僕はまだまだ女の子のまま (1)
クーラーが効いた部屋で寝転がるベッドが気持ちいい。
平日にこんなにゆっくりしていられるのもあと数日。もうすぐ大学の後期が始まる。だから今はのんびりしたい。昼前には起きるつもりだけど、もう少しこうしていたい。
枕を抱きしめながらゴロゴロしていると、階段を上る足音が聞こえてきた。誰だろう、僕が起きなきゃいけないような用事でもあるのかな。
ていうか、この足音って誰だっけ? お母さんでもお父さんでもないみたいだけど……。
「大地。起きてる?」
僕の部屋の前までやってきたのは英人だった。
びっくりして僕は飛び起きた。
「お——起きてる!」
「入っても平気?」
「ちょっと待っててっ」
慌てて部屋の中を見回す。英人に見られたら困るようなものは出しっぱなしにしてないよね。
ベッドで寝転がっていた僕の格好は、寝巻き代わりの半袖ティーシャツとスウェットのパンツ。前から着てる男物だけど、これも問題ないよね。
枕は正しい位置に。落ちかけていたタオルケットはベッドに引き上げて。
うん、これで大丈夫。
「入ってきていいよ」
ベッドにべたっと座ったまま声をかけた。
ゆっくりと開いたドアの向こうに英人の顔が見えて、笑顔になるのが自分でもわかった。
「おはよ、英人。ひさしぶりだね」
一ヶ月半ぶりかな。次に顔を合わせるのは大学が始まってからだと思ってたから、会いに来てくれたのが嬉しい。
半袖シャツの袖口から日焼け跡が見えて、夏だったんだなーって気分になる。でも、いつもよりは焼けてないみたい。去年までは夏休み明けなんて真っ黒だったのに。大学に入ってから体育の授業もないし、休み中は理一郎おじさんの研究室に通っていたから、今年は日にあまり当たってなかったのかも。
僕が英人の日焼けを観察しているあいだに、さっぱり返事が来ない。
英人はドアノブを握ったまま、びっくりした顔で突っ立っていた。
「大地……だよね?」
「そうだよ?」
やっと言ってくれのは、意味がわからないひと言。この部屋に僕以外の誰がいるの?
「……ひさしぶり」
一瞬、英人が泣きそうな顔をしたように見えたのは気のせいかな。
英人はドアを閉めると、僕のベッドを背もたれにして床に腰を下ろした。
「まだ寝てたの?」
軽く首をひねって、僕を斜めに見上げてくる。
僕の方が高い場所にいるから、しっかりした首筋と厚い胸板がよくわかる。僕が憧れても持てなかった筋肉質の体が、以前より頼もしく見える。日に焼けてるからかな? なんだろう、不思議な感じ。
「夏休みももう終わりだから、今のうちに寝るだけ寝ておこうと思って」
「寝る子は育つって歳でもないのに」
「ひどい。僕が背低いの気にしてるの知ってるくせに」
冗談だってわかってるけど、文句は言っておく。
でも、最近はあまり気にならなくなってたかな。三上さん達とか学童でのバイトとか、女の子になってから知り合った人達がみんな僕より小さかったから。
性別は変わっても身長は変わっていないはずなのに、ここ数ヶ月は見える景色が少し違っていた気がする。
「ごめん」
英人はちゃんと謝ってくれたから、僕もこの話はここまでにしておく。
「今日はどうしたの?」
「母さんが今朝作った月見団子持ってきたから、後で食べて」
「ありがと。今年ももうそんな時期なんだね」
毎年、中秋の名月におばさんが作ってくれる月見団子。歯ごたえがしっかりめで好きなんだ。
「……それから、大地を男に戻すための薬の進捗状況なんだけど」
英人はついでみたいに話を切り出したけど、そっちの話が今日来た目的なんだね。
「ごめん。夏休みが終わるまでには、できあがったのを持ってきたかったけど……無理だった」
「そっか」
言いづらそうにしながら目を伏せたから、結果は聞く前にわかった。
僕はまだまだ女の子のまま。うん、予想通り。
「……あっさりしてるね」
英人が僕を見上げる。
「ショックじゃないの? まだ男に戻れないのに」
「わかってたから」
僕はコウタくんと違って、自分で判断できるだけの知識もある。最初はすぐに戻れると思ったけど、時間の経過で戻る気配がないこと、薬の開発には時間がかかることがわかるようになってからは、当分今のままという心構えはできていたから、落ち着いていられるだけ。ショックじゃないのとはまた違う。
もちろん、予想をひっくり返して薬ができあがればそれがよかったけど、しかたないからね。
「わかってた? 休みの間に薬ができないことが? ……最初から、僕に期待してなかったってこと?」
英人ににらまれている……のは、僕の方が上にいるせい?
