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英人の後悔 (1)

 英人が誰かと話している。

 電話をしているのは、ドアが閉まっていても階段を上る前からわかってた。それぐらい声が大きかったから。


 部屋の前まで行くと、一言一句はっきりと聞き取れるようになった。

「——叔父さん、本当に研究は進んでるの?」

 電話の相手は理一郎おじさんだった。


「真剣に考えてる? 大地の人生が狂いそうになっているんだよ?」

 すごい早口でまくしたてている。ここまで怒っている声は聞いたことないかもしれない。


「やってるやってるって口先ばっかり。本当にやってんの? だっていまだに目処が立たないんだよね?」

 そっか。薬ができるまではまだかかりそうなんだ。


「いくら僕が止めてもお菓子あげるのやめてくれなくってさ。それで成功だ、じゃないんだよ。勝手に巻き込んだっていう自覚あるの?」

 それは、僕が英人の言うことを聞かなかったのも原因だから。


「好きな子もできたみたいだし。このままじゃ大地がかわいそうだよ」

 ……英人。僕は今、好きな子もいないし、いろいろ悩んだり困ったりしていることもあるけど……かわいそうなんて思われるようなことはないよ……?


 いつ戻れるかわからないから服に困ってるとか、ぼーっとしてるといまだに男子トイレに入りそうになるとか、空いてる隣の席に人が来るとこの人は僕のことを知っているのかなって緊張するとか、いろいろ苦労していることもあるけど。


 でも、つらくはないよ。お父さんもお母さんも今の僕を受け入れてくれているし、わかった上で付き合ってくれる友達もできたし、心配してくれる英人もいるし。


「大地をあのままにしたら、僕が許さないよ!?」

 ……だから、おじさんにそんな言い方は……。


 英人の話はしばらく終わりそうにない。

 怒りのこもった声を聞いていられなくなって、僕は階段を降りた。


 リビングに行くと、英人のお母さんがノートパソコンから顔を上げた。


「どうしたの、大地くん。英人は部屋にいたでしょう?」

「電話してるみたいだから、終わった頃に行こうと思って」

「そうなの? 大地くんが来るのはわかってたんでしょうに、英人はなにやってるのかしら」


 おばさんは呆れて首を傾げている。

 まさかおじさんに怒鳴っていたなんて言えないから、僕は黙ることしかできない。


 おばさんの向かいに座り、リュックから参考書とノートを取り出す。今日は一緒に試験勉強をするために来たから。……という口実で、落ち着いて英人と話がしたいと思って。


 いつかは戻れるんだから、英人も無理言わないで、今は今の僕と向き合って欲しいぐらいは言うつもりで来たんだけど……さっきの電話の様子を聞いちゃうと、いくら言ってもわかってくれない気がする。実験や研究は時間がかかるものなのに、英人はそこを飛ばしたくて仕方ないみたい。

 三上さんのことも、言ったらもっと誤解するかなあ。


「待っている間、冷蔵庫から好きなの出して……」

 言いかけて、おばさんは不意に立ち上がった。

 そのまま台所に行くと、冷蔵庫から紙パックのジュースを持ってきてくれた。


「今はあの子からなにも預かっていないけどね、一応」

 また僕が変なものを飲んだらいけないから、わざわざ間違いないものを持ってきてくれたんだ。

 いよいよ夏だし、もしかしたら冷蔵庫に麺汁が入っていてもおかしくないしね。麦茶と間違って飲まない自信は……うん、ないや。


「ごめんね、大地くん。あなたをあの子の研究に巻き込んだりして。私が保管していたせいで」

 おばさんが僕に頭を下げた。


 ずっと研究一筋だった理一郎おじさんは、結婚しないままそろそろ四十代になる。そんな弟をあの子と呼ぶおばさんがおじさんを大事に思っているのがわかるから、微笑ましくて、兄弟のいない僕はうらやましくて、こんなことになってもおじさんを怒ったり嫌いになったりできない。


 理一郎おじさんはちょっと研究熱心すぎる、優しい人だから。あまり食べられないからこそお菓子を食べたがる僕のことをわかってくれていた人だったから。僕は今でも理一郎おじさんのことは大好きだ。


