
「普通の技の見本でしょ?別に彼女が無茶したわけでもないし。」
「わかってるけどさ……でもさ、テコンドーやってる女子って、ちょっと強すぎる感じあるじゃん。」
「マジで。それに顔は清楚系なのに、毎日蹴りや打撃の練習してるとかさ……なんかギャップがすごい。」
「結局、どんなに綺麗でも、誰も告白とかしないんじゃね?毎日投げ技とかされてたら無理だろ。」
「正直、嫁がああいうタイプだったら、夜寝る時も防具つけなきゃいけないわ。」
「ある日突然、練習台にされてたらと思うと……男の俺でもちょっと怖い。」
「ああいう子……結婚なんて無理だよな。」
「もし機嫌悪かったら、ベッドごとひっくり返されそうだし――ハハハ!」
彼らは笑った。声を抑えながら、それでも「自分たちではウケてる」つもりの軽い調子で、まるで無害を装っているようでいて、実際には一つ一つが鈍器のように侮蔑を帯びていた。
「顔は綺麗だけど、でもああいう技見たら……全然女っぽくないよな。」
「どれだけ可愛くても、誰も本気で好きにはならないって。」
「考えてみろよ、ある日いきなり拳が飛んできて、病院送りで顔が腫れたら――」
「リアルすぎるだろハハハ!でもマジで、友達ならまだしも、彼女とか無理無理。」
「もし彼女が真璧さんだったら、俺一生独身でいいや。」
俺は足を止めた。
声は前方、階段の踊り場下のくぼんだスペースから聞こえてきた。
彼らは声を抑えて話していた。先生に聞こえないようにしていたつもりなのだろうが、こういう「抑えた軽薄さ」は、静かな廊下では逆に耳に刺さる。
俺は近づかなかった。声もかけなかった。
ただ、その場に立って、ストロベリーソーダの瓶を握りながら、彼らが一言一言積み重ねていくその「無害を装った侮蔑」を聞いていた。
話題は「出来事」じゃない。事実の議論でもない。
そこに彼女はいないのをいいことに、「性別」や「雰囲気」をネタにし、「強い」という事実を「悪いこと」のように扱っていた。
こんな会話、何度も聞いたことがある。
初めてではないし、これが最後でもないだろう。
俺は彼らをすぐに止めなかった。
なぜなら――その時、もう一つの音が聞こえたからだ。
微かで、短い――足音。
俺の背後、少しずれた角の方から聞こえた。
一歩、二歩――そして静止。
それ以上の動きもなく、去るような足音のリズムもなかった。
歩いている途中の誰かでも、偶然通った生徒でもない。
その人は、あの会話を聞いて――意識的に、歩みを止めた。
呼吸音は聞こえなかった。だが、こうした閉ざされた廊下では、「動かない」という事実そのものが存在感となる。
俺は振り返らなかった。
どの角なのか、どの方角かも、意図的に確かめなかった。
ただ、ここには――俺一人ではない、誰かが確かに「聞いた」と知っていた。
どれだけ聞いていたのかはわからない。
今、その人の気持ちが驚きなのか、怒りなのか、それともただ動けないのかもわからない。
だが、あの言葉たちは――確かに、誰かに聞かれた。
俺はその場から動かず、何も言わず、彼らを制止しもしなかった。
階段下では、まだ彼らが笑っていた。
誰かがふざけて大げさなパンチの真似をし、誰かが「ハハ」とごまかすように笑っていた。
多分、彼らは思ったのだろう。
「上には誰もいない」と。
あるいは、そもそも「誰かに聞かれる」なんて考えてすらいなかったのかもしれない。
俺は瓶を唇から離し、少し首を傾けた。
思考が一区切りついたような仕草だった。甘ったるい香りがまだ喉に残っていて、まるで溶け切らない砂糖のように、べたつきながらも不快ではなかった。
「なあ。」
俺は声をかけた。
声は大きくない。
でも、この静かな廊下の中にしっかりと響くトーンだった。
男子たちの笑い声が一瞬止まった。
「人のいないところで、あんなふうに言うのって、良くないと思うよ。」
俺の声にはトゲも怒りもなかった。
ただ、事実を述べただけの、落ち着いた言い回しだった。
すぐには反応が返ってこなかった。
まさか誰かが声をかけてくるとは思わなかったのだろう。それも上の階からとは。
少し間を置いて、誰かが気まずそうに笑った。
「え……?いや、別に君のことじゃないし?」
俺は笑い返さなかったし、近づきもしなかった。
「もちろん。俺のことじゃないのは知ってる。」
俺は淡々と返した。
「ただ、真璧さんのことを擁護してるだけだよ。」
彼らは明らかに言葉を詰まらせた。
俺が誰の名前を出したことではなく、「立場」を明確にしたことに対して。
「は?でも、俺ら……そんなに間違ったこと言ったか?」
俺は手にしていたストロベリーソーダを見下ろした。
瓶の周りにできていた水滴が、ちょうど指の骨を伝って、ぽたりと落ちた。
「君たちが間違ってるのは、彼女をそういうふうに語ること自体なんだ。」
俺は目を上げた。
「真璧さんが全国テコンドー大会で優勝したのは、彼女自身の努力によって勝ち取った栄誉だ。」
「彼女は称賛されるべきで、陰で笑いの種にされる存在じゃない。」
「いつから――女の子の「強さ」が、君たちにとって「欠点」になった?」
数秒の沈黙。
誰かが小声で「気にすんな」などと言い、笑ってごまかそうとした者もいた。
「冗談だよ、悪気はなかったって……」
