目撃された新学期のバカップル (1)
久しぶりの大学のための早起きはやっぱりつらかった。
前日から英人が連絡をくれて、そのうえに朝から迎えに来てくれなかったら間に合わなかったかも。
ていうか、僕がまだあと一分ってねばっていた時間に来るとか早すぎ。「このあいだ起きてなかったから、どうせ今日も起きられないと思ったよ」なんてドア越しに声までかけられて。僕は英人にはどれだけお見通しされているんだろ。
僕の朝食はゼリーだけ。すぐに支度を終わらせて、玄関で待っていてくれた英人のところに行くと、じっと見下ろされた。
今日の僕の格好は、このあいだ壁に下げていたのとは別だけど、やっぱり女物の服でまとめてる。こういう服を着るようになったのはこのあいだ知られたけど、着てるところは初めて見せるんだね。
僕がこういう格好するの嫌だったみたいだし、気になるのかな。
「またおかしいって言う?」
「……言わないよ、もう」
上目遣いに訊いてみたら、ふいっと目をそらされた。
やっぱり嫌そうだけど、英人に言うつもりがないならいいや。
夏休み中は電車に乗ることもほとんどなかったから、満員電車もひさしぶり。ぎゅうぎゅう詰めの車内で揺られてつぶされて、大学の最寄り駅でやっと降りた時にはほっとして、終わったばかりの夏休みがもう懐かしくなった。
同じ電車から降りた人達が、同じ方角へぞろぞろと歩いていく。今日は後期ガイダンスがあるから、余計に人が多いんだ。
「おはよ! ひさしぶり」
英人と並んで歩いていたら、後ろから肩を軽く叩かれた。
振り向いたら、親しげに笑いかけてくる同じ大学の学生っぽい女子がいた。
……誰?
僕より背が小さい……のはほとんどの女子がそうだけど、髪は肩より長いのを下ろしている。胸は大きめ。声に覚えがあるけど、僕の知り合いでこういう見た目の子っていたっけ?
「……田口さん?」
相手がわからなくて返事もできない僕の横で、英人がぽつりと呟いた。
思わずあって声が出ちゃった。
髪型が変わってるのもあるけど、眼鏡をかけていないからぜんぜん印象が違うよ。
「そうだよー。わからなかった?」
わからなかったのがバレバレの僕に、田口さんはあっけらかんとしている。
「ごめん、メガネかけてなかったから。コンタクトにしたの?」
「そう、コンタクトにしてみたの。……いいよいいよ、私も正直、井原さんがわからなかったから。市来崎くんと一緒にいるから確信はあったけどね。……レディース着るようになったんだね」
「うん。お父さんのリクエストで」
「あ、お父さんの……」
ん? 田口さんがなんかほっとしたように見えたけど、気のせい?
「市来崎くん、ちょっといいかな。後期もオオヌキ先生の講義取る?」
「ああ、前期の続きになるらしいね。取るつもりだよ」
「やっぱり取った方がいいよね。参考書買い足さないで単位二つ取れるんだし」
二人が僕が前期で取らなかった講義の話を始めた。その講義は僕は後期も取らない予定だから、話に入れない。
横で二人の話をぼーっと聞きながら歩いていたら、急に右足首が変な方向へ曲がった。
「——うわっ!?」
僕は崩れ落ちるようにその場に倒れこんだ。
「大地! 大丈夫!?」
英人がすぐに抱き起こしてくれたけど、ひねった足首が痛くて体に力が入らない。擦りむいた手のひらと腕も痛い。
「ちょっと挫いたかも」
「そんなの履いてるから」
僕のむき出しの足首に英人が触れる。
地面を見てみたら、アスファルトにひびが入っていた。そこにサンダルのかかとが引っかかったみたい。
英人はかかとの高いサンダルをそんなのなんて言うけど、履いてみると意外とスタスタ歩けていたんだ。それに、段差やエスカレーターでもちゃんと気をつけていたんだけどなあ。こんな道路の舗装でつまずくなんて。
「歩くの無理そう?」
田口さんが訊いてくる。
平気って言いたいけど、ズキズキする。少し休めば落ち着きそうだけど、ガイダンスがあるのにそんなのんびりしていられない。
「英人、肩貸してくれる?」
「……背負っていこうか?」
「え?」
英人は自分のリュックを胸の前にかけ直すと、僕に背中を見せてしゃがんだ。
「乗って。僕が大地を大学まで背負っていくよ」
背負うって……こんな町中で? この歳で?
「い、いいよ。大学まですぐなんだし」
「そのすぐそこまでの距離があるんだから。早く」
「そうだよ井原さん! 捻挫しているなら市来崎くんに甘えちゃいなよ。あ、荷物は持っててあげる」
英人の広い背中を前に遠慮していたら、田口さんに僕のリュックを持っていかれた。
背中を僕に向けて待つ英人と、僕の荷物を持ってほらほらと急かす田口さんに挟まれたら、僕に選択肢なんてないよね……。
「……じゃあ、お願いします」
なんとなく丁寧な言葉遣いになりながら、僕は田口さんに手を貸してもらって英人の背中に覆いかぶさった。
「はいオッケー。市来崎くん、立ち上がって」
「……っしょ」
「わわ……っ」
英人が本当に僕を背負って立ち上がったから、慌てて肩にしがみついた。
「サンダル脱げちゃうよね? こちらもお預かりしておきますねー」
田口さんがなんだか楽しそうに僕のサンダルまで抜き取っていったから、無理に降りることもできなくなっちゃった。
英人は僕を背負って普通にスタスタ歩き始めた。重くないのかな。重くないわけないよね? 英人ってけっこう力持ちなんだ。
大学に向かって並行して歩いている人達の視線をちらちら感じる。いい歳して人に背負われているのも、スースーする足裏を人前に晒しているのも落ち着かない。
「英人、これ恥ずかしいんだけど」
「僕は気にしない」
「ちょっとは気にして……」
この状況でも気にならないのは、背負う方と背負われている方の違いかな。なにしてても堂々とできるのはすごいと思うんだけどね。
いつもは見えない頭を見下ろしながら、僕はどうしても気になることがあって小声で訊いてみた。
「ねえ……、僕に触るの気持ち悪くないの?」
「……そんなことないって言ったよね」
英人の声が低くなって、急に体を揺すり上げられたと思うと、太ももを支える力が強くなった。
「ちょっと、英人……」
「しっかり掴まっててよ」
英人の腕の力がますます強くなる。もしかして怒らせちゃった?
これ訊くと英人にわざわざ触られることになるなら、もう訊かないようにしないと。きっと何回訊いても僕の不安も消えないから、キリがないし。
なんとなく横を見たら、田口さんと目が合った。
「市来崎くんて頼りになるね」
にっこりとされて、僕は思わず顔を背けちゃった。
田口さんにはサンダルまで持ってもらってるのに、失礼な態度を取っちゃった。英人が頼りになるのは本当にそうだと思うけど、同時に自分のこの状況がさらに恥ずかしくなって。
早く男に戻って、少しは英人に迷惑かけないようになりたいね……。
いつもより遠い地面を英人の肩越しに見下ろしながら、 僕は大学に着くまで英人の背中で揺られていた。