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目覚めたあとの日常

  現実、午前六時四十二分。


  俺はダイニングテーブルの前に座り、トーストを噛みながら、左上の壁に掛けられた丸い時計を見上げていた。


  短針は六時をわずかに過ぎたところ。 朝の光がキッチンの半開きのブラインドから差し込み、テーブルの上に落ちている。


  制服の銀白色の襟元が、光を受けて一層鋭い折線を浮かび上がらせていた。


  今日は妹が登校しないため、テーブルの向かい側は空席。食器も俺の分しか置かれていない。


  トーストは昨夜のうちに焼いて袋詰めにしていたもの。


  牛乳は全脂肪、無糖、冷たいまま。 ぬるくもなく熱くもない飲み方が、俺の消化リズムには最も適している。


  制服は星霜紀高等学園の標準仕様。


  霧銀白のブレザーは立体裁断で、すべてのボタンがきっちり留められ、裾は整然と収まり、腰のラインが自然に整っている。


  冷灰青のシャツは襟がぴんと立ち、袖口もきっちり留めてあり、余分な皺ひとつない。


  胸に校章はない。星霜紀の方針に基づく「制度と匿名性の強調」だ。


  ネクタイは墨青灰色、低彩度のその色は、朝の光の中で静かで抑制された印象を与える。


  ズボンはブレザーと同色系のストレートタイプ。脚のラインに沿って引き締まったシルエットを描く。


  派手さはなく、華美さもない。 だが、強い抑圧的な印象を持つ制服。


  ……だが、今の俺の関心は、服ではなかった。


  昨夜の「夢」にあった出来事。


  赤い空。人のいない世界。怪物。システム。 そして、あの冷たく無機質な声。


  桐生彩羽。好感度:5。


  俺は手に持っていたグラスを置いた。 グラスの表面には冷たい牛乳により薄い霧が浮かんでいた。


  俺は黙って数秒、目を伏せた。


  あの声、内容だけではなく、脳内に響いた共鳴の振動数まで、まるで録音されたかのように明瞭に思い出せる。


  怪物の足音が床を踏みしめる重圧。 すれ違う際の空気の揺らぎ。 そしてシステムインターフェースが現れる時、瞳孔が拾ったピクセルの縁まで。


  あまりにも、明確すぎる。 夢にしては、明晰すぎる。


  俺はトーストを飲み込むと、初めて本格的な思考分析に入った。


  「高圧環境、システム提示、数値 UI、身体的フィードバック、空間構造、逃走パターン……どれも現実感覚と一致する。」


  「夢の中で俺は一人称視点で行動し、演算・推定・判断を繰り返し、それに応じた結果が返ってきた。」


  「そして何より、「痛覚」。怪物の咆哮が耳元を通過したときの内耳への圧迫感、短時間の耳鳴り、通常の夢では発生し得ない明瞭さだった。」


  牛乳を飲み干し、立ち上がりながらも思考は止まらない。


  あれは夢ではないのか? あるいは、脳が睡眠中に生成した高精度の疑似現実構造なのか?


  脳が一時的に、高度なシミュレーション領域に移行していた可能性も考えた。


  ……いや。


  憶測を重ねても無意味だ。


  今、俺が目を覚まし、変わらぬ日常にいるという事実こそが現実。


  「つまり、あれは夢。」


  その場の仮結論を出す。


  「ただし、精密で構造化され、論理的に成立した「非一般夢」だ。」


  だが、そのシステムの声は、なおも脳内に残響として残っていた。


  桐生彩羽、好感度:5。


  桐生彩羽、聞き覚えは、ある。


  より正確には「聞いたことがあるような気がする」というレベル。


  ……同じクラスか?


