二人で迎える新たな門出 (2)
「スマホここに置いておくね。……ねえ、引き出物もちょっとだけ見てみていい?」
「欲しいのあったら持っていっていいよ」
「もらわないよ」
英人はたぶん本気で言ってるけど、さすがに引き出物はもらえないよ。
部屋の隅に置かれている白い紙袋を覗き込んだら、ケーキが入っていそうな箱とか、他にもいろいろ入っていたけど、僕は小さなビニール袋に入ってるクッキーが気になった。
クッキーも袋のリボンも凝ってるけど、理衣おばさんの手作りだよね、これ。
もらわないって英人には言ったけど、これ欲しいな。
「やっぱり、これだけもらっていい?」
「いいよ」
紙袋からクッキーだけ取り出して訊いたけど、英人はこっちを見ないで返事してる。
でもいいよね、英人は理衣おばさんの作ったお菓子は食べないから。
「やった。おばさんの手作りのお菓子なんて久しぶりだし」
帰ってからゆっくり食べようと思ってバッグにしまおうとしたら、ゲームをしていたはずの英人がいつのまにかすぐ側にいた。
「それ、手作り……?」
近すぎてびっくりしたけど、やっぱりちゃんと確認おいて欲しかったから、英人に袋を見せた。
「だよね? 昔、同じ形のもらったことあるし」
「——ダメだよ!!」
急に叫んだ英人が、僕の手からむしるようにクッキーの袋を持っていった。
びっくりして動けなくて、声も出なかった。
英人はクッキーの袋を握りながら怖い顔をしている。
ダメって……だって、英人は理衣おばさんの作ったものは食べないのに。受け取りたくないっていうのもあるけど、そう言ってたのは、おばさんが実験で作った薬も入っているからって。
……あ、そっか。
「これ、結婚式に参列した人みんなに配られてるんだよね? みんなが食べるものなんだから、なにも……おばさんの作った薬はなにも入ってない、ただのクッキーだよ」
理衣おばさんがくれたお菓子はいつも、おばさんの手作りだった。研究者だから材料もしっかり量って作っていたみたいで、どのお菓子もおいしかったけど、おばさんが薬を仕込んでいたのも手作りのお菓子で。
だから英人は、おばさんの手作りっていうだけで、このクッキーにもなにか薬が入っているみたいにあせったんだ。
「そんなのわからないよ」
「わからなくないよ。理衣おばさんが今までに、僕や、自分から希望した人や、英人以外に実験台にしようとしたことある? ないよね?」
理衣おばさんが僕のことも実験台にしていたのは、僕がお菓子が好きなのもあったけど、おばさんの見せてくれる実験を僕が楽しんでいたからで、誰でも勝手に実験台にしたりするわけじゃないのは、薬で性別が変わったのが僕と理衣おばさんだけだったって話からもわかるのに。
「それとも、英人に渡された分にだけなにか入ってるの? そんなことできるの?」
「できるかどうかは……。でも、やりかねないんじゃ……」
「いくらなんでも心配しすぎだよ。そのクッキーを食べても、なにもないってば」
僕が言っても英人は納得してくれないみたいで、目をうろうろさせながらしばらくなにか考えていたけど、急に気が抜けた顔になった。
「……そうだね。もしなにかあっても、これで戻れるならその方が……」
小さくつぶやいたのが聞こえたけど、戻れるならって……なにが、なにに?
