二度目の転移の夜、俺は——いか…
血色の空が、まるで脈打つように揺らいでいた。
俺が目を開けた瞬間、頬をかすめる微かな風が額の前髪を揺らした。
壊れた高層ビルの隙間から注ぎ込むのは、死後の黎明にも似た、馴染み深くも不気味な赤い光。
俺は再び、冷たく荒れた地面に横たわっていた。ここは寝室でも病院でもない。
昨日、俺が足を踏み入れた、あの廃墟に覆われた異世界だ。
視線を落とすと、身に着けているのは昨日と同じ、濃色のシルク素材のパジャマ。
ボタンは上から下まできちんと留まり、襟元も乱れていない。下も同じ素材のパンツで、膝のあたりに細かい皺が寄っていることから、実際にここで横になっていたことがわかる。
裸足の足裏には、ザラついた砂利混じりの地面の感触がダイレクトに伝わり、硬い破片が土踏まずに当たる。
俺はすぐに立ち上がらず、まずはゆっくりと上体を起こし、自分の体を遮蔽にして周囲の状況を観察する。
見える景色は、昨日と変わらぬ荒廃だった。
崩れた道路、傾いた街灯、金属フレームの残骸と化した車体。錆で穴が空いたものもあれば、まるで昨晩裂かれたばかりのような鋭利な破片もある。
空に青は一切なく、ただ煮えたぎる血のような赤が全てを覆っていた。
俺は静かに、ひとつ息を吐く。
——夢じゃない。
これで二度目だ。初回のような「現実か否か迷う」段階は、もう過ぎた。
眠れば、ここに来る。着ている服も体の状態も現実と一致しているということは、「意識だけが転送されている」か、「肉体ごとの転移ではない」という仮説を支持する。
裏を返せば——この世界で死ねば、現実の俺も終わる可能性がある。
その問いに対する答えは、まだ出ていないし、急いで探すつもりもない。今、俺が優先すべきは「生存と行動の可制御性」だ。
俺はゆっくり立ち上がり、足についた埃を払う。
逃げ出すことでもなく、叫ぶことでもなく——最初にすべきは身体チェック。
新たな外傷はないか、関節の可動は正常か、体温や視覚・聴覚に異常はないか。
異常なし、と判断。
次に取るべき行動は——思考。
昨日、「桐生彩羽、好感度5」という通知を発してきたあの「システム」は、今のところ沈黙を保っている。俺はそのときも、そして今も、それに返事をしていない。
なぜなら、俺はまだ「信頼」していないからだ。
システムの存在そのものは否定しない。だが、その「意図」を信用していない。観測者か、管理者か、それとも単なる支援インターフェースなのか、それすら不明だ。
だが一つ、確実なことがある。
——俺はもう、この世界に「いる」。
だからこそ、今回は俺から選択する。
逃げるのではなく、待つのでもなく、——「検証する」。
敵の強度、自分の限界、地形の影響、生存における変数、そしてシステムが何を記録しているのか。
俺は静かに、足を一歩踏み出す。裸足が砕けた瓦礫をかすめ、微かな音を立てる。赤い空の下、瓦解した世界が再び俺を包み込むが、今の俺の視線は一切揺れていない。
むやみに進むのではなく、まずは「観測点」を構築する。
焦って廃墟の中へ踏み込むことはせず、俺は道路の端を沿うようにゆっくりと歩き始めた。
両側のビルは酷く崩れており、瓦礫と剥き出しの鉄骨が積み重なっている。一部の壁面は完全に剥落しており、残った柱がかろうじて三分の一程度の建物を支えている。
裸足の足裏は、靴よりも鋭敏に地面のわずかな振動を拾う。今の俺には、その微細な「揺らぎ」こそが重要な情報だった。
——遮蔽物が必要だ。
——同時に、「武器」も必要だ。
視界の端に、石の裂け目に挟まった金属の棒が見えた。
恐らくは、元は街路のガードレールの一部だったのだろう。今は折れて、一部がむき出しになっていた。