「じゃあさっきのあの笑い声は、「楽しい」からか?それとも「見下し」からか?」
誰も答えなかった。
俺は言葉を続けた。
「好きになれなくてもいい。でも、貶す資格はない。」
「彼女は君たちに「優しさ」を義務づけていない。けど君たちは、彼女に対して「最低限の敬意」を欠いてる。」
彼らの表情が固まり始める。それでもなお、しつこく反論しようとした。
「俺たちが言ったのは、「もし誰かが彼女と結婚したら大変だろうな」ってだけで……別に間違ってないだろ?」
俺は小さく息を吐いた。落ち着いた調子で返す。
「彼女は、君と結婚するつもりなんてない。」
「だから君の「結婚しない」とか「好きじゃない」っていう言葉なんて――彼女には、何の影響もない。」
「それに、仮に誰かが彼女と結婚して、仮にある日「殴られた」としても、それが意味するのは――その男が、そもそも彼女の夫に相応しくなかったってことだ。」
「彼女に安心や幸せを与えるどころか、自分が傷つけられることばかりを恐れるような男なら――」
少しだけ間を置いた。
「その時、拳を振るうのは彼女じゃなくて、君が「受けるべき一撃」なんだよ。」
彼らは何も言えなくなった。笑った表情のまま、目には動揺と戸惑いが浮かんでいた。
「それに――彼女は別に「結婚」する必要もない。」
「真璧さんは全国チャンピオン。彼女には彼女の夢と志がある。」
「どこに行こうが、君たちの承認なんかなくたって、自分の価値を証明していける人なんだ。」
俺は瓶を軽く振った。泡が口元でふわっと立ち、すぐに消える。
「最後に。」
俺は視線を静かに戻し、変わらぬ口調で言った。
「男として、女の子の陰口を叩く君たちは――最低だよ。」
それ以上、返答を待たなかった。
彼らに謝罪を求めるつもりもなければ、言い訳を聞くつもりもない。
この言葉は、誰かを説得するためでも、どちらかの味方に立つためでもない。
ただ、あの言葉たちが――空気の中に放置され、腐っていくのを許せなかっただけだ。
だから、俺は言った。
それだけのこと。
振り返らなかった。
階段下は沈黙に包まれていた。何か言いかけた者も、隣の視線に押し止められていた。
俺の横を、風のような足音が通り過ぎた。枝が窓枠を擦るような音。それとも、影の中で誰かがそっと離れていく気配。
俺は後ろを見なかった。
もし誰かが聞いていたとしても、それは偶然の出来事だ。俺は、誰だったかを知る必要はない。
どうでもいいわけじゃない――でも、知る必要はない。
俺はストロベリーソーダを手に取った。瓶の冷たさはもう消えていた。
ガラスに残る水滴が、指先を滑って落ちていく。その様子は、時間の中で溶けていくようだった。
瓶口を唇に当て、ひと口。
泡はもうほとんどなかった。そのぶん甘さが際立っていた。喉に刺さる感覚はなく、ほんのりとした温かみを感じさせる、柔らかな甘さだけが残っていた。
俺は廊下の端を一歩抜けた。
校舎の影が背後で徐々に引いていく。
さっきまでのささやきとやり取りは、まるでコンクリートの隙間に埋もれて消えたかのように、もう響かなかった。
俺は知っている。あの廊下の曲がり角、窓の奥の影の中に、誰かがじっと立ち尽くしていたことを。
その足音は極めて静かで、呼吸すら気づかれないほどだった。沈黙は、避けていたのではなく――何かを言うべきかわからなかったのだろう。
俺は問いかけなかった。
「誰か聞いてたのか?」なんて、そんなことは一言も言わなかった。
ただ校舎を抜け、門の脇道を歩いた。
遠くで街灯が灯り始めていた。白い光がアスファルトにやわらかな光の輪を作る。
グラウンドの方では、まだ残っていた部活生たちが片付けをしていた。かすかに笑い声が聞こえてきて、温かく滲んでいた。
手に持った飲み物は、もう残りわずか。
泡はすっかり消えて、瓶底にはほのかに甘いソーダだけが残り、夕暮れの空の色を映していた。
俺は瓶を逆さにし、ガラスの曲面に映る波紋を見つめた。
――そろそろ、この飲み物も終わりだ。
顔を上げた。
夕日は沈みかけていた。空の端は暖かい橙から、灰混じりの深い赤に染まっていた。まるで絵の具がすれたキャンバスのようだった。
足取りはゆっくりで、俺はそのまま前へ進んだ。
誰も追いかけてこないし、声をかけてくる者もいなかった。
あの人は、俺の言葉を全部聞いていたはずだ。
俺は歩みを止めなかった。
ぬるくなったストロベリーソーダを手に、そのまま陽の光より長い道へと入っていった。
背後では、校舎の影が静かに消えていった。
あの角のどこかに、俺が振り返らなかった場所に、誰かがまだ立っていたかもしれない。
それは臆病でも、迷いでもない。
ただ――目を合わせる必要なんてない、そういう瞬間があるだけだ。
俺の手の中、瓶の握りが少し緩む。中のソーダが静かに揺れて、瓶の内側を軽く叩いた。
遠くでは、数枚の落ち葉が風に乗って鉄の門柱に貼りついた。それは、まるで言葉のない別れのようだった。
俺は振り返らなかった。歩調も変えなかった。
ただ静かに、その場を離れた。
この日常に本来あるべき「温度」が、誰かの手によって――静かに握られたように。
俺たちは顔を合わせていない。言葉も交わしていない。
けれど、あの一瞬は、確かに「見られた」時間だった。