  記憶を探る。


  金色の髪。時々ポニーテール。 周囲に人が集まっていることが多い。


  ……ただ、俺は彼女と会話した記憶は一度もない。


  否。正確には、誰とも「深い記憶」を共有していない。


  ただ、彼女が同じクラスにいるという事実を知っているだけ。


  「未解決。焦って結論を出すな。今日は観察優先。」


  俺は洗面所へと移動し、再び歯ブラシを手に取った。


  鏡に映るのは、自分の顔。


  冷青灰の髪は銀の光を帯び、自然な右分け。 前髪は眉の上で揃い、毛先にはわずかに跳ね上がる癖。


  整髪料は使っていない。前夜の洗髪時の水流と櫛の方向付けだけで維持されている。


  目はスモーキーレッド。中心には楓とザクロの中間のような冷たい赤が潜んでいる。


  睫毛は長く、眉は骨格に沿って鋭く整い、鼻は高く、唇は薄いが、全体に清潔な輪郭。


  肌は青白いのではなく、冷たく澄んだ白。 洗面台のライトと鏡の反射により、ほのかな白光のような質感が出ている。


  だが、俺は長くは見ない。


  口内を洗浄し、唇を軽く拭う。


  準備完了。


  次の行動は: 鞄の中身を確認。 妹が起きているかを確認(彼女は今日は登校しない)。 そして、家を出る。


  夢よりも、今の「現実」こそが真実。


  だが、もし今夜、再びあの世界を「見る」のなら。


  その時こそ、本当の意味で、別の何かが始まる。


  午前七時四十五分。


  教室に到着した時、廊下はまだほとんど人気がなかった。


  生徒たちの声が廊下に満ちる前、耳に届いたのは、グラウンドの方角から微かに聞こえる運動部のランニングシューズが地面を擦る音だけだった。


  ドアを開ける。


  教室内にはまだ三人しかおらず、それぞれの席で眠っていたり、イヤホンをつけていたりと、誰も俺に注意を向けることはなかった。


  俺は窓際の三列目、自分の席へと向かう。


  鞄を机の中へ入れ、椅子に腰かけると、大学先修の数学ノートを開き、昨日マークした問題の構造を静かに修正し始めた。


  机の上は整っており、朝の陽光がノートに落ちて紙の繊維がやわらかく光る。


  挨拶を交わすことはない。


  嫌っているわけでも、人付き合いが苦手なわけでもない。ただ、必要性がないだけだ。


  社交というものは、多くの場合、俺にとっては非効率な高コスト行動でしかない。


  とはいえ、無視はしない。


  七時五十五分、教室内は徐々に賑やかになってきた。


  「おっ、澄寒、おはよー。」


  「なあ、昨日の数学選択のあの問題、解けた? あれ、鬼だったよな。」


  「天霧くん、おはよう。」


  「……また成績トップだろ?」


  周囲の声が一気に活気を帯びる。


  俺は顔を上げ、視線を文字から話しかけてきた相手へと移す。


  「うん、おはよう。」


  「その問題なら、ノートの左側二ページ目に下書きがある。写してもいいけど、できれば解き方を理解した方がいい。」


  「順位は見てないけど、たぶんいつも通り。」


  数人が笑いながら俺の席の周りに集まり、すぐまた自分の席へと戻っていった。


  俺は再びノートに視線を戻し、注釈の続きを始める。


  その時だった。


  パタ。


  床に高い音が響いた。


  普通のローファーではない、わずかに反響する独特な音。


  たとえば、マット加工のヒールがプラスチック床を踏んだ時のような、軽快で、リズムを伴った音だった。


  教室の空気が、一変した。


  「おはよ〜〜っ!」


  明るく伸びやかな声。ティーカップにビー玉が落ちたような、澄んだ笑い声が続いた。


  彼女が教室に入ってきた瞬間、女子たちの黄色い声が爆発する。


  「おはよう、彩羽ちゃ〜ん!」


  「わっ、今日も早いじゃん、彩羽!」


  「昨日のLINE、見てくれた? 500 字打ったんだからね〜!」


  「ねえねえ、その新作のピンクアイシャドウ、今日使ってる? めっちゃ肌白く見える〜!」


  「今日のヘアゴムかわいい〜! それ限定? ピンクのやつ好き!」


  「スカートまた短くしてない!? もう〜大胆すぎ!」


  「香水変えた? 新しいやつでしょ? 甘くていい匂い〜!」


  そして男子たちも。


  「うおっ、今日も刺激強いな〜、桐生女王!」


  「彩羽ちゃん、おはよー!」


  「そのスカート、加点です! 踏まれても本望!」


  笑い声、軽口、視線。


  彼女は、舞台照明でも浴びているかのように、自然と周囲の注目を集めていた。


  俺は顔を上げる。


  彼女が教室に入ってくる、その瞬間を目にした。


  金色に輝くロングヘアが、朝の光を浴びて淡く煌めく。


