ジュースを飲んだら女の子になっちゃった
目を開けると、困り顔の英人が僕の顔を覗き込んでいた。
「大地、大丈夫? 体が痛いとか、呼吸が苦しいとか吐き気とかはない?」
「……大丈夫……」
答えた僕の声はかすれて、やけに高い。
どうして僕は床に倒れているんだろう。
ここは英人の家の台所で、僕は英人が自室から来るのを待ちながら、冷蔵庫から出したジュースを飲んでいたはず。
ちょっと横を見てみたら、さっき座っていたイスが倒れていた。覚えてないけど、けっこう豪快に気絶したのかな。
とりあえず起きようとして、違和感があった。
体に力が入らない。どこかふらふらして、自分の体が心細い。
英人は困り顔のまま、起きるのを手伝ってくれない。英人もどうしたんだろう。
「あのさ、本当に大丈夫?」
「なにが?」
ようやく起き上がって、床にヒザをついている英人と向かい合う。
うーん。まだ頭がくらくらするような。本当にどうしちゃったんだろう。
「自分で気がついていないの、大地」
「だから、なにが」
やっぱり僕の声が普段より高いような。
「大地の体、女の子になってるよね……?」
……女の子になってる? 僕が?
おそるおそるという感じで英人に言われて、僕は自分の体を見下ろした。
そこには普段と変わらない、小柄で薄っぺらい僕の体がある。
英人は冗談を言っているように見えないけど、試しに胸を触ってみても……わずかにやわらかくふくらんでる? 本当にわずかだけど。
次に股間を確かめてみようとして伸ばした指は細く見えた。
ズボンの上から触れた股間には、男のモノの感触がなかった。
これは現実?
「なにしてるの!」
倒れた衝撃で引っ込んだりしていないのかとさらに股間をまさぐっていたら、叫び声と同時に英人に腕をはがされた。と思ったら、掴まれた手はすぐに離れていった。
「本当に女の子の体になってるのかなと思って」
「……せめて、一人の時に確認してくれないかな」
「だって、この体だよ?」
僕が倒したイスを直してくれている英人と一緒に立ち上がりながら、僕は両手を広げてみせた。
「少しくらくらしたけど、違和感もないし、自分でも見た目じゃわからないよ。英人は見た目で僕が女の子になってるってわかったんだよね? よくわかったね」
「まあ、付き合いも長いしね」
やれやれと言った感じで、でも英人はさらりと言い切った。そういうものかな?
ダイニングテーブルを挟んで向かい合わせに座ると、英人が話を切り出した。
「現状を確認しようか。まず聞きたいんだけど、僕が大地から目を離していた数分の間に、大地は女の子になってしまっていた。大地がその間にしていたことと言えば……この液体を飲んでいた?」
英人は苦い顔をしている。僕はなんだか取り調べを受けているみたい。
テーブルの上には空のコップと、グレープジュースみたいな毒々しい色の液体が入ったペットボトルが置かれている。喉が乾いていたから、英人が自室に行っている間に僕が勝手に飲ませてもらったもの。
「飲んだよ。甘かった」
そういえば、甘くはあったけどグレープジュースの味はしなかったかも。
英人は額を押さえながらながーいため息を吐いた。
「これね、つい最近、理一郎叔父さんが置いていったものなんだよ」
なるほど。今僕が女の子になっているのは理一郎おじさんのせいだろうなとは思ったからそれはびっくりしなかったけど、その液体が原因だったんだ。
英人の叔父である理一郎おじさんは研究者で、年がら年中なにかの研究をしている。
僕たちが子どもの頃から可愛がってくれていて、たまに会うとお菓子やジュースをくれるけど、その中におじさんが作った薬が仕込まれていることもあった。そういうのはなんか変な味がすると思うと、一時的に声が変になったり、見える色がおかしくなったりして。
