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ピースサインとオーバーヘッド

  放課のチャイムが鳴った瞬間、教室に響いていたペンを走らせる音と時折の咳払いが交差する空気が、完全に破られた。


  「はいはいー、明日の小テスト忘れないように。数学の係は後でプリント取りに来て。」


  教師の言葉が終わると、足音もすぐに遠ざかった。


  ノートを閉じ、最後の数式へのメモを紙の擦れる音と共に収めた。


  周囲では椅子を引く音、誰かを呼ぶ声、笑い声が同時に湧き上がる。


  「澄寒、早く早く、お前の番だよ!」


  高橋が俺を軽く押し、陽射しみたいな笑顔を浮かべながらボールを手に持って席の端から飛び降りた。


  押し返さずに立ち上がり、椅子の背から制服の上着を取り、肩にかける。


  「服はもう置いとけって、早く行こうぜ、遅れたらグラウンド取られちまう!」


  「奴らはもう着いてる」静かに答えた。


  「おいおい、そんな真顔やめろって。今日って『勝った方がジュース奢ってもらえる』って約束だったろ?昨日お前、どれ飲むか決めてたじゃん。」


  一瞥を送り、わずかにうなずく。


  「イチゴ炭酸水。新作だ。」


  高橋は笑いすぎてよろけそうになった。


  俺は笑わないが、それでも本気で考えていた。ルールが決まっているなら──「負けたら奢る」。勝つ確率が高いなら、頼む飲み物を決めておくのは当然だ。


  校舎裏のグラウンドへ向かう廊下を、俺たちは連れ立って歩く。ほとんどのやつは制服のシャツ姿で、上着は肩に掛けるか腰に巻いていた。


  斜めに差し込む陽の光がコンクリートの床に伸び、影が細長く延びている。少し暖かい光だ。


  正式な試合ではない。審判も観客もいない。だがグラウンドの周囲には人だかりができていた。クラスメイト、隣のクラスの連中、それに通りかかった運動部のやつらまでも。


  「舐めんなよな、B組は連携練習してんだぞ!」


  「うるせー、俺は今日Soda Berryのやつって決めてっからな!」


  騒がしくも気負わない掛け合い。誰も誰かを押さえつけようとはしていない。


  俺たちは皆、友達で、クラスの垣根も低い。これは競争じゃない。「青春の賭け試合」だ。


  俺はサイドラインへ歩き、足元の試合球の横に立つ。磨かれたその表面には多少の擦り傷があるが、縫い目はしっかりしている。


  上着を端のベンチに放り、ゆっくりとシャツの袖をまくる。手首まで肌を出し、準備を整える。


  俺は綺麗に、正確に蹴る。


  見栄のためでもなく、誰かに見せたいからでもない。ただ──


  俺は本気で好きなんだ。


  身体でリズムを読み、隙を見つけ、蹴る瞬間に全てを預ける。この一連の動作が連なった構造体──そこに没頭することが。


  全て整った。笛の音が鳴る。


  試合開始。


  ボールをセンターに置いた。


  審判はいない。ただ隣のクラスのやつらがタイムキーパーや記録係をしている。完全に普通の高校生による放課後の賭け試合。


  だが──奴らは本気だ。


  俺もだ。


  さっきの一蹴りでウォームアップは済んだ。靴底もこの土のグラウンドに慣れている。


  一歩下がって、サッカーボールの丸みに視線を落とす。斜陽が差し、反射光がボールの左側だけを照らしている。


  ボールは軽い。風はわずかに逆方向。


  「澄寒、お前がキックオフ!」高橋が叫ぶ。


