2品目『コーヒーハウス』
「助けて……だなんて。うちのメニューにないオーダーだわ。びっくりしちゃった」
シュガーに助けを求められた、ウェーブのかかった黒髪の女は、「助けて」の言葉を聞くなり、真っ先に彼女をカウンターの陰に隠してくれていた。蹲るシュガーに目線を合わせて、女性が冗談めかしてくすりと笑う。
幸いなことに、マドレーヌとエクレアの追跡はそこまで近くまで迫っていなかったらしい。
通りでの悲鳴はいまだ聴こえるが、店内には押し入ってきていなかった。
まだ安心はしきれないけれど、死からは遠ざかっているはず。シュガーは呼吸を整え、改めて女性に感謝を伝える。
「はぁ、はぁ……あ、ありがとう、ございます」
「どういたしまして。
それで、外でなにがあったのかしら。教えてくれる?」
「……はっ、はい。その、私……」
ふと、この人に話していいのか、と思いとどまった。つい先程、声をかけてきた女を簡単に信用し、追われる羽目になったばかり。
また追われることになったら、今度こそ命はない。そんな恐怖に限りなく近い思考が、言葉を紡ぐのを邪魔していた。
疑いから言葉を止めたシュガーに、女性は首を傾げ、その後に言葉を続ける。
「私の名前はカフェリーナ・サイフォン。このコーヒーハウスの店長よ。貴女は?」
「……シュガー、です。シュガー・スイート」
「ふふ、シュガーね。可愛い名前だわ」
カフェはそれ以上尋ねるのをやめ、何事もなかったかのように器具の手入れに戻る。
きっと彼女は、シュガーが信用を踏みとどまっていることくらい、もうわかっているんだろう。
カウンターの下から見つめる横顔は綺麗で、コーヒーカップを拭いているだけなのに、シュガーの視線はカフェに奪われていた。
そうして見惚れているうちに、やがて誰かが扉を開く。木の軋む音に、二人分の足音が聴こえ、シュガーは思わず口を押さえて縮こまる。
「いらっしゃいませ」
「悪いが、コーヒーを飲みに来たわけではなくての。人を探してるんじゃ。白い髪の女の子なんじゃが」
マドレーヌの声がする。歩き回っているのはエクレアだろう。カウンターを隔てた向こうには、自分を殺そうとしている相手がいる。鼓動が速くなりながら、シュガーは息を潜め続けた。
「残念だけれど、うちには来てないわ」
「ほう……そうか」
カフェの言葉に、意外にもあっさり引き下がるマドレーヌ。胸を撫で下ろすシュガーだったが、その気が緩んだ瞬間、カウンターが蹴り付けられる音と衝撃が響く。
「ひっ……!?」
シュガーは悲鳴をあげてしまったことに気がついて、慌ててまた口を押さえるが、時すでに遅い。
「この辺から匂うんだ……甘ぁい、人間の匂いが。
ほら、見ぃつけた」
カウンター横から覗き込んで顔を出すのは、凶器を手にした獣の姿。エクレアの飢えた目と、包丁の刃がシュガーを映していた。
その刃が振り上げられて、そのまま、シュガーへと振り下ろされてゆく。
「それじゃあ、いただきま──ッ!?」
シュガーを殺すより先に、突然の衝撃にエクレアの顔が歪む。彼女の顔面にぶつかったのは、カフェの繰り出した膝蹴りだ。
耐えきれず吹き飛ばされ、彼女は床を転がっていき、壁にぶつかってようやく止まった。
何が起きたのか、顔を上げると、そこにはカフェが立っている。
「そこから先、関係者以外立ち入り禁止なの」
カフェの攻撃は予想外だったのか、マドレーヌは目を丸くしていた。けれどすぐにエクレアのもとへ駆け寄って、彼女に肩を貸す。エクレアはどうやら気絶しているらしく、返事もなく、包丁は床に転がったままであった。
「おのれ、邪魔をしおって……そいつはわしらの獲物じゃ、ぬしには渡さぬぞ!」
そんな捨て台詞を吐くと、マドレーヌは気絶したエクレアを連れてそそくさと喫茶店から出ていく。
カフェはそんな彼女らを見送り、あの子たちは出禁ね、と呟くと、シュガーのほうを振り向き、手を貸して立ち上がらせてくれた。
「さて、と。ご注文の品はこれでお揃いかしら?」
「え、あっ、ありがとう、ございました」
勝手に押しかけて、事情もなにも話していなかったのに、カフェはシュガーの言葉に応え、襲撃から守ってくれた。
彼女がいなかったら、シュガーは食べられていた。命の恩人と言えよう。