  左右に入ったピンクのメッシュが、緩くカールした毛先に混ざって揺れている。


  横結びのポニーテールを固定しているヘアゴムには、はっきりとしたブランドロゴが見えた。


  彼女は、俺と同じ制服を着ていた。


  だが、その印象はまるで違う。


  ジャケットは腰に巻かれ、上半身は冷灰色のシャツ一枚。


  第一ボタンは留められておらず、白い鎖骨と細い銀のネックレスがちらりと見える。


  スカートは規定よりも短く、足には濃灰色の半透明ストッキング、靴はローファーだった。


  唇にはうっすらと色づいたリップオイル。 睫毛は軽くカールし、瞳は淡いピンクの虹彩。 化粧感はあるが、決して濃くはない。


  リュックにはぬいぐるみ、カラフルなキーホルダー、香水の小瓶、キャンディー型のストラップが揺れている。


  歩きながら、彼女は周囲の女子たちに笑顔で手を振り、言葉を交わしていた。


  ピンクとゴールドの混ざったポニーテールが揺れ、笑顔は明るく、視線には自信が宿る。


  その存在は、まるで学園アイドル誌から抜け出してきたようだった。


  「桐生彩羽」。


  その名前を耳にした瞬間、俺の視線は彼女から逸れることなく、ただ、見つめていた。


  なるほど。彼女か。


  夢の中で現れた、あのシステムの提示。


  【桐生彩羽――好感度:5】


  ようやく、現実の輪郭と一致した。


  だが、それ以上でも以下でもない。


  俺が彼女の名前を覚えていたのは、あの提示画面に「5」という数値があったから。


  そして今、現実の彼女にその名前を重ね合わせただけ。


  彼女は俺を見なかった。


  俺も、声をかけなかった。


  俺は顔を伏せ、ノートに目を戻す。


  重点部分に印を付ける。ペンの先が紙を擦る音が、周囲の騒がしさを薄く塗りつぶしていく。


  俺が今優先すべきことは、ただ一つ。


  f(x) = \lim_{n \to \infty} \frac{1}{n} \sum_{k=1}^{n} x_k


  その定義の意味を理解することだ。


  チャイムが鳴り、授業が始まる。


  時間は流れ、第六時限の理科の授業も中盤に差し掛かっていた。


  黒板に走るチョークの音が、次第に遠ざかっていく。


  問題集の電流計算式を眺めていた視界に、突然、透明度の高いインターフェースが重なって表示された。


  何の予兆も警告もない。


  意識の奥に、第二の情報経路が強引に割り込んできたような感覚。


  その表示はこうだった。


  ---


  【感情リンクシステム】


  現在のバインド対象:天霧 澄寒


  バージョン:SENSE・α-01


  バインド済キャラクター: 桐生彩羽(Kiryuu Ayaha)


  現在の好感度:5pt


  現在使用可能ポイント:5pt


  【機能モジュール】


  ■ ステータス強化


  ■ スキルスロット(LOCKED)


  ■ 状態照会


  ■ バトル設定(LOCKED)


  ■ UI 調整


  ■ データログ


  ■ 感情曲線グラフ(LOCKED)


  ■ 任務進行(無し)


  *提示:感情値×重み = ポイント


  *提示:限定リソースに変換可能、操作はバインド者のみ


  *提示:バインド関係は解除不可


  ……罠か? それとも、神経レベルの擬似信号か?


  俺の表情は微動だにせず、眉一つ動かさない。


  だが、思考は加速していた。


  「視覚インターフェース、外部への投影なし。現実の視界に干渉していない。つまり、これは意識層での内部投影。」


  「音声案内なし。強制操作なし。バインド者の意思優先、一定の独立性があるシステム。」


  「現在好感度 5、使用可能ポイントも5。換算比は1:1か。あるいはキャラクターごとの「基礎重み係数」が設定されている?」


  そっと目を閉じる。


  ……消えない。


  再び目を開ける。


  インターフェースは依然として、意識の縁に浮かぶ。


  まるで網膜の裏側に薄いスクリーンを貼られているかのような感覚。


  ……だが、俺は、手を伸ばすことはなかった。


  俺は意識の中で、ゆっくりとインターフェースの最上層から下へとスワイプしていった。


  「ステータス強化」欄を展開。


  ――選択可能な強化項目――


  ・マナ(Mana) ・精神力(Mind) ・スタミナ(Stamina) ・スキル(Skill) ・反応速度(Reflex) ・知覚力(Perception) ・分析力(Analysis) ・知性(Intelligence) ・速度(Speed) ・筋力(Strength)