  俺はうなずく。


  試合開始。


  すぐには蹴らなかった。


  右から突っ込んできたのは隣のクラスの山下。足運びが速く、左足が強い。俺の右側を狙っている。


  俺はわざとボールを少し揺らし、リズムを遅らせた──


  彼は俺が止まると思った。


  俺は左に軽くフェイントをかけ、足首をひねり、内側の足の甲でボールを横にすくった。


  ボールは計算通り、地面を這うように斜め前へ転がる。


  同時に身体もボールに合わせて地面すれすれに回り込み、山下の横をすり抜けた。


  後ろ足のかかとで軽くすくい上げる──ボールが正確に軌道を戻し、俺の重心軸の内側にぴたりと収まった。


  一人抜き。


  「ちっ……」背後で山下が小さく舌打ちした。


  そのままボールを運びながら、味方の配置を視界で確認し、指示を飛ばしつつパスを出す。


  二人が左右から寄ってきた。歩幅が狭まり、接近する。正面にいるのは隣のクラスのスピードタイプ──田所。


  彼はボール奪取が得意で、普通の相手ならすぐにボールを離す場面。


  でも俺は違う。


  ボールを止める。


  左足でそっと横に置き、右足で軽く踏み込み、誘いをかける。


  予想通り、彼の右足が動いた。


  今だ。


  顔を上げて、彼の左肩の動きを見る──半秒ほど重心が遅れている。


  重心が崩れた。


  左足を内側に切り込み、つま先で軽く引っかけて、ボールは逆のカーブで二人の隙間へ転がる。


  そのまま身体ごと二人の間を抜ける。ボールは止まらない。


  両足で斜めに疾走しながら再びタッチして、軌道を微調整。


  三人抜き。


  前方には最後のディフェンダーが一人だけ。立ち姿勢が高く、腰が甘い。


  俺は無理には攻め込まず、ステップのリズムを制御した。


  俺の得意なのは、呼吸で相手のテンポを奪うこと──俺のスピード感に惑わされ、タイミングが合わなくなる。


  その時、サイドラインから歓声が上がる。


  「おいおい──あいつフェイント上手すぎだろ!」


  「ついてけって!3人抜かれてるぞ!」


  「同じ学校のやつ?ありえないって、このテク……」


  気にしない。


  目は十メートル先のゴールへ。角度は完璧ではない、右斜め。キーパーはやや左に寄っている。


  ボールは俺の右足に理想的な位置にある。


  足首を固定し、身体を低く構える。


  強く蹴らず、重心を押さえたまま、足の内側で低くスライスするように蹴る。


  ──ボールは芝を滑り、キーパーの反応範囲を越えて、右下のポストに沿ってゴールへ吸い込まれた。


  「……入った……!」


  グラウンドが一瞬静まり返り、そして爆発するような歓声が響く。


  「ナイスシュート!」


  「お前、やり方ずるくない?笑!」


  「カッコよすぎだろ今の!」


  「絶対ループシュートだと思ったのに、まさかのグラウンダー──」


  俺はその場で動きを止めた。


  右手で無造作にピースを作り、顔の横でゆるく掲げて一言。


  「俺、あのストロベリー炭酸飲料で。」


  遠くで高橋が爆笑してる。


  「最初からそれ飲みたかっただけだろ!!」


  相手は陣形を変えてきた。


  俺が再度攻め込んだ瞬間、相手はすぐに布陣を変えた──三人が前に出て、包囲する形。前後の角度も正確、特に右側のやつはわざと距離を詰めてきている。さっき俺が内側を抜いたコースを意識してる。