英人は横を向いて、袋を持った手だけ僕に伸ばしてきた。
クッキーが砕けてる。英人が強く握ったから。
袋に手を伸ばそうとして、自分の指先が軽くしびれているのに気がついた。さっき、英人の手が勢いよくぶつかったからだね。
指をこすってしびれを治しているあいだも、英人はだまって袋を持ったまま、僕の方を見ない。
英人は僕がクッキーを食べるのを待ってる。
いつも注意を聞かなかった僕を、あんなにきつく怒ってきたのに、今は英人の方が食べさせようとしてる。
「……いいよ、もらわない」
「え?」
「英人がもらってきたものなんだし、英人がだめって言うなら食べない」
「食べないって……あっ! ごめん、こんなんじゃ食べる気しないよね」
粉々になってるのにやっと気がついて、英人があせってる。
握ってた本人が気がついてなかったなんておかしいけど、それだけ夢中だったんだね。
「これからは、理衣おばさんの手作りはもらうのやめるから。英人が嫌ならもう食べないよ」
「僕が食べたくないだけで、大地が食べる分には……」
「ううん、いいよもう。そのクッキーを食べたってなにも起こったりしないけど、英人がそんなに心配なら、……私だって、今さら男の子に戻っても困るから……」
やっと私の方を見てくれた英人は、見たことがないくらいびっくりした顔をしていた。
男物の服は全部処分しちゃった。今年の夏休みには戸籍の変更もするのに、今さらだよ。
それでも、もし、これからなにか起こって私が元に……男性に戻ったら、どうなるの?
服は買い直すことはできるけど、性別の変更って何度もできるのかな。お父さんお母さんは大変だと思うけど、きっとまた受け入れてくれる。永井さん達は最初から私の事情を知っていたから、友達のままでいてくれるかな。
でも、英人とは?
異性だって意識するようになって、付き合うようになって、好きになって、一緒にいるのが前よりも楽しくなって。……前よりももっと好きになったのに、それが全部なくなるの? なかったことになるの? こんなに英人のことを好きになっているのに、ただの友達に戻るの? そんなの……想像もしたくないよ。
これから先、なにか起こってこの体がまた男性になったら、その時はきっと、私は女の子に戻りたくなる。
男性に戻りたいなんて、私にはもう考えられないよ。
「——だから英人も、もうそんな風に考えないで……」
粉々のクッキーを握る手に両手で触れながら、びっくりしている顔を見つめていたら、英人は泣きそうになって、だまって私を抱きしめてきた。
抱きしめる力が強くて背中が痛いぐらいだったけど、それぐらい私を離したくないんだって思ってくれているみたいで、ほっとした。
英人ってば、デートで私のことをからかったり、いじわるして楽しそうにしていたのに、私が戻った方がいいなんてまだ考えていたなんて思わなかったよ。
英人はしっかりしてるけど、怖がりなところもあるんだね。
「……大地。ちょっと考えてみたんだけどさ」
英人は長い時間、だまって私を抱きしめていたけど、腕の力をゆるめて話しかけてきた。
私は気持ちよくて眠くなってきていたけど、ぼんやりしながらなんとか返事をする。
「なにを……?」
「大地の新しい名前」
あれ? さっきはなにも言ってくれなかったから、また私の好きにすればみたいな感じなのかと思ってたのに、考えてくれてたんだ。
「どんなの考えたの?」
「チサト……とかどうかな」
チサト? それもかわいいかも……って、あっ!
「——うん! それいい、それにするよ」
私は眠気がすっかり吹っ飛んで、いきおいよく体を起こした。
「えっ……本当に?」
「どうして英人がびっくりするの? 私のために考えてくれた名前なんだよね?」
「そうだけど……そんなあっさり決められると、なんか不安になるんだけど」
「それがいいって思ったんだもん。いい名前をありがとう、英人」
英人はまだ不安そうな顔をしているけど、私はずっと悩んでいたことが解決してすっきりしていた。
「チサト」って響きもかわいいけど、この名前なら、理衣おばさんが私を呼んでいた「ちーちゃん」がそのまま通るのもいいよね。
でも、英人はそこまで考えたのかな? 英人が理衣おばさんに合わせたってあんまり考えられないから、偶然かも。
……偶然でもいいかな。だって、英人が考えてくれた名前だから。
「本当にチサトでいいの?」
「うん」
「大地が気に入ったなら……いいけど」
嬉しくて抱きつく私を、英人は優しく抱きしめ返してくれている。
すごく気に入ったから、今すぐ名前を変えたいぐらいだけど、ちゃんと順番を追って、お父さんとお母さんがくれた名前とお別れしてからじゃないとね。
新しい名前になる日が……英人が考えてくれた名前で、英人に私を呼んでくれる日が今から楽しみだな。
だから、英人とのこの関係が、ずっと続きますように。