  必要ポイント:最低 1pt。一部の項目は閾値に達するまで連続投入が必要であり、パッシブスキルの開放条件を持つ。


  俺は無言で頷き、心の中でキーワードを記録する。


  【マルチライン構造、ノーヒント型スキルツリー】


  次に、「スキルスロット」へ視線を移す。


  LOCKED。


  提示:解放には【特定のインタラクション条件】が必要。


  ……曖昧すぎる。


  俺は、曖昧を好まない。


  「状態照会」:現在は自身のデータのみ閲覧可能。「簡易表示版」と注記あり。


  浮かび上がった自身のステータス画面を一瞥する。


  【システムバインド対象:天霧 澄寒】


  バインドレベル:Lv.0(成長ルート未設定)


  使用可能ポイント:5pt(認証対象「桐生彩羽」の好感度 5ptより)


  【基礎ステータス × システム評価】


  マナ(Mana):8


  魔力適応性は極めて低く、体内に有効な魔力回路は検出されず。あらゆるレベルの魔法を発動不可能。


  システム評価:〔非魔法系構造 × 投資非推奨〕


  現実参照:魔力覚醒率 0%の一般人と同等。


  精神力(Mind):42


  集中力、感情制御、精神耐性は全てトップクラス。高圧環境下での判断維持が可能。


  システム評価:〔戦術安定中核 × 精神干渉への圧倒的耐性〕


  現実参照:特殊戦術部隊士官レベル × 極限試験中でも完全な論理構築可能者。


  スタミナ(Stamina):32


  柔道訓練体系 × 中長距離戦闘への持久力優秀。連続戦闘への対応力あり。


  システム評価:〔訓練体力上限レベル × 中距離戦闘継続推奨〕


  現実参照:プロアスリート × 特殊部隊フィジカル高得点者。


  スキル(Skill):35


  戦闘動作の精度が高く、複数格闘技と武器使用に精通。


  システム評価:〔技戦融合型エリート × 多領域即時戦闘適応者〕


  現実参照:柔道黒帯 × 軍警格闘術実践者。


  反応速度(Reflex):33


  反応速度が非常に高く、0.3 秒レベルの予測動作と緊急対応修正能力を持つ。


  システム評価:〔認知先行型反応構造 × 高強度変数への精密対応者〕


  現実参照:プロボクサー × レーサークラスの反射神経保持者。


  知覚力(Perception):34


  環境認識に優れ、破綻箇所の識別と微動作の察知能力あり。


  システム評価:〔偵察レベル:戦場スカウト / 戦術モデリング適合者〕


  現実参照:現場戦術建築者 × トポロジービジュアル推演者。


  分析力(Analysis):50【システム評価:MAX】


  五種以上の情報を同時処理可能。戦術構築と敵味方の配置解析を瞬時に実行。


  システム評価:〔戦術自動演算中枢 × 全景モデル瞬間解析者〕


  現実参照:世界トップレベルの数学モデル設計者 × AI 並列処理アルゴリズム制作者。


  知性(Intelligence):45


  複雑な多次元構造を理解し、理論知識の高速吸収と応用が可能。


  システム評価:〔戦略構築者 × 高位スキルチェーン解放候補〕


  現実参照:理論物理 × システム構造設計 × 多分野横断型天才。


  速度(Speed):28


  動作のリズム安定型。爆発力はないが、継続動作のペース制御が可能。


  システム評価:〔ペース主導型スピード特化 × 戦術挿入運用に適応〕


  現実参照:ハイレベルボールコントロール選手 × 中距離制圧戦闘スタイル。


  筋力(Strength):30


  技巧主導の発力構造。投技 × 反制 × 精密な力制御が可能。


  システム評価:〔爆発力型ではなく、技巧制圧型の戦術戦士〕


  現実参照:柔道対戦選手 × 発力制御に優れた格闘訓練者。


  【成長ルート推奨】


  推奨発展方向:


