おまけ:「お義父さん」 (2)
「……ん……」
ダメだダメだと頭を抱えるおじさんにどう声をかけようか悩んでいたら、千里が小さくうめいた。
「千里、起きたの?」
「おっ? そこに千里がいたのか」
……忘れていたんですか。
目を覚ました千里が、僕の足からゆっくりと頭を上げた……と思ったら、そのままバランスを崩して床に転げ落ちた。
「だいじょうぶ!?」
「い……たた……」
あわてて抱き起こしたけど、体に力が入らないみたいだ。
「もう部屋で寝たほうがいいよ」
「……うん……」
「おじさん。千里を部屋に連れていきますね」
「ああ、頼むな」
……ダメだ。さっきのシミュレーションがおじさんにまったく刺さっていない。
僕にすがりながらも自分の足で立った千里を支えながら、二階の部屋に向かう。
千里の顔は真っ赤になってとろんとしている。
かわいい……って思いたいところなんだけどさ、アルコールに弱いだけだから、悠長な感想も抱いていられないな。
危なかっかしくて、やっぱり外では飲んで欲しくないな。これからなにかで飲む機会があるだろうけど、どうしようか。でも、常に一緒にいられるわけじゃないし。
永井さんに注意を頼んだら……渋い顔されるだろうな。心配しすぎだって。
一回だけ、今後の千里のことが心配だって相談してみたんだけどさ、
——女子になった自分が周囲からどう見られているか、自覚がなさそうなところは危なっかしいけど、自分で女性として生きていくと決めたなら、本人でなんとかしていかないといけない機会も今後あるだろうし、一から十まで気にして過干渉になりすぎないようにね——
って釘刺されたし。……自制しないと過干渉になるって、僕のことをよく知ってるね、永井さん。
千里に対して口うるさくならないようにって、余計なこと言わないようにしてると、たまに千里が不満そうな顔するから、加減が難しいんだよね。
三上さんにはあまり頼りたくないし、田口さんはあいかわらず理衣叔母さんの話を聞きたがるから論外だし。いっそ、叔母さんの話をぶら下げれば、田口さんは頼みも聞いてくれそうだけどさ。……やばい、それもありな気がしてきた。
……ああ、僕も心配しすぎだね。
「ねえ、英人。私、歩けてる? なんだか視界がぼやっとしてる」
階段を上りながら、千里が僕に訊いてきた。
「一応自分の足で歩いているけど、ふらふらだね」
「自分じゃよくわかんないけど、そうなんだ。お父さんがいつもすぐに酔っ払ってると思ってたけど、遺伝でアルコールに弱いのかも。これじゃあ、お酒は控えた方がいいよね」
……ちゃんと、本人と話せばよかっただけか。
そんなに心配しなくて済みそうと安心したら、千里が急に涙をこぼしたから驚いた。
「お酒に弱いのがそんなに残念だった?」
「ううん、さっき夢見てて」
「夢?」
「英人の膝で寝ていた時に、すごく幸せな夢を見ていたの。夢だけど嬉しくて、思い出したらなんだか泣きたくなって。酔ってるのもあるのかな」
「嬉しい夢って?」
「あのね、英人がお父さんに……」
……ん?
「……やっぱり、なんでもない」
なんでもないって言いながら、千里は僕の顔をちらちら見ている。
さっきのシミュレーションが聞こえていたっぽいね。千里は夢の中のことだと思っているみたいだけど。
「どんな夢だった?」
「恥ずかしいから言えない」
顔を隠しながら、首まで赤くなっている。これじゃあ、アルコールのせいか夢のせいかわからないね。
「……でもね、いつか現実になったらいいかもって夢だった……」
……かわいい。
夢じゃないよって伝えてもよかったけど、階段から落ちられても困るからやめておいた。
すぐに戻るつもりだったけど、ちょっとだけでいいから一緒にいてと誘われて、千里の部屋に入った。僕自身、千里がかわいすぎて離れがたかったし。
おじさんを待たせることになるけど、まあ、少しぐらいなら平気だよね。
どれだけ一緒にいても物足りないね。ほんの数日前、バレンタインと千里の誕生日を兼ねてデートしたばかりなのにさ。
ベッドに横になった千里の頭や頬を撫でれば、目を細めて笑う。
「英人の手、気持ちいいね」
おじさんが待ってさえいなかったら、いつまでも触れていたいところなんだけどね。
現実になったらいい……か。
もちろん、現実にするけどさ。何年先になるかは見通しが立たないけど、いつか必ず。
こうやって恋人同士として一緒にいられることも、千里が僕との結婚を意識するぐらいにまで好きになってくれたことも、僕にとってはいまだに夢のようだよ。
本当に、よくこんな関係になれたと思うよ。
あの日、将来のことを決めたと聞かされた時は、ほんっっとうにショックでしかなかったけど、マイペースを通り越して頑固なのは昔からだったから、あきらめることしかできなかった。
もうどうにもならないなら、せめてと、嫌われるのを承知で全部打ち明けたけど、僕達の関係は変わらなかった。
それどころか、正面から告白したからか、ちゃんと異性として意識されるようになった。
あんな態度を見せられたら、いけるんじゃないかって欲も出るよね。
強引に押してみたら、思ったとおり受け入れてくれて。後はもう、僕の一方通行でいいから、側にいてくれさえすればかまわなかった。それ以上なんて望んでいなかった。……チョコをもらうまでは。
マイペースがチョコを用意してきたんだから、それは他ならない本人の意思で。
照れくさそうにチョコを差し出してきた顔を見て、僕の一方通行じゃなくなっているって、……僕を好きになってくれているんだってわかって、欲が膨らんだ。
全部が欲しくなった。
控えめに迫ってみても拒まれなかった時は、興奮して、いっそ抱きつぶしたくなるのをこらえるのが大変だったよ。
両思いになれたのを実感して、満たされて、……いつのまにか、以前みたいにいらつかなくなっていた。余裕ができたからか、趣味友達もできて。
自分でも調子いいと思うよ。そういう意味で認めて欲しかったわけじゃなかったのにさ。
それでも、よそ見することなく僕だけを見つめてくる時に、この視線が欲しかったんだって満足を覚えるんだ。
ひねくれているにも程があるけどさ、叔母さんのお菓子を今後一切受け取らない宣言をされた時は、申し訳なさと同時に、気分がよかったね。
おかげで叔母さんのことも、昔ほどは嫌いじゃない。――千里の名前が「ちーちゃん」呼びにかかってるって気がついた時には、しまったと思ったけどさ!
頭のどこかに引っかかっていたにしても、こんな形で叔母さんの影響を受けるなんてね。千里があっさり決めたのも、きっとすぐに気がついたからで。
……まあいいけど。他でもない本人が気に入ってくれたんだから。
一生背負う名前が僕の提案で決まったことで、より責任を感じている。どうせ一生、千里のことを抱えこむつもりでいたから、重荷になるぐらいの方が僕にはいいのかもしれない。
千里は穏やかに寝息を立てている。あっけなく寝ちゃったな。
残念だけど、もうおじさんの所に戻らないと。