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幸せって、こういうことを言うのだろうか。
天野優子はトイレの中で妊娠検査薬をまじまじと見つめていた。まるでその目に映るものが真実なのかどうか、自分の脳が信じられないとでも言うように。何度瞬きをしても、その目の先に映るのは、くっきりと存在感を放つ赤い線が二つ。
「よう、せい……」
優子は叫びたくなる気持ちを抑え、見間違いじゃないよね、とまたしても、パッケージの説明文と検査結果を見比べる。
間違いない。陽性だ。
安堵と高揚感を胸に、優子は穏やかな笑みを浮かべゆっくりと目を瞑った。
結婚5年目、夫の昭ともそろそろ子どもが欲しいね、なんて話しながら、でも授かりものだからとあんまり焦らずにいようねなんて言っていたが、実は内心かなり焦っていた。
結婚当初はお互い仕事が多忙で、夫婦生活がなかなかとれなかったから、やっと仕事が落ち着いてきたのは33歳の誕生日を迎える頃だった。学生の時に立てていた人生計画ではもうすでに2人目を出産しているはずの歳だった。あの頃は20代、それも半ばで出産しているだろう、なんて思っていた。しかし、今になって思い返せば、20代半ばなんてまだまだ若造で子ども気分が抜け出せず、その上、社会人になって目の前の仕事に必死で、自分が親になる、なんて考えられなかった。
30代が過ぎて仕事もある程度は自身もついて、ようやく自分の私生活に目を向けることができた。それは夫の昭も同じだったようで、家族計画について2人で考えられたのは30歳という節目を迎えたからかもしれない。
昭と優子は同い年だが、男と女の考え方の違いのせいなのか、はたまた、周囲の友人たちの家庭環境のせいなのか、昭さんは全くと言っていいほど焦ってなかった。男性の30代と女性の30代、同じ30代なのに、出産をする当事者であるという意識のせいか、年齢がどうしても不安材料になる。
初産の場合、35歳以上で『高齢出産』と呼ばれる。歳を重ねれば重ねるほど、妊娠しにくくなる上、妊娠しても流産したり母体が病気になったり、子どもになんらかの障害が生じる可能性が高くなる。不妊治療の特集を見るたびに、出産のタイムリミットが迫ってきているようで、優子は気が気ではなかった。昭と同じように、まだまだ30代前半、とは言えなかった。
ネットで検索すると、優子と同じ歳で不妊治療を始めている人も多く、それがさらに優子の焦りを加速させていた。
早いに越したことはない。
今年中に妊娠できなかったら、不妊治療を受けようか、と考え始めていた頃でもある。
なんて、運命のようなタイミングなんだろう。
はやる気持ちを抑えつつ、リビングでうたた寝をしている昭の元へ静かに向かう。平常心のふりをしているのは、舞い上がりそうな気持ちを落ち着けるためだけではなかった。
実は、妊娠検査薬を買ってきたことすら、昭にはまだ言っていない。いつも月のものは不規則だから、遅れているだけだろうと思っていたし、変に期待させるのも違うなと、いつか来る妊娠した時のために練習のつもりで一人で試してみることにしたのだ。
期待させたくない、それも本心ではあったが、心のどこかでのんびりと構えてい昭が本当にこのタイミングで子どもを望んでいたのか、さざなみのような小さな不安が頭の隅にあったからだ。
まさか、こんなにも早く昭さんに話す日が来るなんて……。
優子は小さな命の存在を感じるようにそっと下腹部に触れる。ぺったんこで本当に妊娠しているのか、不思議で仕方ない。何も変わりない、いつもどおりの体だ。
やっぱり勘違いじゃないか。不安になり、先ほど記憶に刻み込んだ2本の赤い線を思い出す。うん、間違いじゃない。くっきりと浮かんだ二つの赤い線に勇気をもらう。
ほんとに、ここにいるんだ……。
この身体に、新しい命が宿っている。不思議な感覚にふわふわと心が溶けてぽかぽかした温かい気持ちになる。
やっぱり、早く昭さんに言いたい。一緒に喜びたい。
昭さんも子どもが欲しいと言っていたし、きっと喜んでくれるはず、そう思うと心がさらにふわふわと弾け出した。はやる心を抑えきれず、勢いよくリビングの扉に手をかけ、ソファで横になっている昭に声をかける。
「昭さん、起きて!」
昭の肩を軽く叩いたはずが、思いの外力が入ってしまった。寝起きの悪いはずの昭が、痛みに眉を顰めてすぐさま呻き声を漏らす。ぼんやりとした瞳と目が合う。
「ん……?あぁ、ごめん……寝ちゃってた」
昭は長い腕を伸ばして伸びをすると、ソファに座り直すと、優子の手をひいて自分の隣に座らせる。
「せっかくの休みだから、これから何処か行く?それとも撮り溜めていたドラマでもみる?あ、良い天気だからシーツ洗うのもありだね」
昭は目を細めにこにこと今日の予定を提案する。
いつもと変わらない、のんびりとした様子の昭にこれからビックニュースを伝えるのか、と優子はドキドキしながら、昭の方へ体を向け、ソファの上に正座する。
「昭さん、あのね……」
聞いてほしいことがあるの、といえば昭は優子の方へ向き直る。優子の高揚感が伝わったのか、昭は幼い子どもを落ち着かせるように、そっと頬に手を置くと親指で頬を撫でる。昭が不安な優子を落ち着かせる時によくやる仕草だ。
優子は昭の手の上に自身の手を重ねて、その手のひらに頬擦りする。昭の手のひらの温かさに優子は自然と笑顔になる。
大丈夫、勇気をもらった。
優子は昭の手を自分の頬から引き離すと、今度はその手をきゅっと包み込んだ。
「赤ちゃん、できたかも……」
自分でも驚くほど、落ち着いた声が部屋の中に溶けていく。
凪いだ優子の言葉とは裏腹に、にこにこしていた昭の顔が驚きで固まった。
「赤ちゃん?」
理解が追いつかないのか、パチパチと瞬きをしながら問う昭の姿に、優子の不安が再び顔を見せる。
子ども欲しいとは話していたが、いざ現実になるとちょっと違った、やっぱりまだ早いのに、とか思ったのだろうか……。
緊張しつつ、「うん、赤ちゃん……女の子の日がまた遅れてて。もしかしてって思って妊娠検査薬してみたら、陽性だった」と、不安を悟られないよう、早口で答える。
優子の言葉に、驚いて固まっていた昭が、ぽつりぽつりと赤ちゃん、妊娠と呟いた。何度か呟いて、言葉の意味を咀嚼できたのか、目をうるうるさせはじめ、涙を隠すかのように、優子の手ごと顔へ引き寄せる。優子の手に、大粒の涙が触れる。
「やっ……たぁ。うわー、嬉しい……めちゃくちゃ嬉しい」
呟くように放たれた喜びの言葉に、優子の不安は一瞬で吹き飛んでいってしまった。昭は鼻をずるずる言わせながら、そのまま優子を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめる。
「優子、ありがとう」
泣きながら喜ぶ夫の姿に、優子も昭を抱きしめ返す。
新しい命と、それを喜んでくれる夫の存在、そして、この先の家族3人の未来を想像して、胸いっぱいの幸せを感じつつ優子は静かに目を閉じた。