夏に出会った小さな友達と「私」 (2)
「イハラ先生って結婚してるの?」
またコウタくんとお話ししていると、私は突然そんなことを訊かれた。
「ええっ!? そ……そんな風に見える?」
「わかんない」
「……わからないの?」
「うん。わかんない」
こっちは本気でびっくりしたのに、訊いた本人はケロッとしている。
このぐらいの歳の子には、おとなはみんなお父さんお母さんぐらいに見えるのかな。わからなくても仕方ないよねとは思うけど、やっぱりもやもやするというか、軽く傷ついたというか。
でも笑って流さないと。たぶん、コウタくんは本当にわかってないんだから。
「私はまだ大学生だからね?」
「なにやってるの?」
「薬の勉強だよ」
「……薬を作ってるの? イハラ先生は医者になるの?」
コウタくんの顔が急に変わって、大学の話に食いついてきたからびっくりした。
大学の話というより、薬か医者の話に興味があるのかも。いつも医学の本を持ち歩いているぐらいだから。
「医者になる勉強はまた別だね。私はいい薬を作るための勉強をしているんだ」
理一郎おじさんにもらっていたお菓子。中に含まれていた成分がどんなものだったのか気になったのが、今の学部を選ぶきっかけだったっけ。今は興味がもっと広がっているから、大学の講義も早くもっと専門的なことを受けたくてしかたないけど、まだ基礎中の基礎ばかりなのがもどかしいところ。
「それって、ボクの妹を治せる薬も作れるようになるの?」
コウタくんは私の顔を覗き込んでくる。
まだ小学校低学年だとは思えないぐらい、すごく真剣な顔。
「コウタくんの妹さんは病気なの?」
「うん。ミツキはずっと入院してるんだ。だからボクが元気にしてあげたくて」
「もしかして、コウタくんは医者を目指してるの?」
訊いてみれば、真剣な顔のままコウタくんはうなずいた。
そっか。コウタくんが医学の勉強をしているのは、妹さんのためだったんだ。
「でも、ボクが医者になるにはまだまだ勉強しなきゃいけないんだ。それまでミツキが苦しいのはかわいそうだから、イハラ先生が薬を作ってくれない?」
妹さんのことを心配するコウタくんは本気だった。本気で私に薬を作って欲しいと言っている。
私が作ってあげる、なんて口にするだけなら簡単だけど。
「ごめんね。私もまだ勉強中だから、病気の人を治せる薬が作れるようになるのはまだ先なんだ」
小さい子相手だからって嘘は言いたくなかった。「僕」と言っていたことをごまかそうとして怒らせたこともあったし。
コウタくんが本気なのがわかるから、私もちゃんと答えてあげたかった。
薬を作るには長い長い時間とたくさんの実験が必要になる。コウタくんが生まれた時から作り始めて、今頃完成しているかどうかぐらいの時間がかかるんだ。私がミツキちゃんのための薬を作ろうとしたら、完成が何年後になるか想像できない。
「でもね、毎日新しい薬を作っている人達がいるからね。その中に、ミツキちゃんを元気にするための薬を作っている人もきっといるよ」
私がまだ作れないと聞いてがっかりしたコウタくんに、いつか私の先輩になるかもしれない人達が今もがんばってることを言うと、コウタくんはつらそうな顔でもうなずいてくれた。
理一郎おじさんみたいに優秀な人が日々研究しているから、きっとね。
学習室の外が少しざわざわしてきた。昼寝の時間もそろそろ終わりだから、起き出した子がいるんだ。
「それじゃあ私、行くね」
「イハラ先生、行っちゃうの?」
「みんなが起きたらおやつだからね。準備しないと」
「あ……」
コウタくんは立ち上がった私を追いかけてくると、弱く裾を引っ張ってきた。
「どうしたの、コウタくん?」
「あの……ボクも手伝う」
コウタくんはおずおずと私を見上げなら、私が知る限りで初めて、学童で用意されているイベントに参加する言葉を口にした。
いつもならまたねってお別れして、ひとりで本を読み続けているところなのに。しかもお手伝いしてくれるなんて。妹さんのことを心配しているうちに、少しお兄さんになったのかな。
「ありがとう。お願いするね」
「うん」
目を合わせてお礼を言うと、コウタくんは少し顔を赤くしながらうなずいた。
「コウタくん、もしかして暑いの?」
「平気だよ。どうして?」
「顔が赤いから」
「――赤くないよ! 早く行こう!!」
コウタくんが急に怒り出したから、私は慌てて小走りになった。
私の服の裾を引っ張りながら前を行くコウタくんは、耳までまっ赤になっている。
やっぱり学習室が暑かったのかな? まだ八月まっただ中だもんね、子供達が熱中症にならないように気をつけないと。
コウタくんはそれからもひとりでいることが多かったけど、時々、イベントに参加するようにもなった。
そういう時はだいたい私の仕事を手伝ってくれて、がんばるその姿は、学童内では一番年下ながらもしっかりしたお兄さんっぷりを見せてくれて、とても頼もしかった。