  完全に、俺の突破ルートを記憶されている。


  俺は動かない。


  ボールの転がる速度を落とし、足元で軽く押さえたまま、身体を前傾させる。


  相手三人のステップが一瞬遅れ、重心の移動を始める。


  読めた。


  左側のやつは歩幅がバラバラで、ポジションも内側に寄りすぎ。視覚で反応していてリズムを掴めていない。


  右のやつは俺の動きを予測しすぎて、完全にコースを塞ぎにきている。


  正面のやつは一番安定しているが、意識が完全にボールに向いていて、俺の膝の動きに気づいていない。


  ──いい。すべて把握した。


  一歩後退して、ボールを引き下げる素振りを見せる。


  すぐさま左足で押さえ、ボールをストップさせつつ逆方向に引き戻す。


  相手が動いた。


  俺は瞬時に背を向けてボールを隠し、身体を左のやつに密着させて進路を塞ぐ。


  右足のつま先でボールをすくい、地面を這うように反対方向へ。


  一歩横にスライド、ストップ。再び引き戻してフェイント。


  相手はついてこれない。


  視界を低く保ち、視線の端で相手の足元の動きを捉える。リズムが狂っている。下手に足を出せず、ただ見ているしかない。


  足首を内旋させ、次の瞬間──ボールが俺の左足の斜め前に飛び出した。


  引き、接地、急変化。


  三人の隙間を抜けるには、俺の身体一つ分の幅で充分。


  突破成功。


  ボールが俺の重心を引っ張る。踏み出す足の圧力をギリギリで抑え、相手の反応の限界をすり抜ける。


  前にはもうキーパーだけ。


  顔は上げない。


  キーパーは身体を右に寄せ、左側に狭い隙間を作っていた。


  俺は右足を抑え込むようにして、甲の内側で斜めに切るように蹴る。


  ──その瞬間、周囲が静かになった。


  ボールは芝の上を滑り、軌道はほぼ地面と平行だった。


  ──カンッ。


  乾いた音。ボールは右ポストぎりぎりを擦り、ゴールに突き刺さった。


  グラウンドが一秒沈黙し、


  次の瞬間、爆発のような歓声。


  「うおおおおおおおお!?マジで!?」


  「さっきの何!?なんだあの足技!」


  「ポストに当たって入ったぞ!?あれカーブおかしいだろ!」


  「今の三人抜き見た!?なんか、ダンスみたいなテンポだったぞ……ヤバすぎる……」


  俺はその場から動かず、淡々と重心を戻し、額の汗を手でぬぐった。


  試合はまだ終わっていない。


  だが、今の一撃だけで十分だった──俺がただのスピード型でも、パワー型でもないことを、奴らに見せつけるには。


  俺は「構造」と「選択」で、相手を追い詰める。


  相手は反撃に出た。


  フォワードが大胆にルートを変えてきている。明らかにテンポを乱して、一点を取り返しにきている。


  だが、序盤にあった勢いはもうない。


  足音はばらつき始め、連携にもわずかなズレが見えた。


  疲れが出ている。


  彼らはプロじゃない。ただの高校生──俺たちと同じ、普通の。


  一緒に走っていたクラスメートたちも、息が上がっていた。


  「ハァ……マジでこのペースやばいって……」


  「足つりそう……」


  「てか、向こう全然バテてなくね!?」


  返事はしない。


  俺は静かに一歩後ろに下がり、仲間からのパスを正確にトラップ。


  足元でボールを軽く押さえ、テンポを制御。


  着地の瞬間、周囲の重心が一斉にこちらに傾くのを感じた──囲みに来るつもりだ。


  だが、待たない。


  サイドに一歩踏み込み、加速。身体をひねってマークをかわしながら、左サイドを一気に駆け上がる。


  靴裏と芝の摩擦音が鋭く響く。インステップでボールを体の斜め内側に沿わせ、安定したタッチで運ぶ。


  相手のボランチがチェックに来た。


  避けない。


  右足の外側でボールを止め、足首と地面に一秒だけ挟む──テンポを断つ。


  彼の動きが、わずかに遅れた。


  その瞬間、俺は反転し、大きく一歩跳ねるようにボールを蹴り出した。


  再び中盤を突破。


  だが、無理には撃たない。


  角度が悪い。


  斜め前に走り込んだ味方へパス。