なんかよくわからない研究をしているだけのおじさんだと子供の頃は思っていたのに、まさか女体化の薬を作っちゃうなんて。すごい人らしいことは知っていたけど、本当にすごいんだなあ。
「ラベルもないし、実験で作ったものなのは想像がついていたけど、勝手に処分しちゃマズイだろうと思って保管してたんだけど……大地が勝手に飲んじゃうなんて。しかも、こんな効能があるなんて」
僕の方をちらりと見て、英人が難しい顔でこめかみを押さえている。だって、喉が渇いてたんだって。
「とにかく、叔父さんに連絡を取ってみよう」
英人がスマホで電話をかけ始めた。通話をスピーカーに切り替えて、僕にも会話が聞こえるようにしてくれる。
電話に出た研究室の人に取り次ぎを頼んだら、一分もしないでおじさんが出た。
『英人くんか! 電話を寄越したということは、なにかあったんだね?』
うわあ。スピーカーから聴こえてくる声がうっきうきだあ。
「……大地があの液体を飲んで、女の子になっちゃいましたけど」
『大地くんが女の子に? よし、実験は成功だ!』
ちょっと、喜ばないで。
「叔父さん! 成功だ、じゃないでしょう!?」
『いやあ、姉さんの家に仕込んでおいたら大地くんが飲んでくれるかと思ってな』
お見通しだった。
「同意なしで誰かを被験者にするなんて、いつか研究室がどんな責任を問われることになっても知らないよ」
『昔からの俺と君たちの仲じゃないか』
「大地は他人です」
英人の冷静な言葉が冷たい。単に親類じゃないっていう意味なのはわかるけど、胸が痛くなる。英人がめちゃくちゃ怒ってるから余計に突き放された感じがする。
「ところで叔父さん。ちょっと気になっているんだけど」
『おう、なんだ』
なに? 英人はなにが気になってるの?
「なんだか声が変じゃない? 受話器のせいじゃないよね?」
そういえばそうかも。そもそも、おじさんのテンションがやけに高く感じるのは、いつもより声が異様に高いからというのもある。……まさか。
「……もしかして、理一郎叔父さんも」
『おう。俺も女になってるぞ』
「――なんでおじさんまでなってるの!」
『おお、大地くんか。なかなか可愛い声をしているじゃないか』
思わず怒鳴ったら、スピーカーから楽しそうな声。
可愛いとか言われても嬉しくないんですけどっ。チビで痩せているせいで散々言われてきたその言葉、本当に嫌いなんだけど。
『作った薬の効果は自分の体でも確かめたいじゃないか』
「叔父さんが自分で飲んでるのなら、わざわざ人の体で試さなくてもよかったじゃないか」
『被験体が一つだけだと、本当に薬のせいかどうか判断がつけられないじゃないか』
「もしかして、今までも全部自分でも試していたの?」
『おう、大地くんと同じだけな。英人くんは早々にお菓子を受け取ってくれなくなったし、大地くんだけだ。俺の研究にずっと付き合ってくれていたのは』
僕の意思で付き合っていた覚えはないんだけど。
それにしても、僕っておじさんの作った薬を全部摂取してるんだ。大丈夫なのかな……?
『今回は俺で結果が出たのを確認してから協力を申し出てくれた被験者はいたんだが、誰も変化しなくてな』
女の子になっちゃう薬を飲みたがるってどんな人達??
『大地くんに結果が出て本当に嬉しいなあ』
浮かれているからか、おじさんは英人の疑問にホイホイ答えている。電話越しじゃ、英人が今どんな顔をしているか見えないもんね。正面にいる僕は正視できないぐらいに顔が強張っているんだけど。
英人って普段はあまり怒らないんだけど、怒る時って……僕がやらかした時ぐらい?