俺はその金属片に近づき、しゃがみ込んだ。両手で試しに力をかける。
——深く食い込んでいる。
角度を変え、重心を逆方向に傾けて引き抜くようにすると、ついにそれは音もなく抜けた。全長およそ80センチ、やや湾曲し、一端はちぎれたような鋭いフック状の金属片を備えていた。
手に取ると、想像していたより軽い。グリップ部分には泥と錆がついているが、握った感触は悪くない。
——一度の戦闘なら、充分だ。
その場で周囲を数秒観察。敵の気配がないことを確認した後、俺は自分の両手の処理に移る。
パジャマの上衣を脱ぎ、内側の裾を細長く裂いて布片を作る。動きはゆっくりだが、迷いはない。
こういった即席の対応には慣れている。妹の世話、突発的な怪我、日常の修繕……特別な道具がなくても、俺はいつもあるものを使って何とかしてきた。
布片を右手の手首から掌にかけて巻きつけ、金属棒のグリップと手の接触部分を覆う。汗で滑らないよう、摩擦力を確保するためだ。
拳を軽く握る。違和感なし、力の伝達も問題ない。
——使用可能。
その瞬間、視界の右上に淡い青のインターフェースが浮かび上がった。
音はしない。線は極めてミニマル。フレームは柔らかな曲線で構成されており、まるで「起動されたまま待機状態にある無人端末」のようだった。
【敵対ユニットの接近を検出】
【成長ルートの起動とポイント配分を推奨】
【現在の保有ポイント:5】
【戦闘能力の強化にポイントを使用しますか?】
【はい / いいえ】
……やはり来たか。
俺はその場から動かず、ただその表示を見下ろす。
「いいえ。」
声に出さず、心の中で静かに答えを出した。
システムは反応しない。音も返答もなく、ただ静かにそのまま浮いているだけだ。俺は目を逸らし、そのまま前へ歩き出した。
——今は、使わない。
なぜなら、俺はまだ何も把握していないからだ。
敵がどれほどの力を持つのか。
システムに隠されたペナルティはあるのか。
ポイント使用が行動の制限や「印」のようなデメリットを生まないか。
何一つわからない。
それに——
俺は、「盲目的な強化」を良しとしない。
もし、この世界に俺の体質に適応する魔法が存在しないとしたら?
もし、力に振っても相手に一度も触れられないほど敵が高速だったら?
その全てが「無駄」になる。
俺は、自分の強さを「幻想」に委ねない。
現実のデータを踏まえた上で、必要な対応を取る。
たとえそれが最初の一歩であっても、「理解した上での戦い」でなければ意味がない。
それこそが、俺自身の力だ。
俺は崩壊したビルの影に身を潜め、割れた壁の隙間から遠方の廃墟道路を観察する。
——出たな、巡回型モンスター。
空気に血塵が舞う。
その怪物がコンクリートを踏みしめる音が、崩れた地面を伝って足元に響いてくる。
——低く、重いが、リズムがある。
野生動物のような乱雑さはない。
むしろ、決められたルートを辿るような、半知能を持つ巡回プログラムに近い挙動。
昨日見たものよりも、細長く、四肢は爬虫類のような骨格構造をしている。
関節は逆向きに突出し、肘・膝からは骨質のスパイクが飛び出ていた。
頭部はまるで剥がれた仮面のようで、眼はない。横に裂けた「口」のような構造が一筋走るだけ。
皮膚は焼け焦げた石版のように割れ、光を受けると暗い銀のような光沢が走る。
背中には脊椎を模したような装甲が盛り上がっており、呼吸に合わせて脈動しているようだった。
——昨日より速い。
——そして、より敏捷。
そのとき、システムの通知が再び視界に現れる。
【敵対ユニットの接近を検出中】
【ポイントを配分し、基礎スキルスロットを開放しますか?】
【選択可能ルート:筋力強化 / 速度強化 / 即時反応強化 / 戦術補助UI】
