英人の後悔 (2)
「あら、通知よ」
テーブルに出しておいたスマホのロック画面に、メッセージが届いた知らせが表示された。
僕は内容に目を通すと、すぐに返事を送った。
そうしたら二階でいきおいよく扉が開いた。と思うと、バタバタと音を立てながら英人が下りてきた。
「大地、来てたの」
「うん。おばさんと話してた」
僕はびっくりした顔の英人に手を振る。今どこにいるのというメッセージに、リビングだよと返したスマホを握りながら。
広げただけで終わった参考書とノートを重ねていると、英人が僕のリュックに手を伸ばした。
「持っていくよ」
そう言って先にリビングを出て行く。
「大地くん。なにかあったら英人か私の方に言ってね。あの子の分までなんでもしてあげるから」
続こうとしたところへおばさんに声をかけられて、僕は頷いた。
「母さんとなに話してたの」
「おじさんのこと。今どうしてるのかなって」
階段を上がりながら訊かれて、ありのまま答えた。そうしたら、さっきみたいな電話をしていた英人がどんな反応をするか気になって。
「どうしてるもなにも……」
英人は言いかけて口ごもった。
階段の下からじゃ、どういう顔をしているのか見えない。
「……大地、ごめん。叔父さん、忙しすぎてぜんぜん薬の研究進んでないんだってさ」
ちょっと間を置いて振り向いた英人の顔には、イライラがにじんでいた。
おばさんの話を聞いて想像できていたから、薬の研究が進んでいないって聞いてもショックじゃなかった。
「仕事があるなら仕方ないよ。それに、英人が謝ることじゃないよ」
「そんなのん気なこと言ってたらいつまで経っても完成しないよ。……だからさ、僕、夏休みの間に叔父さんの様子を見てくるよ。研究室にインターンで行けることになったから」
おじさんの研究室でインターンってすごいことなんじゃない? さっきの電話でそういう話になったのかな?
「企業秘密とかあるんじゃないの?」
「だから、就業時間が終わった後だけ。それでも研究室まで入れないけど、ある程度は研究の様子を確認できるってさ」
「そっか。インターン頑張ってね」
「インターンじゃないよ。インターンって形で叔父さんを監視してくるんだよ」
……監視って。
あまりに強い言葉にびっくりして、僕は体が引きつった。
「忙しいから忙しいからって、なにが大事だと思ってるんだろうね」
英人の声がまた、電話をしていた時みたいにトゲトゲしいものになった。
「仕事じゃないの? 会社に勤めてるんだし」
「他人の人生を犠牲にして?」
「おじさん自身も被験者だから」
「叔父さんは自分の好きでやったことだし。被験者の人達もいいよ。その人達は結果が出なくて逆に残念だったかもしれないけどさ。――でも、大地は違うんだよ。無関係だったんだよ。なのに……」
言葉を途切れさせた英人が、喉の奥で声にならない声を漏らした。
「とにかく、叔父さんに早く薬を作らせるから。大地も大変だろうけどもう少し待ってて。必ず僕が戻すから」
「うん。でも、あまりおじさんに無理はさせないでよ」
「無理させるぐらいでいいんだよ」
僕がいくら言っても、英人のイライラは収まりそうにない。僕のリュックを持ち直した乱暴な仕草にも、英人の苛立ちが表れていた。
英人がおじさんを怒っているのはもう、僕の問題とは無関係みたいに見える。
昔から、僕がお菓子をもらったことがバレると僕にもおじさんにも怒ってたし、その積み重ねの結果が今だから、僕が戻れるまでは英人の怒りが収まらないのはしかたないのかな。
でもそれだと英人は、いつまでおじさんを怒り続けることになるのかな……。
英人の部屋に入ると、中央に置かれた折りたたみテーブルにノートが広げられていた。もしかして、僕がおばさんと話している間にとっくに電話は終わってた? 逆に僕が待たせていたのかも。
向かいに荷物を下ろしながら英人のノートを覗いて、化学式の間違いに気がついた。