  だが相手のセンターバックが反応し、空中のボールを弾いて地面に落とした。


  ボールはタッチラインを割る。


  コーナーキック。


  味方が手を挙げ、息を切らしながら叫んだ。


  「おーい、天霧!ラスト行くぞー!」


  俺は無言でうなずく。


  サイドラインのあちこちから笑い声が聞こえた。


  「さあ、ラストの劇的ゴール来るか?」


  「うちのエースに決まってんじゃん!」


  「なぁ天霧、いってたよな?イチゴの炭酸ジュース飲みたいって!」


  その声に煽りも敵意もない。


  あるのはただ、少年たちの素直な期待。


  ──誰が勝ってもいい。


  でもこの一球には全力をぶつけよう。


  その空気。


  俺はペナルティアークの頂点に立ち、足を開き、呼吸を整える。


  膝に手を当て、背を少し丸め、右足のつま先で芝を静かになぞる。


  風が吹いてくる。遠くのフェンスがわずかに揺れた。


  視線の端に、キーパーの姿。俺を見据え、集中を切らしていない。


  だがこの一球──俺はもう、すべて整えてある。


  コーナーへ向かう味方が俺を見る。


  軽く頷く。任せろ。


  ──この弧線を、俺が受け止める。


  コーナーキック。空気が静かになる。


  ──次の瞬間、跳ぶ。


  ボールが舞い上がる。


  軌道は左下寄り、高く、美しくない──


  だが、これは俺のためのボール。


  落下点はもう見えている。


  右膝に力を込め、一歩でゴール前の空間へ差し込む。


  その瞬間、周囲の音が消える。


  叫ばない。仲間に頼らない。


  相手のディフェンダー二人は右へ寄っている。


  キーパーはやや前へ出ていて、左上が空いている。


  迷わない。身体を反らす。


  地面、空、サイドライン──すべてが回転する。


  右脚を振り上げ、腰を締め、背筋を収束。


  空中で、回る。


  足の甲が、ボールを叩いた。


  オーバーヘッドキック。


  その瞬間、世界が静止した。


  ボールは一直線に、キーパーとDFの隙間を貫き、ネットを揺らす。


  ──ゴール。


  コンマ数秒の静寂。


  そして、嵐のような歓声。


  「うっそだろおい!?」


  「今のマジで!?マジでオーバーヘッド!?」


  「やべぇって……何あのフォーム……!!」


  「ポストすれすれだぞ!?あの角度おかしいって!!」


  隣のクラスのDFがその場に崩れ落ち、


  キーパーは膝に手を置き、ネットを見つめたまま動かない。


  誰かが笑いながら叫ぶ。「お前バケモンかよ……」


  背中から着地した。


  重くない。勢いを受け流し、自然に滑り込んだ。


  息は胸にある。俺はゆっくり立ち上がり、服の埃を払う。


  右足の裏がまだしびれている。さっきの一撃の余韻。


  歓声の中、俺は特に何もせず、そのままセンターサークルへと歩き出す。


  右手を軽く挙げて、ピースサイン。手のひらは外向き。


  振り返る。さっき「負けたら奢る」って言ってた奴を見た。


  「言ったよな。」


  「俺、イチゴの炭酸な。」


  その声に笑いはない。だが、誰よりも強く響いた。


  試合が終わったあとも、耳には歓声が鳴り響いていた。


  周囲ではクラスメイトたちが俺の肩を叩き、さっきのゴールを真似しながら大騒ぎしていた。


  「なにその角度!?あれで入るのかよ!」


  「天霧!!明日の小遣い全部持ってかれたー!!」


  「マジで意味わかんねーって、よく入ったなあれ……!ピースサインのタイミングで死ぬほど笑ったわ!」


  誰かが笑いながら俺の肩に腕を回し、誰かが脱いだジャケットを手渡してくる。観客の中からは「もう一戦!」とか「次こそ勝つからな!」の声も飛び交っていた。


  俺は特に何も返さず、ジャケットを受け取り、適当に腕にかける。


  こういう空気が嫌いなわけじゃない。むしろ──慣れている。


  人混みの中に立ちながら、ふと視線が校舎の方へ向いた。


  なぜだろう、気がつくと俺の目はそちらで止まっていた。


  校舎の影が夕日に引き伸ばされ、グラウンドの柵の半分以上を覆っている。その一階のとある窓辺──そこに、誰かが立っていた。


