第八話 伊香賀ちゃんのお世話はいかがですか?
次の日の朝。
午前七時〇〇分。
時計の天辺を叩いて大きな目覚ましの音を止めた。
そうか、今日から一週間で俺がロリコン性犯罪者ではないことを、ただ伊香賀ちゃんを預かっているだけであるという証明に努めなければ。
その決意を胸に、布団から出ると――。
「いや、何で俺の部屋で伊香賀ちゃんが三点倒立してるんだ……?」
真っ直ぐきれいなフォームで三点倒立をする幼女、もとい伊香賀ちゃんの姿がそこにはあった。
長い黒髪が床に広がっており、足の踏み場に困る。
信じられないことに伊香賀ちゃんから寝息が聞こえてくる。
ほんとに、どんな寝相をしているんだか……。
「あ、伊香賀ちゃんこんなところにいたんだ……」
俺の部屋の扉がゆっくりと開き、うがいちゃんが顔を出す。
「寝相悪すぎてここまで来たんか、伊香賀ちゃんは?」
「知らないッ!夢遊病か何かじゃないのッ!」
俺をギロリと睨んでいるあたり、昨日のお風呂を覗いてしまったことをまだ怒っているようだ。
やっぱり目が真ん丸すぎて睨まれてもあまり怖くない。
「とにかくまずは起こさないとな……。うがいちゃん、伊香賀ちゃんが倒れないように足のところ持っていてくれないか?」
「うるさいうるさいッ!自分でやってよねッ、このヘンタイスケベお兄ちゃん!朝ご飯つくってくるッ!」
そう言ってうがいちゃんはキッチンのほうに行ってしまった。
ヘンタイとスケベはほぼ同義語ではないのか……。
にしてもとにかく、これは一回ちゃんと謝らないとだな。
昨日もかろうじて晩ごはんはつくってくれたけど会話一つもなかったし……。
「あれ、もう朝ですか?」
「そうだけど……。よくそのフォーム保っていられるな……」
伊香賀ちゃんは目を覚ましたにもかかわらず、三点倒立の状態のままピクリとも動いていなかった。
ここまで来たら超人技とか、大道芸とか、その域である。
「まあ、慣れているので」
そう言って伊香賀ちゃんは華麗に足を着地させた。
昨日の朝と同様に、長い黒髪はまるで静電気で引っ張られているかのように天井に向かって逆立っていた。
「というか、なんであなたがここにいるんですか?」
「それはこっちのセリフだよ。ここ俺の部屋だぞ」
「……、あ。すみません、私寝相悪いもので」
「一体どういう原理なんだよ……」
あたりを見回す伊香賀ちゃんに対し、俺はため息を漏らした。
「あれ、また髪の毛が立ってしまいました。あなたが直してください」
「なんで俺がやらなきゃ駄目なんだよ。自分でやれよ」
「自慢じゃありませんが私、こういうの自分でできないんです」
「ほんとに自慢じゃないな……」
「昨日も学校行くの恥ずかしくて仕方ありませんでした」
「いや、めちゃくちゃ堂々としてたじゃねーかッ!むしろこっちが恥ずかしかったぞ!」
「いいえ、もう限界です。なので直してください」
伊香賀ちゃんは表情一つ変えず、俺に一歩近づいた。
「嫌だって!そんなことしたら遅刻しそうだろ!」
「『私をお世話できるプラン』だというのに……。勿体無いです」
「だから言っただろ?俺は伊香賀ちゃんのほっぺただけが目当てなんだ!」
「お世話してくれないんだったらほっぺた触らせてあげませんッ!」
「うぐッ――」
伊香賀ちゃんはほっぺたの前に両手でバリアをつくって言った。
俺は昨日の衝撃を思い出す。
伊香賀ちゃんのほっぺたの感触。
まさに、指先に広がる俺の理想。
手放すという選択肢が俺にはなかった。
「もうわかったよッ!そこに座ってろッ!今ドライヤー持ってくるからッ!」
「了解です」
伊香賀ちゃんはほんのりと口角を上げ、俺の布団の上にちょこんと座った。
こいつ、完全にほっぺたを利用してやがる……。
悔しいながら、俺は洗面台まで走っていった。
俺はドライヤーとヘアブラシと寝癖直しウォーターを抱えて自室に戻った。
