第七話 本気の説得はいかがですか?
皆は嫌なことがあったとき、どう対処しているだろうか?
俺はそういうとき、音楽を大音量で聴くことにしている。
ロック、アニソン、ボカロ、その他もろもろ……。
とにかくアップテンポの曲を大音量で聴いて、何も考えないようにする。
俺は校門の前で立ち止まり、イヤホンを取るためにカバンの中をまさぐった。
それにしてもあの写真、いったい誰が撮影したというのだろうか……。
狙ってやらないと、伊香賀ちゃんと判断できないような絶妙な写真なんて撮れないと思うのだが……。
しかも、あの写真には不可思議な点が一つあった。
写真の中では、伊香賀ちゃんが包丁を持っていなかったのだ。
一体、どういうカラクリなんだ……。
「まあいいや、明日から考えよう。今日は疲れた」
俺は音漏れしているワイヤレスイヤホンを耳につけ、帰路についた。
音楽を聴くことに加えてもうひとつ、俺には嫌なことがあった日のルーティーンがある。
それは、家に帰ったら速攻でシャワーを浴びることだ。
頭に打ち付ける温水が、まるで嫌な記憶ごと洗い流してくれる感覚になるからだ。
あの時間は何もかも忘れられて気持ちがいい。
俺は気付けば速足になっていた。
家につき、玄関で靴を脱いだ瞬間にはもう走っていた。
よし、昨日のことの分まで、何もかも洗い流すぞッ……!
そう勢いづき、アップテンポの曲にのりながらシャワー室の扉を開けると――。
「ん?」
「なんですか……?」
「あ……………」
おろされた長い髪。
発展途上のお胸。
シャンプーまみれの二人の小さな女の子……。
「お……、おおッ――」
「はあ……」
「いやあ、その違うんだッ、うがいちゃん、伊香賀ちゃん!音楽聞いていたからその、気付かなくて……。ほら、あとまだほっぺたのところしか見てないから!俺、ほっぺたフェチだから!局部見えてないからセーフ!」
野球の審判のように、俺は大仰にセーフのジェスチャーをする。
その反動でワイヤレスイヤホンが耳から零れ落ちた。
いやその……、実のところ局部見えちゃいました、はい……。
「満さん、アウトです」
「お、おおおッ!お兄ちゃんのバカあああああああ!!!」
「ぐはッ――!!!」
二人の手から同時に飛んできた風呂桶が顔にクリーンヒットし、俺はその場に倒れこんだ。
「で、デッドボールだろ――」
「お兄ちゃんなんて最も最低な人間なんだッ!もう絶対に許さないんだからッ!」
うがいちゃんは怒号を上げ、バタンとシャワー室の扉を閉めた。
やっぱり今日は厄日だ……。
俺は天井を見上げながら、一筋の涙を流すのだった。
◇ ◇ ◇
「鼻血、大丈夫そうですか……?」
扉の隙間から顔を出した伊香賀ちゃんは俺に尋ねた。
先ほどまでとは打って変わって、伊香賀ちゃんの長い黒髪は艶やかに下ろされていた。
「ああ、今も絶賛流血中だよ」
「言っておきますけど、あなたのせいですからね……」
両方の鼻の穴に血のにじんだティッシュを突っ込んで顔をしかめる俺に対し、伊香賀ちゃんは呆れている様子だった。
ちなみにうがいちゃんのほうは完全に怒っており、口も聞いてもらえない状況だ。
昼ごはん俺の分作ってもらえなかったし……。
「ああ、そうだ。伊香賀ちゃん、これ返すよ」
俺はかばんの中から、昨日伊香賀ちゃんが持っていた包丁を取り出した。
下校時にこっそり回収していたのだ。
「ああ!刃の部分を持たないでくださいよ!指紋が付いちゃうじゃないですか!」
「いや、柄の部分持って渡したら危ないかなって」
「渡し方次第ですよそれは!もうッ!」
伊香賀ちゃんは眉を逆ハの字にして、怒った口調で俺に言った。
こうやって感情を露にする伊香賀ちゃんというのはなんだか新鮮である。
伊香賀ちゃんはどこからか高級そうな木箱を持ってきて、それに包丁をしまってから嬉しそうな顔で撫でていた。
というかこいつ、ただの包丁マニアなのか……?