  ガラスに反射した光で輪郭が歪んでいたが、見間違えるはずがない。


  金色の髪が、陽に照らされてかすかにピンクを帯びていた。


  緩く巻かれた毛先に、斜めに差し込む夕陽が淡い光の縁を作っている。


  ポニーテールの髪を束ねるリボン、すっとした肩のライン、まっすぐ立つ姿勢。


  彼女はスマートフォンを胸の前で構えていた。


  カメラのレンズはグラウンドの方を向いていたが、特に撮影動作は見えなかった。


  ──桐生彩羽。


  いつからそこにいたのかはわからない。


  彼女が写真を撮っていたかどうかも定かじゃない。


  だが、表情に作り物めいたものはなかった。ただ立って、見ていただけのような自然な姿だった。


  俺の視線が彼女の顔に重なった瞬間、ちょうど彼女もこちらを振り向いた。


  ──まったく予期していなかった、目が合った。


  その目が、ほんのわずかに動いた。


  驚いたような、気づかれたことに戸惑ったような、一瞬の揺れ。


  そして──


  彼女の口元が、ほんの少し、動いた。


  それは癖でもなければ、作られた笑顔でもない。


  ふと込み上げた何かに、一瞬だけ表情が追いついたような──無意識の、浅い笑みだった。


  音もなく、抑えた感情の波が、ただ唇の端に滲んだだけ。


  笑みは三秒も持たなかった。


  すぐに気づいた彼女は表情を戻し、スマホをすっと下ろした。


  指先が画面から離れる。


  ──撮っていなかった。


  彼女は撮っていなかった。


  ただ、見ていただけ。


  そのまま、何も言わず、何も残さずに踵を返し、校舎の廊下の陰へと戻っていった。


  足音はほとんど聞こえず、肩の揺れも控えめで、まるで本当に「たまたま通りかかっただけ」というような自然な動きだった。


  俺は視線を戻す。


  周囲ではまだ誰かが騒ぎ、笑い、さっきのコーナーキックやシュートについて話していた。


  俺は静かに息を吐き、ジャケットを肩にかけ直し、足元についた土を軽く払う。


  そして、水飲み場の方へ向かって歩き出す。


  ──イチゴの炭酸、まだもらってなかったな。


  でもまあ、急ぐことでもない。


  試合は終わった。


  ゆっくりとグラウンドの中央を横切り、ジャケットを羽織り直し、柱の下へ腰を下ろす。


  背中に伝わるコンクリートのぬくもりが、じんわりと肌を通して染み込んでくる。


  俺が座る前に、すでに向こうの方から悲鳴が上がっていた。


  「うわぁああ!俺の小遣いがぁあああ!!」


  声は隣のクラスの誰か。まるで人生終わったかのような叫びが、まだ残っていた興奮の空気を突き破って響いた。


  少し横を見ると、芝の上でしゃがみ込んで顔を手で覆ってる奴がいる。


  「ダメだ……今日の昼はおにぎりと水だけだ……」


  「いや、お前昨日も二個おにぎり買ってただろ。」


  真面目に損害額を計算しようとするやつもいたが、現場が混乱しすぎて誰も聞いていない。


  そのうち誰かがふざけて泣き声をあげた。


  「一本150円でもキツイってのにさぁ!今週ずっと水道水生活じゃんかよ〜〜!!」


  笑いと悲鳴が入り混じり、グラウンド全体に広がっていく。


  耳慣れた名前があちこちから聞こえる。いつも食堂で唐揚げを取り合って騒いでる連中ばかりだ。


  一人が真剣な顔でしゃがみ込み、真面目そのものなトーンで呟いた。


  「俺たちも……結構頑張ってたのにな……」


  「うるせぇ!止められなかったお前が悪い!」


  「いや無理だろ!?あの動き、特撮のヒーローだぞ!?止められるわけねーじゃん!」


  彼らは11人で、俺たちの11人に奢らなきゃならない。


  一人一本、最低150円。高いのは選べない。


  隣のクラスの連中は、まるで遺族会のように真剣な顔で円陣を組み、どうやって飲み物代を割り勘にするかを相談していた。


  その空気はテストの結果発表以上に深刻で、それでいてなぜか全員が笑いを必死にこらえている。


  彼らは「どうやって奢りの飲み物代を捻出するか」を国家レベルの会議のように真剣に討論していた。