 だから、英人がおじさんのことを怒っているのはつらい。


「英人にも言われたけど、ラベルもないのを飲んだ僕がいけなかったから。でも、どこも具合は悪くないし、問題なく大学に行けてるし、英人もなにかとフォローしてくれているから大丈夫です。おじさんだって戻る薬の研究を進めてくれているんでしょ? おじさん自身も女性になっているんだし」

「あの子は戻る戻らないじゃなくて、ただただ研究がしたいだけって感じだけどね……」


「そういえば、おじさんって女性になりたくて薬を作ったわけじゃないんですよね?」

「そうね、偶然の産物だったんですって。完成した時は感動で体が震えたそうよ」

 僕は開いたままの参考書を前にして、おばさんの話を聞く。


「研究熱心なのは別にいいんだけどね。すごく忙しいみたいで、私もあの子が女性になってから一度しか会えてないのよ。メールを送ってもたまにしか返って来ないし、内容も短いし。あまり連絡取るのも悪い気がして」

 おばさんはうなだれながら心配そうな顔をしている。


「そんなに仕事が忙しいんですか?」

「仕事もあるけど、女性化したことへの取材も多いみたい。サイエンス誌でもウェブメディアでもあちこちにインタビューが載ってるから」

 おじさんがそんなに忙しくなっているなんて知らなかった。


 ……戻る薬を作る時間はあるのかなあ。戻る戻らないはおじさんにも関わることだけど、体は壊さないで欲しいな。


「その取材って、僕の方にもそのうち来たりするんですか?」

「それはないと思うわ。あの子がまとめているデータに大地くんのことは含まれてないから」

「含まれてないんですか?」

 希望者には結果が出ないで、変わったのはおじさんと僕だけだから、僕は貴重な成功例のはずなのに。


「大地くんは正式な被験者じゃなかったし、検査もしていないでしょう? だからデータには含まないというか含めないの」

 そっか。僕はいつも知り合いのおじさんにお菓子をもらっていただけって形だし、グレープジュースもどきを飲んだ時だって、おじさんのいないところで仕掛けに引っかかっただけだったから。周りはわかっていても、一例として紹介できるデータは確かに取られてないんだ。



「研究には巻き込んでしまったけど、大地くんが公の場に引っぱり出されるようなことにはならないはずよ。そこは安心して」

「はい。おじさんには機会があったら、僕は待てるから無理はしないでって伝えてもらえますか」

「あの子のことは大地くんが心配することないわよ。研究室のブログでも、今日も博士は元気ですって写真つきで助手の人に書かれているし、インタビューなんかも受け答えが以前よりもハイになってるからね。研究が成功したこともあって楽しくて仕方ないんでしょうね。……私は、今は大地くんの方が心配だわ」

「僕ですか?」


 どうしてここで僕が心配されるんだろう。


「大地くんを突然、年頃の女性にしてしまったからね。そのことであなたのご両親には申し訳なく思っているの」

「お母さん達は僕が生きているだけで十分だって」

「薬が最悪の作用を起こさなかったことについてはね。でも、一時的にしろ女性になっている間に、大地くんにもしもなにかあったらと思うと……。だから英人にも、気をつけてあげてと私から言っているのよ。言わなくてもあの子もそのつもりはあったでしょうけど」

 なんだ。だから英人は最近あんなに厳しいんだ。


「うん。英人はすごい心配症になってます。遅くなる前に帰るようにメッセージ送ってきたりもして」

「それは若い子なら常識ね」

 英人がオーバーだと笑い話にしようとしたのに、おばさんは真面目な顔で深く頷いた。


「ウチは英人がスクスク育ってくれたからあまり心配しないで済んだけど、それでも毎日、あの子が学校から帰ってくるとホッとするのよ。英人でも心配したくなるのに、大地くんが女の子になってしまったことで井原さんがどれだけ胸を痛めてるかと思うと、本当に申し訳なくて」


 ……おばさん。そんなに胸を痛めてもらって申し訳ないけど、本当にウチはぜんぜん深刻になってないんです……。

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