  → 分析 × 技術 × 精神力 × 知覚力 × 状況判断優先。


  → 魔法系の成長は一時保留 × 【非魔法 × 思考型 × 戦術分解型戦士】の路線を推奨。


  スキルスロット:未解放


  ステータススロット:未開放


  異常状態:無し


  ――


  俺はこの情報群を、頭の中のノートに書き写すかのように記憶する。


  整理されたキーワードはこうだ:


  「初期構成は論理型、感知型。」


  「身体数値は平均だが、集中と思考数値は上限値。」


  「本システムは火力型ではなく、感知、判断、制御型の特性構造。」


  俺は深く息を吸い込んだ。


  窓の外では陽の角度が変わり始めていた。教師のチョークは依然として黒板に数式を描き続けている。


  だが俺は、自席に座ったまま、音も動きもなく、ただ黙っていた。


  脳内だけが静かに動き続ける。 まるで電気回路を一つひとつ剥き出していくように、あのシステムの構造を解析していた。


  ポイントは振らない。 言葉も発しない。


  ただ、観察する。


  システムの構造的な脆弱性が露わになるその時を、静かに待つ。


  武器であれば、使いこなす。 罠であれば、抜け出す。


  教科書を閉じ、黒板と講壇に一瞥をくれる。


  桐生彩羽、好感度:5。


  「……まずは、お前が何をしたいのか見せてもらおうか」


  システムは返答を返さず、依然として意識の片隅に沈黙を保っていた。


  放課後のチャイムが鳴る頃、空はまだ完全には暗くなっていなかった。


  俺は、何人かのクラスメートとともに校門を出る。


  特別親しい関係ではない。ただ、日常的なやり取りがある程度で、自然に並んで歩くことに違和感はない。


  会話は少なめで、基本的には聞き手に回り、時折相槌を打つ。


  「なあ、澄寒。明日の放課後、どう?」


  右側を歩く高橋が声をかけてきた。


  「……どこへ?」


  「サッカーだよ。うちのクラスと隣のクラスで練習試合! いつものルールな、負けた方がジュース奢り!」


  「じゃあ、新作のストロベリーソーダを。」


  「おいおい、まだ試合始まってねぇぞ!」


  みんなが笑う。


  俺は笑わない。


  ただ静かにポケットへ手を入れる。


  俺にとっては、それはただの条件交換にすぎない。 勝利すれば、対価が得られる。それだけのこと。


  そんな他愛もない会話を交わしながら、俺たちは十字路へと辿り着いた。


  誰かは駅へ。誰かは自転車で。誰かは商店街方面へと。


  「じゃあ、また明日なー!」


  「図書室にこもりすぎんなよー!」


  「運動着、忘れるなよ!」


  次々と別れ、残された俺は一人、帰路についた。


  歩調はゆっくりだが、確かなリズムがある。


  住宅街を抜ける道。夕方の風が肩を撫で、わずかな埃の香りが混じっていた。


  地面には昼間の熱がまだ残っており、夕陽が影を長く引き伸ばしていた。


  俺は静かに、自分の状態を確認する。


  頭痛なし。熱もない。手の動きは正常。視界も聴覚も問題なし。


  つまり、精神状態も肉体も正常。


  だが、あの昨夜の「夢」だけは。


  あまりにも鮮明だった。


  張り詰めた空気。歪んだ空。追いかけてくる化け物。


  そして、あの声。


  【桐生彩羽――好感度:5】


  彼女のことは知らない。


  ただ、今日、教室でその名が呼ばれた時、初めて昨日の提示と繋がっただけだ。


  それでも、今の俺はこの出来事の構図をおおよそ組み上げていた。


  あの場所は、夢ではなく「異世界」の可能性がある。


  あのシステムは、幻覚ではなく、何らかの実在する仕組み。


  「眠れば転移する」のが基本構造かもしれない。


  誰にも相談できず、今はまだ何も動く気はなかった。


  情報が不十分なまま動くのは、自ら罠に飛び込むのと同義だ。


  帰宅する頃には、空は完全に夜に染まっていた。


  風呂に入り、歯を磨き、鍵を確認。


  部屋は異常なし。教科書は机に整然と並び、目覚まし時計は6:30にセット。


  布団に潜り、無言で目を閉じる。


  祈りも、不安もない。


  ただ、筋肉を弛緩させ、意識を静かに落としていく。


  ……もし、あれが夢でないのなら。


  今夜も、始まるはずだ。

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