【現在のポイント:5】
【確認:はい / いいえ】
俺は「はい」「いいえ」の光るカーソルを一瞬たりとも見なかった。
答えは、決まっている。
——いいえ、だ。
システムは、おそらく何らかの方法で俺の「機能依存度」を監視している。
スキルポイントを使用した後、俺の「好み」や「傾向」が記録され、それに応じて行動の自由度を制限されるリスクも否定できない。
ゆえに、俺は全体構造を掌握できていない現状で、主導権を明け渡す気は一切ない。
敵の強さは不明。地形の複雑さもまだ十分に把握できていない。自分のどの能力を強化すべきかも、明確な結論が出ていない。
つまり——情報が足りない以上、リソースは使えない。
ならば、残された方法は一つだけだ。
——意図的に戦闘を引き起こし、そこから「読み取れる情報」を手に入れること。
俺は金属棒を強く握った。
さっきの調整で、この棒は少しマシな状態になっている。曲がっていた部分をまっすぐに矯正し、鋭利な側は崩れた壁の角で斜めに削った。まだ「武器」と呼べるほどではないが、少なくとも「刺突」という一点において、最低限の性能は得た。
俺は瓦礫の中から小さな石を二つ拾い上げた。
そして静かに腕を上げ、狙いを定めるのは——怪物本体ではなく、その巡回ルートの端にある、壊れたパイプ管だ。
一つ、二つ。
石が続けて当たり、乾いた金属音がこだました。
怪物は動きを止め、頭を音の方向へわずかに傾けた。背の装甲が動作に合わせて収縮する。
——良し。聴覚反応あり。
俺は即座に隣の廃れた路地に退避した。斜めに崩れかけた壁が挟まるその路地は、人ひとり通るのがやっとの狭さだった。
足場は瓦礫と鉄筋で不安定だが、敵が侵入すれば動きは制限され、視界の制約もこちらに有利になる。
路地の奥、左側の倒れた石板の背後に身を潜める。金属棒は腕の下に沿えるようにして構え、呼吸を整え、気配を最小限に抑えた。
そして、奴の足音が近づいてくる。
咆哮はない。狂気的な唸り声もない。まるであらかじめプログラムされたように、黙々と進む追跡型ユニットのようだった。
足音のリズムが変わった。瓦礫に乗った一瞬、重心がズレた音があった。
——路地へ入ってきたな。
機会到来。
敵はまだ頭を上げきっておらず、その裂けたような口器がわずかに開き始めた。攻撃動作の前兆かもしれない。
俺はその瞬間、飛び出した。
それは真正面からの格闘ではない。
——非対抗、技巧重視の「反動投げ」だ。
怪物の進行方向と少しずれた軌道に身を滑り込ませ、接触点をずらしながら、棒をその脚部後方にスイープ。敵がバランスを崩したところで、俺は断壁を蹴り反動を得て、前肢の肘を掴み、そのまま敵の巨体を右側の壁へ叩きつける。
ドガァァンッ——!
激しい衝突音。怪物の体が壁に埋め込まれていた崩れたパイプをへし折り、鉄筋の砕ける音と骨格が捻じれる音が交差する。
地面も一瞬、揺れた。
俺は即座に二歩後退。距離を取る。
逃げるためではない。
——観察のためだ。
敵が身を翻す。左前肢のバランスが崩れ、動きに明らかな遅延が出ていた。あの衝突が、物理的に損傷を与えた証拠だ。
そして、この一撃で得られた情報は以下の通り:
1. 敵は反転関節構造を持つが、狭所ではそれが「旋回遅延」を引き起こす
2. 頭部の口器は「開閉」構造を持ち、おそらく攻撃前の信号を伴っている
3. 四肢の関節部が最も脆弱。特に肘と膝の部位は動作に支障をきたしやすい
——この一撃で、目的は達成された。
俺は深追いしない。
そのまま路地の裏側、もう一方の出口から撤退した。戦闘を回避し、次の攻撃に向けた準備段階へ移る。
作戦成功。
次回——俺は必ず仕留める。