そうして、八月も残り少なくなったある日。
その日は小学校の夏休み最後の日で、私の学童勤務最後の日でもあった。
「明日から新学期ですね。みなさん、元気で学校に通ってください。放課後はまたここで待ってますから、元気な顔を見せに来てくださいね」
一日の終わりに行われる帰りの会で、主任が大部屋に集まっている子供達に向かってあいさつをすると、最後に私と、一緒に夏休み限定でバイトをしていた人をみんなの前に並べた。
「それから、イハラ先生とサカイ先生は今日でお別れになります。みんな、今まで遊んでくれた二人にありがとうを……」
「——えっ!?」
主任の話の途中で誰かが叫んだ。
びっくりした声を上げたのは、みんなの後ろの方にいたコウタくんだった。ひとりだけ立ち上がって、目を丸くしている。
「コウタくん、どうしました?」
「イハラ先生、今日でお別れなの……?」
「そうよ、二人は今日まで。夏休みの間だけ来てくれていたの。最初のごあいさつの時にも伝えたけど、覚えてなかったかな?」
主任の話も聞こえてない様子で、ショックを受けた顔で私の方を見ている。
もしかして、コウタくんはあの時あの場にいなかったのかな……。私がこの部屋であいさつをしていた時、いつもみたいに学習室で本を読んでいて。
立ち上がったままだったコウタくんは、急に顔を歪ませたと思うとわあっと泣き出した。
「知らないよそんなの、聞いてない」
コウタくんはぜんぜん泣き止みそうになくて、帰りの会の途中だけど、常勤の人が抱き上げて部屋から連れ出していった。
私は会が終わってから急いでコウタくんのところへ駆けつけた。
「……最後なんて聞いてなかった」
濡れタオルを握りしめながらの恨めしそうな声。
最初のあいさつでちゃんと言っていたんだよ、なんて、実際に聞いていなかったコウタくんには通用しない。私はただただごめんねと繰り返してながら、コウタくんのお迎えが来るまで付き添っていた。
泣くほどだったコウタくんに申し訳ない気持ちはあったけど、こんなに慕っていてくれたとわかって私は嬉しかった。大勢の子供達を相手にするのは大変だったけど、このバイトをしてよかった。
今日のコウタくんのお迎えには、一時間延長してからお父さんがやって来た。
「元気でね」
「……」
玄関で最後の見送りをしようとするけど、コウタくんは口を尖らせて俯いて、最後のあいさつをしてくれない。
その腕には、いつも読んでいた医学の本。
「コウタくんは医者になるんだよね? 私も薬の勉強がんばるから、コウタくんも勉強がんばってね」
「……うん」
「ミツキちゃん、早く元気になるといいね」
「……うん」
「じゃあね」
「……うん……」
むすっとしたまま、コウタくんはお父さんのところへ行ってしまった。
これでお別れなのは残念だけど、どうしようもないね。
お父さんに荷物を預けながらずっと俯いていたコウタくんだったけど、なにかあれこれ話しかけられているうちに、急に顔を上げた。
「――本当に!?」
離れていてもその言葉だけはよく聞こえて。
コウタくんは急いで私のところへ戻ってきた。嬉しさいっぱいの顔で。
「イハラせんせー! あのね、あのね、……ミツキが退院できたんだって!」
「本当? よかったね」
「うん! これからずっと家で一緒にいられるんだって!」
今までに聞いたことがないぐらい元気な声。さっきまでの不機嫌さはどこにも残っていない。
「そっかあ。ミツキちゃん、元気になれたんだね」
どんな病気だったか知らないけど、退院できたならよかった。
「あなたがイハラ先生ですか?」
私はコウタくんを追ってきたお父さんに話しかけられた。
「コウタから話を聞いています。薬の勉強をされているとか。コウタは将来医者になって、イハラ先生が作った薬で病気の人を治してあげたいそうですよ」
「私まだ学生で、将来どうなるかは」
「ええ、わかっています。勉強がんばってください」
優しそうな笑顔だけど……社会人から言われると重いなあ。
「あの……失礼ですが、ミツキちゃんはどんな具合だったんですか?」
おそるおそる訊くと、お父さんは意外なぐらいににっこり笑った。
「ミツキは生まれたばかりのこの子の妹です。少し小さく生まれたんで、しばらく病院にいたんですよ。今日、ようやく我が家へ迎えることができました」
「……そうだったんですか。おめでとうございます」
ミツキちゃんは赤ちゃんだったんだ。そうだったんだ。
お父さんに頭をなでられながら、コウタくんはすごく嬉しそう。お父さんも嬉しそう。私もつられて嬉しくなる。
「おとうさん、早く帰ろ! 早くミツキに会いたい!」
コウタくんはお父さんの手をぐいぐい引っ張っている。すっかり元気になったね、よかった。
「イハラ先生、またね!」
大きく手を振りながら今度はあいさつをしてくれたコウタくんに、私は。
「またね、コウタくん」
最後に嘘をついた。