「母さんに言うから」
『——待ってくれ、英人くん! 姉さんには言わないでくれ!!』
英人の脅しにおじさんが必死な声になった。言わなくても僕の姿を見たらバレバレだと思うんだけどね。
理一郎おじさんは英人に必死に言い訳してるけど、僕にも謝って欲しいな……。英人をなだめないと、後でおじさんがおばさんに怒られた時に英人がフォローしなくなるからまずそっちなんだろうけど。理一郎おじさんはおばさんに弱いからなあ。おじさんが置いていったものをちゃんと保管しておくおばさんも十分甘いけど。
とにかく、理一郎おじさんは今、元に戻る薬も開発中だと言っていた。自分を実験台にしているから、いろいろ試しているとか。薬が完成する前に倒れないでね。
「元に戻る薬は作れそうなんだ。よかった」
通話が終わって、話をひと通り聞いていた僕はほっとした。
そうしたら、英人がぎろりと僕を睨みつけてきた。
え? 僕がなにかした?
「そもそも、大地がこれを飲まなかったら、そんなことにならなかったんだよ?」
英人が毒々しい色の液体が入ったペットボトルをツンツンつつきながら怒ってる。でも、僕は被害者だよね……?
「だって、おばさんが冷蔵庫の中のものは自由に食べていいわよって言ってくれているし」
「確かに母さんはそう言ってるよ。僕も別にかまわないと思ってるよ。相手は大地だしね。でもね、だからってラベルも貼っていない、明らかになにかを移し替えたようなような容器に入っている物を飲んじゃうなんて、警戒心が足りないんじゃない?」
「だって、冷蔵庫に入っていたから」
「冷蔵庫に入っていたら麺汁でもがぶ飲みしちゃうつもり? 大地は昔から注意力が足りないよ。それで車にも轢かれそうになったりして、僕が今までに何度肝を冷やしてきたか。だいたい、叔父さんから食べ物は受け取ったらダメだって言っても、僕の見えない所で何度も何度も受け取っていたんだよね? 人の話をぜんぜん聞いてくれなかったよね?」
怒りが収まらない英人に僕はその後小一時間、お説教を食らっていた。
心配されてるからだというのがわかるのと、ド正論しかなかったから、僕はひたすらうなずくことしかできなかった。
「すみません。僕が側にいなかったばっかりに」
英人は僕の両親に説明に行くと言い張って、僕が断っても無理やりについてきて、休日で家にいたお父さんとお母さんに頭を下げた。
「いいのよ。この子がよそ様の家で勝手をした結果でしょう? 英人くんはなにも悪くないわ」
そのとおりなんだけど……そのとおりなんだけどさ。お母さん、息子へのフォローはないの?
「大地が拾い食いなんてした時も、英人くんが一緒にいてくれたから大事に至らなかったんだ。私たちはずっと大地の友達でいてくれている英人くんに感謝しているんだよ」
お父さん、僕がそんな食い意地張っているみたいな言い方は……。確かに、お腹が痛くなって病院に運ばれた時、英人がすぐに救急車を呼んでくれたから症状が軽く済んでよかったって言われたけどね。
「でも」
「そうよ、夫の言うとおり。この子が無事にここまで生きてこれたのは英人くんのおかげでもあるのよ。そもそも、この子は生まれた時には体が弱くて……よくここまで育って……」
そう言いながら、お母さんは泣き出してしまった。昔から何度も聞かされてきた、僕は赤ん坊の頃は体が弱くて、その時期を乗り切ったら今度はフラフラと危なっかしくてハラハラし通しだったという思い出をとうとうと語りながら。
僕の子供の頃をあれこれ回想し尽くしたところで、だから健康で生きているだけで十分なんだと言って、お父さん達は女の子になった僕をあっさり受け入れてしまった。なんだかもう一生このまんまみたいな雰囲気になっていたから、戻れる予定だよと突っ込んでおいたけど。
そのまま英人を晩ご飯の席に招待して、これからも僕をよろしくとお父さん達は頭を下げていた。
なにかが違う気がしたけど、英人とは大学も学科も同じだし、この先も一緒に遊ぶだろうから、僕は黙ってご飯を食べていた。