ただ、俺には伊香賀ちゃんの素性というものを聞く必要がある。
でなければ俺が社会から抹消されてしまう……。
「なあ、伊香賀ちゃん。ずっと隠しているけど、そろそろ自分のことを話してくれないか……?でないと俺が本当に困るんだ」
「ああ、はい……」
伊香賀ちゃんは少し躊躇うような表情を見せた。
「じゃあ、わかった。両親のことについては聞かないよ。でも、なぜ俺に『私を買ってください』と脅したのか?その経緯については『お客様』として聞く権利があるんじゃないか?」
「はい。その通りですね……」
伊香賀ちゃんは少し逡巡した後、重苦しい表情で口を開いた。
「私、一週間前に父親と口論になって家出したんです……。家出の理由は聞かないでください……」
「やっぱり家出だったか」
頑なに親のことについて口を塞ぐ態度に、俺もさすがになんとなくは察していた。
「家出してからは行くあてもなく、仕方ないので学校に忍びこみました。そこから一週間学校で過ごしてました」
「そうだったのか……」
「ただ、必要なものとか大切なものとか、全部リュックに入れて家を飛び出したんですけど……。財布を忘れちゃって……。そのせいで冷水で体を拭いたり、うさぎの餌を食べたり、ほんと最悪でした」
「そ、それは災難だったな……」
明らかに伊香賀ちゃんのせいだが。
てか、うがいちゃんの部屋にあったでっかいリュック、伊香賀ちゃんのものだったのかよ。
「それであなたに私を購入してもらう発想に至った経緯ですが……」
伊香賀ちゃんは自分の髪の毛先を指でクルクルさせながら話を続けた。
「その……、毎日うさぎの餌やりに来てたじゃないですか……。実はその姿をずっと物陰から見てて……。この人にならお世話されてもいいなって思ったんです!」
「まじかよ……」
俺が「うさちゃん!うさちゃん!」って言って愛でてたところも見られてたのかよ。
めっちゃはずいじゃん。
「お金も欲しかったのでいっそお世話できるというビジネスにしちゃおうと思ったんですけど……。簡単には引き受けてくれないと思ったので、包丁でエイッと……」
「エイッとするなよ!」
「でも、こっちは命がかかってたんですよ!?」
伊香賀ちゃんは無表情のまま頬を膨らませた。
てか、なんで逆ギレしてるのこの娘……?
「まあ、わかったよ。つまり、何らかの理由で家出して転校する予定の学校に一週間住み着いたがお金もなく限界になったから俺を脅してここに来たってわけだな?」
「だいたいあってます。そういえば、今日学校に置いてきたリュックを回収したのでうがいちゃんの部屋に少しだけ私物を置かせていただきました」
「おお、そうか」
伊香賀ちゃんが学校で制服を着ていたのは、一旦実家に戻ったわけではなく、学校に置いてきてたというわけだったのか。
それにしても、伊香賀ちゃんが家出した理由がやっぱり気になる……。
夏夜先生に詳細に説明しないと許してもらえなそうだと俺は思った。
「やっぱり家出した理由を教えてくれないか?でないと俺がやばいっていうか――」
「それは駄目です」
伊香賀ちゃんは俺の言葉を遮るように言った。
「そこをなんとか……」
「……。触りたいんですよね、私のほっぺた?」
「え……?」
伊香賀ちゃんは自分の両頬を手でバリアするように覆っていた。
「親のこととか、家出のこととか、これ以上聞いてきたら触らせませんよ?」
「どうしてだよッ!契約違反だろッ!」
「別に何かにサインしたわけではないので。では、もうほっぺたは触らないってことでいいですね?月額は一万円に値引きしておきます」
「グッ――」
「どうしても触りたいようですね……。でしたら約束してください。もう言わないって……」
伊香賀ちゃんは依然無表情にもかかわらず、俺には小悪魔のように見えた。
伊香賀ちゃんはゆっくりと自分のほっぺたから手を離し、俺の腕を持った。
俺の手が伊香賀ちゃんのほっぺたにゆっくりと近づいていく。
触れば、約束したことになってしまう。
約束すれば、社会的に死ぬ可能性が高まる。
それでも俺は抵抗することができなかった。
そして、指先に伊香賀ちゃんのほっぺたが触れた瞬間――。
脳に衝撃が走った。
指先に伝わる心地良い体温。
陶器のようにすべすべとした肌。
押し込めば天国にも昇るようなふんわりもっちりとした触感。
俺のほっぺたノートに書いた理想がそこにはあった。
「うおおおおおおおおおお!!!」
「ちょっと、そんなに触らないでくださいッ!」
ほっぺた欲のタガが外れ、ピアノを弾くように伊香賀ちゃんのほっぺたを触り始めるとさすがに手を剥がされてしまった。
俺としたことが……。
国宝級のほっぺたなんだ、もっと大切に触らなければ……。
「ごめん。完全にほっぺたに意識が持っていかれてた」
「どういう意味か全くわかりませんが……。でも約束、しましたからね?」
伊香賀ちゃんは首を傾けながらそう伝え、俺の部屋をそそくさと出て行った。
「約束、してしまった……」
窮地に立たされているというのに、幼女に一本取られてしまったな。
幼女じゃないけど……。