  「明日のパン代を回そう」とか、「先輩からスポンサー料をもらおう」とか、妙に現実的な案まで飛び出していた。


  「一人一本って……明日の朝飯抜き決定じゃん……」


  「お前、昨日新しいイヤホン買ってたろ。バチが当たったな。」


  「終わった……俺の生活費が……!」


  「明日コンビニでチキン弁当買うつもりだったのにぃ~!」


  「いやもう天霧のあのシュートは神って認めるけど……俺の小遣い返して……」


  「っていうか、なんでこんな真剣に賭けに乗っちゃったの!?ねぇ、誰が言い出したんだよあの勝負!!」


  表情はどいつもこいつも沈痛そのもので、口では「青春だ、熱血だ、友情が一番」なんて言いながら、手元では電卓を叩き始めていた。


  ついには、隣のクラスの代表までが記帳を迫られる羽目に。


  「おい、一人150円だ。足りないやつはパン券出せ!」


  「味の希望確認するぞー!俺メモるから、レモン欲しいやつー?ウーロン茶は誰ー?」


  「真面目にやれってば!十一対十一なんだぞ!?それなりの金額だろーが!」


  中には泣き真似してユニフォームを頭にかぶる奴まで現れる。


  「うぅぅ~……俺、絶対アイツのピースサインは高いやつ狙ってると思ったんだよ……」


  「自販機のいちご炭酸って150円するんだぞ!?」


  「お願いだよ天霧、麦茶で我慢してくれない!?」


  あまりにも騒ぎがエスカレートしてきたので、俺はだるそうに手を軽く上げて告げた。


  「いちご炭酸。冷たいので。」


  その瞬間、全員が一斉に絶叫。


  「ほらあああああ!!!やっぱりいちごだよ!!」


  「さっきのピースサインって飲み物名の予告だったのかよ!?こいつ駆け引きのプロかよ!!」


  否定はしなかった。ただ二本の指を立てて、また無造作にピースサインを作り、柱に寄りかかった。


  自分のクラス側の連中は笑いすぎて腹筋崩壊しかけていて、何人かは俺のさっきの倒れこみシュートを真似して地面を転げ回っていた。


  俺はひとことだけ口にした。


  「それ、今のは背面タックルだろ。」


  転がってたやつが起き上がりながら、


  「マジであの技やってみたいんだよ!あの反転しながら足を振り抜く角度、どうやってんの!?重心操作どうなってんの!?」


  俺は軽く首を振っただけで返事をしなかった。


  そのとき──誰かが叫んだ。


  「明日の昼休み!次はバスケで勝負だ!!」


  「バスケ!?逃げんなよ!!」


  俺が何も言う前に、こっちのクラスが先に乗ってきた。


  「当然だろ!今度も天霧がいちご炭酸指名したら、先に聞いとこうぜ!」


  俺は柱にもたれたまま動かず、右手を上げて、ゆっくりと一本指を立てる。


  少しだけ考えてから、告げた。


  「ぶどう味。」


  一瞬、空気が凍った。次の瞬間──新たな笑いの渦が爆発した。


  「うああああああああまた飲み物かよ!!お前運動しに来てるんじゃなくて、飲み物もらいに来てるんだろ!?」


  「もう明日飲むやつまで決めてやがる!!」


  「天霧、お前……ドリンクの預言者か……!?」


  「絶対最初から飲む気満々だったよな!?さっきのピースサインも!!」


  「「飲料への意志」と名付けよう……」


  笑い声が操場中に響き渡る。誰かがわざとらしく俺のピースサインを真似してポーズを取る。


  「ダメだ、明日は絶対にクジ引きでチーム分けしよう!クラス対抗戦は禁止!」


  「そうそう!クジ引きだよ!また天霧に全部やられたらたまったもんじゃないって!!」


  俺は小さく頷いただけで、それ以上何も言わなかった。


  指先が制服の外套に触れ、その生地の温もりがゆっくりと掌に染み込んでくる。


  空気がどこか軽くなったような気がした。


  夕陽が操場の端に差し込み、人の影が長く地面に伸びていく。


  笑い声はまだ続いていた。


  陽もまだ、落ちていなかった。


  ──この日常。嫌いじゃない。

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毎日更新して欲しい程に面白いです。
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