「英人。この式間違ってるよ」
「え? どこが?」
「ここの所」
テーブルを回り込んで、ノートに屈み込んだ英人の肩に手を置いて同じように屈もうとしたら。
「——近っ……!」
「わっ……」
いきなり肩を回した英人に突き飛ばされた。
押されるなんて思ってなかったから、僕は足がもつれて床に倒れ込んだ。
「ごめん、大地!」
慌てた英人が僕の手を掴んだけど、すぐに離れていった。
起き上がるのに手伝ってくれない。前もこんなことがなかったっけと床に手をつきながら考えて、女の子になった時のことを思い出した。
……ああ、そっか。
「もしかして英人は、今の僕が気持ち悪いの?」
触りたくないのって、そういうことだよね。
「——!? なに言い出して……」
「だから早く僕を男に戻したいんだ?」
「……違……っ」
目を見開いた英人が慌てて迫ってきたけど、止まった位置に微妙な距離感を感じる。なんだ、そうだったんだね。
なんか不思議。楽しくもないのに笑いたくなってきたよ。
「今の僕、おかしいもんね。本当は男なのに、女の子のフリして女の子と一緒に買い物に行ったり、化粧してクレープ食べたり、女物の下着を着けたり」
「……っ」
英人が眉をひそめた。こんなこと聞かされたら、余計に気持ち悪くもなるよね。
起き上がってもぺたんと床に座り込んでいる僕。骨格が変わったから簡単にできるようになった座り方。英人が僕を男だと思おうとしても、今の僕はこんなにも女の子でしかないんだよ。
「今なら赤ちゃんも産めちゃうんだよ。気持ち悪くもなるよね」
高く細い、消え入りそうな少女のような……ううん、少女そのものの僕の声。
伝えたいことはちゃんと伝えなきゃとしゃべればしゃべるほど、自分の心細い声に今度は悲しくなってきた。
「永井さん達みたいに、いつか男に戻るってわかってても女の子として付き合ってくれる方が、きっと特別だよね。英人は昔から僕を知ってるし、今の僕なんて違和感しかない……」
「——違うよ、大地! 僕は大地を気持ち悪いだなんて思っていない!」
大声を上げて、英人が僕の両肩を掴んできた。
床に座り込んでいる僕に、ひざ立ちの英人。元々の体格差もあって、上から押しつぶされそう。
痛いよ、英人。
「大地は大地だよ。女性になったからどうだって思ってないよ。ただ、早く男に戻りたいだろうし、僕も戻したいし。だから」
「焦ったって薬はできないよ」
「わかってるよ。でも、早く戻したいんだよ、僕は」
英人がなにかを我慢するみたいに顔を歪めてる。唇を噛みしめて泣き出しそうにも見えた。
「僕も後悔してるんだよ。あの時、大地から離れなかったらって。叔父さんからの預かりものが入っているんだから、間違えて大地が飲む可能性は十分考えられたのに。僕がひと言言っておけばこんなことにならずに済んだんだから……これは僕の責任だよ」
そう言って英人は僕の手を掴むと、勢いよく引っ張って立ち上がらせてくれた。
小さくて細くなった僕の手を包んだ、太くて長い指がそろった大きな手。今はしっかり握られている。
気持ち悪くて触れてくれないのかと不安になっていたから、少し汗ばんだ大きな手の感触にほっとして、なんだか泣きたくなってきた。
「一日も早く、僕が大地を男に戻させるから。……だからもう少し、もう少しだけ待ってて、大地」
見下ろしてくる顔も、まだどこか泣き出しそうなままだった。
いつも、僕がなにをやらかしても、怒りながらもずっと一緒にいてくれた幼馴染み。
今だって誰よりも信頼している。薬を作り上げるおじさん本人よりも、英人の言葉の方が信じられる。
「夏休みの間にきっと薬を完成させて、大地に届けるから」
でもやっぱり、そんな短期間での完成は難しいんじゃないかな。
そう思うけど。
「……待ってる」
僕は素直にお願いした。
英人は大きくうなずく。
まだ触れたままだった手が、ぎゅっと強く握られた。