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夏に出会った小さな友達と「私」 (1)

 学童保育所のアルバイトは忙しかった。

 夏休みの間、子供達は学童で朝から夕方まで過ごす。長時間を子供達が楽しく安心して過ごせるように、メリハリのある一日のスケジュールや、夏休みならではのイベントが予定されていて、やることがいっぱいあった。

 仕事に慣れるひまもなくて、僕は主任指導員に指示されるまま動いていた。時々あたふたして、もう何年も学童に通っているお姉さんな子にびしっと怒られることもあった。


 それでも僕なりに目を配っているうちに、ある一年生の子が目につくようになった。

 コウタくんという一年生のその子は、いつもひとりで学習室で本を読んでいた。他の子と一緒に遊ぼうとしないし、みんなで集まってなにかするという時も来ない。朝から夕方までただ学童にいるだけ。そんな毎日を過ごしていた。

 静かすぎて、かえって僕はコウタくんが気になった。


 だからその日、いつもみたいにひとりでいるところへ声をかけてみた。

「何の本を読んでるの?」

 真剣な顔で本を読んでいたコウタくんは、側に立った僕を見上げると、だまって表紙を見せてくれた。

 そこにはリアルな人体図が大きく描かれていた。

 いつも熱心に読んでいたのは医学の本だったんだ。子供向けだけど、表紙も内容も図が本格的だ。


「それ、コウタくんが持ってきた本?」

「うん」

「コウタくんは体のことに興味があるの?」

「……先生、女の人なのに平気なんだ?」

「え?」

「みんなこれ見せると嫌がるよ。男子もだけど」

 そう言ってまた僕に表紙を見せる。


 慣れない人にはホラーみたいなものだし、嫌がる子の気持ちもわかるかな。僕も急に見せられるとさすがにびっくりするし。

「僕は別に平気だよ?」

「ふーん」

 コウタくんは気のない返事をすると、顔を本に戻した。

 ……えーと、これは僕とこれ以上話をする気はないってことかな? 読書の邪魔をしないで欲しいのかな?


「——イハラせんせーい! ワタナベ先生が呼んでるよー」

 もう少しねばって話しかけようか悩んでいると、お姉さんな子の声がした。

 ほっとしたような、このままコウタくんを置いていっちゃうのは悪いような。


「はーい、今行きます。……またね、コウタくん」

「うん」

 離れる前に声をかけると、顔は上げなかったけど返事はしてくれたから、僕はほっとした。




 僕がコウタくんを気にしていたら、あの子はひとりでも平気だから他の子をお願いと常勤の人から言われた。


 学童はおとな数人で何十人という子を預かっている。子供ひとりひとりを相手にするには手が足りないから、自主的に動ける子は本人の判断に任せるし、お姉さんな子にリーダーを頼むこともあった。

 そんな中、コウタくんはいつもひとりだけど、ちゃんと目の届く所でおとなしくすごしている。コウタくんよりもかまってあげないといけない子は他にいた。


 確かに優先順位が違うかもしれないけど、どうしても気になって、僕はまたコウタくんに声をかけに行った。

「またその本読んでるの?」

 コウタくんはちらりと僕の顔を見ると、顔を本に戻してうなずいた。

 僕が隣のイスの座るとまたこっちを見たけど、やっぱりなにも言わなかった。


「コウタくんはお昼寝しないの?」

 僕は横顔を見つめながら訊いてみる。

 今は昼寝の時間で、みんな寝ているから学童の中は静かだった。寝ない子もいるけど、その子達はちゃんと静かに遊んでいる。今のコウタくんみたいに。


「眠くないから」

「そっか」

「イハラ先生はお昼寝しないの?」

「ええ? 僕が寝るわけにはいかないし」

 そんなことを訊かれると思っていなくて思わず笑うと、コウタくんが僕の顔をじっと見上げてきた。


「先生、やっぱりボクって言ってる」


 ……あっ。

「ねえ。先生はどうしてボクって言ってるの?」

 不思議そうに訊かれてもすぐに答えられなかった。


 僕は女の子になってからもずっと「僕」って言っている。誰にも指摘されなかったし、いつか男に戻るから、服みたいに言葉遣いも変えるつもりはなかったんだけど。

「女の人なのにおかしいよ」

 ……そうだね。知らない人の前でおかしな言葉遣いはよくないね。しかも小さな子の前でなんて。見本にならなきゃいけない大人なのに。


「そうだね、おかしいよね。コウタくんがボクって言ってるから移っちゃったのかなー?」

「えええっ……ボクのせい? 変なの」

 ああ、このごまかし方もまずかったかも。コウタくんが口を尖らせてちゃった。


「ごめんね、冗談だから」

 必死に謝ったけど、コウタくんはムスッとしたまま本を閉じて立ち上がった。怒ってる。すごく怒ってるよ、どうしよう。


 机に医学の本を置きっぱなしで席を離れたから、そんなに怒らせちゃったとおろおろしていたら、コウタくんは学習室内の棚から本を一冊取り出すと戻ってきた。

「これ読んで」

 僕の前に置かれたのは変身ヒーロー物の絵本だった。

 これを僕がコウタくんに読み聞かせするの? ほとんどひらがなだし、漢字にもひらがなを振ってあるし、いつも読んでる医学の本よりずっと簡単な本なのに。


「早く」

 コウタくんが僕を急かす。

「ねえ、これ読んだら許して……」

「いいから読んで!」

 とにかく僕に読ませたいみたい。

 まだ怒ってはいるけど、違うとは言われなかったのはそういうことでいいのかな?


「じゃあ、読むね」

「うん」

 コウタくんがうなずいた。そういうことでいいみたい。

 へたな言い訳をしたことのお詫びの気持ちをこめながら、僕はつたない朗読をコウタくんに披露した。




 昼寝の時間が終わり、コウタくんとバイバイした後も僕は言葉遣いについて考えていた。

 ……ううん、僕じゃない。私、私、わたし……。


「……私」

「どうしたの、イハラさん」

「——あ、なんでもないですっ」

 呟いたところをちょうど近くにいた主任に聞かれたけど、慌てて否定すれば、子供達のことで頭がいっぱいの主任は僕の独り言に突っ込んでこなかった。


 うん。ちゃんとしないと。私……は今、女性だから。お姉さんらしくしないと。

 このバイト中は、子供達の前ではちゃんとした言葉を使わないと。

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