その279 世界一可愛いラスボス
それは小さくはあるものの間違いなく傷で、無敵を誇っていた妹様に初めて生まれた僅かな陰りだった。
どうして急に無敵が解けたのだろうか。
色々と要因は考えられる。混乱のせいとか、ジェーンという存在を過剰に見すぎたせいとか、或いは『信じる魔法』の使い手が二人いるせいとか。
しかし、これと言った決め手は思いつかない。
突然な事態に私もまた混乱していると、妹様が目を覚ました。
そしてすぐにグレンの腕から離れると、またジェーンの元へと走ろうとする。
か細い腕を掴んで、咄嗟にそれを止めたのはグレンだった。
「危ないだろ! 突然どうしたんだ?」
「だ、だって……トラコが退治されちゃうから!」
心配そうにドラゴンの方を見つめる妹様。
なんとなく分かってはいたけれど、やっぱりトラコさんへの心配からくる疾走だったらしい。
トラコさんの事情を知ったことで妹様のドラゴンを見る目が変わり、悪しき存在から守るべき存在になったのだろうか。
というかそれ以上に、ドラゴンを振り回すジェーンの姿は既に妹様のトラウマになっているのかもしれない。
恐ろしいが故に自分の従者への心配が勝ったのかも。
結果的にジェーンが恐怖存在に見えているのだとすれば、なんというか、頑張っているジェーンがちょっと不憫!
むしろ天使なのに!
悪役で令嬢なのは私の方ですからー!
「お前の勇気は褒めたいが……けど、今のお前は無敵じゃないんだ。頬の傷を見ろ」
「えっ? あっ、本当だ!」
今気付いたと言わんばかりに頬に触れる妹様。
結構衝撃的な事実を告げられたと思うのだけど、その反応は予想外に軽かった。
そしてどうでもいいと言わんばかりに袖で血を拭うと、強い意志のこもった瞳でグレンを見つめる。
「でも、今は私のことよりトラコのことが気になるの」
「そうか…………じゃあ、行っていいぞ」
「いいの!?」
「いいんですか!?」
あっさりとした許可出しに私も妹様も同時に驚いてしまう。
冗談かと思うような発言だけど、グレンの顔は真剣そのもので、これが洒落でも何でもないことがすぐに分かる。
グレンは本気で妹様を渦中に投げ込もうとしていた。
「メイドの不始末は主人の責任だからな。しっかり謝ってこい」
「う、うん!」
妹様の背中を押すグレン。妹様は再び二人の元へと駆け出して行った。
残された私は思わずグレンを見つめる。
「ど、どういうつもり?」
「ん? いや、どうやらもう大丈夫そうだと思ってな」
「大丈夫そうな要素が少ない気がするけれど!?」
私としてはまだ心配で仕方がないのだけど、グレンからすれば既に事態は大丈夫な段階らしい。
妹様が丈夫ではなくなったと言うのに大丈夫とはこれ如何に。
ひいき目に見ても小丈夫くらいしか感じないのだけど……。
「まあ、見てれば分かるよ。ジェーンもどうやら察しているらしいし」
「ジェーンが?」
言われるがままに視線を戻すと、そこでは妹様がジェーンに立ち向かっているところだった。
ドラゴンをぶん回すお方を前に、しかも自分の無敵も失っている状況で、妹様は果敢にも両手を広げて、とてもそんな小さな腕では隠しきれないほどの巨体の持ち主を、ドラゴンを守ろうとしていた。
気高い光景だった。
メイドを守ることにひたむきな幼い主の姿に私は思わず息を飲む。
こ、この状況、ジェーンはどうするんだろう。
ハラハラしながら見守っていると、ジェーンは腕を組んでこう言った。
「……ど、どけ小娘! その竜は成敗しなければならない!」
ジェーン!?
なに!? そのラスボス感のある口調は!?