「どういたしまして……あ、そうだわ。じゃあ、裏メニューのお代をいただくとしましょうか」
店で注文をしたのだから、お代を払うのは当然のことだ。カフェはずっと、シュガーの頼みをオーダーだとして話している。つまり、代金が発生する、ということなんだろう。
しかし、シュガーは無一文だ。そのことは正直に伝えるしかないだろう。
「あ、あの、ごめんなさい。私、お金とか持ってなくて」
「お金じゃないわ。こっちよ、こっち」
カフェはシュガーの顎に指をかけ、くい、と持ち上げた。目と目が合って、気まずくなって、シュガーは視線を逸らす。だが彼女の顔は構わずに近づいてきて、まさか唇を奪われるかと思ったその時、頬を生暖かい湿った感覚が襲った。
「ひ、な、何して」
「じっとしてて?」
カフェに言われるがまま、シュガーはじっとしていることを選んだ。
どうやら、エクレアにやられた切り傷とそこから流れ出た血の痕の上を、カフェの舌が這っているらしい。
舌遣いは丁寧で、吐息が耳にかかって、傷口を舐められている異常な状況なのにどこか心地いい。
そんな不思議な時間は、最後にカフェが傷口に優しくキスをして、終わりを告げるのだった。
「ふふっ、お代、しっかり頂いたわ。こんなに甘くて美味しい血、初めてよ。狙われるわけだわ」
「血……美味しいん、ですか?」
「もちろん。私、人の血が大好きなんだもの。ほら」
彼女の見せてくれた犬歯は、普通の人間とは明らかに違う。長く、鋭く、確かに吸血鬼のようである。
血液が主食だとしたなら、血が代金として成立するのも、頷けるのかもしれないが……。
「吸血鬼、って……カフェさんも、人間を食べるんですか」
「えぇ、そうだけど、知らなかったの?」
「私……今日初めてこの国に来て」
「それなら教えてあげなくちゃね。
さっき逃げていったあの子たちは、吸血鬼じゃないけど『食人者』よ。
食人者は人間を食べないと生きられない、禁忌の存在よ。
そんな禁忌がありふれてるんだもの、この街。嫌な場所よね」
食人者──フラッシュバックするのは、エクレアが喰らっていた死体だ。
あんな光景が、この街にはありふれている。考えるだけで眩暈がしそうだった。
逃げ出そうにも、まだ両親の情報は欠片も掴んでいないし、何より乗ってきた船の持ち主は──。
「食人者のことも知らなかったお上りさん。これからどうするの?」
「……どう、しよう」
シュガーを気にかけてくれていた大人は殺された。また通行人に聞いて回ろうとしても、無視されるか、食人者に殺されるのがオチだ。
故郷の島に向かう船を見つけて、潜り込んで、家に帰ればいいのだろうか。それは嫌だ。心だけ折られて、親を恋しく思う日々に戻るなんて。
どうすればいいのかわからなくなって、シュガーは立ち尽くしたまま拳を握り、ひとつの決心をする。
「あ、あの、カフェさん! 私のこと、もっと、聞いてください」
一度躊躇ったことだったけれど、カフェはきっと、信じられる吸血鬼だ。非力なシュガーは、頼れるものに頼っていくしかない。
「ふふっ、愛の告白みたいね、それ。もちろんいいわ。聞かせて頂戴」
カフェに勧められるまま、シュガーはカウンターの席に座った。
そしてそのまま、微笑むカフェに向かって、両親のこと、船長のこと、エクレアとマドレーヌのこと、全部を吐き出した。脳裏にこびりついていた恐怖も、誰かに話すだけで薄らいでいくようだった。
「なるほど、ね。それで、シュガーは今どうしていいかわかんないわけ」
シュガーがひととおり話終えると、カフェは聞きながら淹れていた1杯のコーヒーを差し出す。
「なら……うちで働いてみない?
お客様から情報がもらえるかもしれないし、私の近くにいてくれたら、もしまた狙われても守れるわ。
それに今なら三食昼寝付き。どう? 飲んでくれるなら、この一杯、最初のサービスにしたげる」
シュガーの答えは決まっている。カップの取手に指をかけ、湯気が立ち上っているのを吹き冷まして、一気に流し込む。
初めて味わうコーヒーの、口に残る味はなにかの薬かと思うくらい苦くて、香りを楽しむ余裕もなかった。
「……ごちそうさまでした」
「ふふっ。これからよろしくね、シュガー」
こうして──この日から、シュガー・スイートは、カフェの下で働くことを決めたのだった。