座ったまま全く動こうとしない伊香賀ちゃんの頭に寝癖直しウォーターを霧吹きでかけまくり、ドライヤーの冷風を当てながらブラシで髪を梳かした。
「それにしても手強いな……。何度梳かしても髪が上に向かっていくぞッ!」
「私の髪は向上心が高いですからね。私同様、上を目指してしまうんです」
「何言ってんだお前。ただの寝癖だろ……」
誇らしげに語る伊香賀ちゃんに対し、俺は冷静にツッコミを入れた。
「戯言は後です。はやく私の髪を下ろしてください。遅刻してしまいますよ?」
「戯言は伊香賀ちゃんだろッ!あと誰のせいで遅刻しそうになっているか考えろよ!?」
ビヨンビヨンと跳ね戻る伊香賀ちゃんの髪にイラつきながら俺は言った。
そして、二十分後――。
「ふう……。枝毛がちらほら出ちゃっているけど、まあいいだろう」
「そうですね。及第点といったところでしょう」
伊香賀ちゃんは手鏡で自分の髪を確認しながら言った。
なんで常に上から目線なんだよ……。
俺、一応伊香賀ちゃんの『お客様』でもあるんだけど。
「まあいいや。とにかくはやく朝ごはん食べるぞ」
「わかりました」
食卓に行くと、すでにうがいちゃんの姿はなかった。
うがいちゃんも今日から始業式。
はやめに学校へ行ってしまったのだろう。
ただ、二人分の食事が用意されていた。
本日のメニューはソーセージ、目玉焼き、ご飯に味噌汁だ。
至ってシンプルだが、食卓に漂う湯気が食欲をそそらせる。
「伊香賀ちゃんはやく席につけー。いただきます」
「い、いただきます……」
俺はご飯を口にかきこんだ。
朝にうさちゃんの様子を見る時間を考えると、あと二十分で家を出たい。
とにかく急いで食べて、歯を磨き、制服に着替えなければならない。
「ごちそうさまでしたッ!」
俺は五分足らずで朝ごはんを平らげ、食器を洗おうと洗面台に持っていこうとしたが――。
「ちょっと、待ってくらさい――」
伊香賀ちゃんの朝ごはんがほとんど残ったままだった。
食べるスピードが異常に遅かったのである。
初めて会った時の、オムライスを食べたときとは全く違かった。
「おい、嘘だろ……」
「ワカメ食べられないので味噌汁飲んでくらさい」
「わかったからッ!食べながらしゃべるなッ!」
伊香賀ちゃんは小さい口の中にご飯をいっぱいに詰めており、ハムスターのように頬が膨らんでいた。
「ほんとに遅刻しちゃうから、残っている分俺が全部食べちゃうからな!」
「あ、ソーセージは残してくらさい」
「……………」
俺は残っていた分も食べてすぐさま食器を洗いに行った。
「ふう……。やっと片付いた……。あとは歯磨いて制服に着替えるだけ……」
うさちゃんの様子をじっくり見ている余裕はなさそうだが、遅刻はなんとか免れそうだ。
「おーい、伊香賀ちゃん。はやく準備しろよー」
「あの……」
「ん?」
「私の歯、磨いてくれませんか?」
「……はあ?」
「私、一時期自分で歯を磨いていたんですけど。その一か月後に十二本虫歯ができたんです」
「まじかよ……」
「なので、磨いてください。もう歯医者行きたくないですッ!」
「知らねーよッ!」
俺は伊香賀ちゃんの歯を磨いた。
「おーい。はやく制服に着替えろよー」
「あの……」
「今度は何だッ!」
「裏表逆に着てしまいました……」
「それくらいは自分でやれッ!急いでやれッ!」
「ケチですね……」
「……………」
そして、そうこうしているうちに――。
「完全に遅刻じゃねーかッ」
時計は午前八時二十八分を示していた。
始業のチャイムが鳴るのは八時半である。
世界新記録の走りを見せても、今からでは間に合わない。
「大丈夫です。そんな落ち込まないでください。人生、そういう時もあります」
「伊香賀ちゃん、今だけは黙っててくれッ……!」
俺は頭を抱えながら、相変わらず無表情の伊香賀ちゃんに言った。