「違うよ。期待してなかったんじゃなくて、無理だってわかってただけだってば」
「それを期待してなかったって言うんじゃないの?」
「だから違うって。英人だって、数ヶ月でなんとかなるようなものじゃないことぐらいわかってたじゃないか」
「そうだよ、わかってたよ。……でもまさか、まったく対策立てないままこんな実験していたなんて思う? 本当に一からだったんだよ、研究が。信じられなかったよ」
「おじさん、研究以外のことに興味なさそうだもんね。ここまで考えてなかったんだね」
「——大地はそんな簡単に割り切れる問題なわけ!?」
急に大声を上げられてびっくりした。
気のせいじゃなく僕をにらむ英人は、眉間にしわを寄せて、ひどく歪んだ顔をしている。
「大地を男に戻さないとって、僕が夏休みの間ずっと叔父さんを急かしていたのに、大地は薬ができないってわかってたから、もう割りきっていたから、僕を待たないでそのまま女の子になるつもりなわけだ?」
「女の子になるって……」
どういう意味? 僕は今もう、女性になっているわけだけど。
英人が手を伸ばしてくる。
「髪の毛もこんな伸ばしたりしてさ」
「……ちょっ……」
指先が毛先をかすっただけだったけど、くすぐったくて僕は首をすくめた。
四ヶ月伸ばした髪の毛。以前に切ったのはまだ男だった時で、さすがにボサボサになってきたからこのあいだ美容院で切りそろえてきたけど、最近はドライヤーで乾かすのにも時間がかかるようになってきた。
「それにあの服も」
英人が壁を見上げる。
高校時代までは制服を下げていたそこには、今は私服を下げてある。今日着る予定の女物の服を。
「あんなひらひらしたの着るようになっちゃったんだね」
あの服を選んだのは、お父さんにリクエストされたからだった。
僕は自身は、前の好みをそのまま女物にしたような服を買うつもりだった。でも、せっかくだから今しかできない格好をしたらどうだってお父さんが言い出したから、よくわからないまま、店頭の目立つところに並んでいるのをてきとうに選んでみたんだ。学童でのバイトに向く服じゃなかったから、下ろしたのはつい最近だけど。
形は流行りものだけど、柄は入ってない。確かに男物に比べたらひらひらしてるけど、あんなって。
「夏休みの間にいったいなにしてたらそんな風になるのさ。大地だってわからないぐらいすっかり女らしくなっちゃって。僕の知らない誰かと遊んだりしてた? もしかしてもう……心まで女になってる?」
僕のヒザ元で、大きな手がシーツを握りながら震えている。
心までって、どういうこと?
僕はなにを言われているんだろう。
どうしてこんなことを言われているんだろう。
英人にこんなことを言われるなんて思ったこともなかった。
迷惑をかけて、心配をかけて、面倒をかけて。申しわけないとは思ってたけど、なんかよくわからない。
ただ、なにか誤解されてる気はする。
「……なる、ならないじゃなくて、僕は今、女の子だよ?」
「そうだけど、——そうじゃなくてさ!」
英人が怒鳴る。
大きな声なのに、まるで耳がふさがっているみたいにどこかに遠く聞こえる。
「夏休みはバイトしてただけだよ」
僕の口は勝手に動いて、淡々と言葉が出てくる。
「バイトってどんな!?」
「学童で子供達と遊んでたよ」
「……学童……」
急に英人の声が小さくなった。
「あの服はね、お父さんのリクエスト」
「おじさんの……」
また壁を見上げた英人は、さっきからあっちこっち首を回して忙しそう。
「心の性別なんて見えないから知らないけど、体は女の子だけど、僕は僕だよ? ……英人はそれじゃダメ?」
「僕は……大地は男だと」
「知ってる。……けど、思っていてもどうしようもないこともあるよ……?」
英人がなんとも言えない顔で僕を見上げた。
ついさっき、英人のこんな顔を見た気がする。……確か、英人がこの部屋に入ってきた時に。