喜びという自己嫌悪
妹が引きこもってからと言うもの、私たち家族の間には何とも形容しがたく深い溝が生まれた。それは妹と母の間に、妹と私の間に、そして私と母の間全てに当てはまる深い溝だった。いや、考えてみれば妹が引きこもるずっと以前から、その溝は私たち家族の間に深く存在していたのかもしれない。私には今までその溝を意識する必要も余裕も与えられてはいなかっただけなのだ。妹が引きこもって初めて、今までのことを思い返し、その溝を自覚したに過ぎない。
引きこもりになる二日前。日曜日特有の暇な時間を持て余していた妹は、私に奇妙なことを尋ねてきた。
「ねえ、人の感情っていうのは、本当に多彩なものだと思う?」
突然妹の口から飛び出した抽象論に、私は何を言われているのか分からず「は?」と首を傾げた。妹は真面目な顔で口の端の方だけ釣り上げて笑いながら、私の方を見ていた。
「私は違うと思う。人の感情なんてさ、きっと相手への憎悪と自分への嫌悪しかない」
妹は顔を背けて浅く息を吐いた。私はとりあえず妹の言うことを黙って聞くことにした。
「感情には、例えばどんなものがあるか。喜び、怒り、悲しみ、愛情、嫉妬。考えればまだまだ沢山あると思う。けど、結局それらは他人への憎悪と自分への嫌悪から生まれてくるものなんだ。どういうことかっていうと、ほら、尊敬の気持ちなんかは、相手が自分にできることができるという、自己嫌悪から来てるって考えられるし」
「それは」
「違う、と思う?」
尊敬できるだけの人に対して抱く感情が尊敬以外の何ものでもないと信じて疑わなかったし、実際そうであった私からすればその考えは否定して当然だった。しかし、逆に自分が出来ないことをやってのける人でなければ、尊敬なんて感情は生まれないのだろうか、と変に深読みして、私は何も言い返せなかった。
妹は言い淀んだ私を冷めた目で見て話を続けた。
「一見プラスのようにしか見えない他の感情だって、元をただせば全部一緒だよ。喜びを感じるのは、喜びを感じている時以外の自分が嫌いだから。愛情っていうのは、自分を愛せない奴が勝手に憎悪を他人に向けてプラスに変えようとする感情。もちろん、怒りなんて自己嫌悪以外の何ものでもないしね。要は自分を嫌いになる感情か、相手を嫌いになる感情しか人間にはないってこと」
一体こいつは何を言い出すのかと、右から左に抜けて行く妹の声の中で私は考えていた。学力的な意味での頭の良さは本来私の方がずっと上だったはずなのに、頭は妹の論理を理解するので精いっぱいだった。しかし、妹の言っていることは何だか違うような気がした。それが何故なのかは言葉にしがたいものがあったが、それでもただ漠然とした理由から、それが違うのではないかと言う考えが、私の中に確固として存在していた。
「いや、お前の言っていることは、極論だ」
だから素直に違うと答えた。だが妹はそれでは満足しなかった。違うと言うのなら具体例を示せ、そうでなければ違うとは言い切れないだろう、と主張し始めた。その場でうまい例が思い浮かばなかった私は、結局妹の持論を覆すことができなかったのだが、その様子に妹はどこか満足だとでもいうようにフフッと笑いを漏らしていた。しかし、笑みを収めた直後の妹は、人形のように空虚な瞳を床に落としていた。
あのときから、私と妹の間に決定的な溝があることを知った。そしてそれを自覚して妹の話に私が生きて来た時間を照らし合わせると、そのほとんどが妹に対する嫉妬で埋め尽くされていることを理解してしまった。今まで円満だとしか思わず、素晴らしい功績だけを信じて過ごしてきた二十二年間が、溝を自覚してから酷く虚しいものに思えてきた。どんなに頑張っても、私が心から欲しいものは何も手に入らない。
母が教員、父が会社員だったため、私の家は全員帰宅時間がとても遅かった。幼年期は保育園で他の園児たちが早々に帰って行くのを羨ましく見ていたのをよく覚えている。ただ、この頃は父親が何とか早めに仕事を切り上げられることもできたし、母親も私が小さいのを言い分に職場から一時的に抜け出して、迎えに来てくれることもあった。父が出張だったり、母が早めに迎えに来られなかったりするのがあらかじめ分かっている場合は、保育園を休んで、近くにいる母方の祖母の家に預けられたりもしていたらしい。しかし、そのときのことは私本人が幼かったのであまり詳しく覚えていない。祖母は私が保育園の年長組だったときに他界したとのことだ。とにかくいろいろと世話をしてくれたのだという話は聞かされているが、私の中の祖母に関する記憶は遺影に見られる面影くらいなものである。
小学校に上がると同時に、私は合鍵を持つことを許された。最初のうちは家にいられる時間が長くなることに喜んだが、親の帰りを遅くまで待つという立場は変わらなかったので徐々にその喜びも薄れて行った。それどころか、そろそろ家事もできる年齢だろうと言われ、私の面倒をみる必要がなくなった母の帰宅時間はより遅くなった。
必要と命令に迫られて、帰ってきてからは洗濯と食事と宿題に追われる日々を過ごした。家事の内容は、休みの間に母が教えてくれた。ご飯の炊き方も覚えたし、洗濯機の回し方も学んだ。休日は、母も父も時間があれば一緒にいてくれたように思う。そのおかげでいろいろなことを学ぶことが出来たし、心にゆとりも持てた。
母に教わって最初に作った料理は目玉焼きだった。黄身を半熟にするか否かで焼き方が違うのだとのことだった。私は半熟の方が好きだったのだが、黄身がしっかり固まっているものより難しいのだと言われた。母はまず完熟の目玉焼きを作り、それから半熟のものを作った。両方食べてみたがやはり半熟の方がおいしいと感じた。興味があったので作り方を教えてもらい、翌日の夕食は目玉焼きにした。始めて作ってのだが、黄身の半熟具合が他の食材では再現できないようなとろみを持っていて、なかなかおいしく出来た、と思った。半熟目玉焼きに味の素と醤油をかけてみると、よりご飯が進んだ。それからは料理に興味を持って、夕食に何を作るのかを考えるのがささやかな楽しみになった。レパートリーは、最初のうちは目玉焼きだけだったが、休日のたびに母にねだって作り方を教えてもらい、一年生が終わるまでにカレーやスパゲッティなど主要十品くらいは作れるようになった。
小学校二年生に上がった時に、母のお腹に新たな命が宿った。私はもうその頃にはすっかり家事が板についていた。子供が生まれると聞いた時も、家族が増えるという喜びを純粋に噛みしめた。母は産休を取って入院し、家には父と私だけになった。そのためなのか、父は母が入院している間は出来る限り早く帰ってきてくれた。いつもは早いと言ってもせいぜい八時が限度だった父が、夜七時に家にいるのがとても新鮮だった。数ヵ月後、真夜中に病院から、子供が生まれたという電話がかかってきて、それを父が受けた。女の子だった。私も父も、おそらく電話の向こう側にいる母も、皆妹の誕生を心から喜んだ。大変な時期ではあったが、思い返せばこの頃が私の中で一番幸せな時期だった。
妹が生まれた直後、母は私が生まれたときには取ることができなかった育児休暇に入った。高校時代に勉強して後から知った話だが、これは子供が生まれて一年以内ならば、職場は有給扱いになることでお金をもらいながら育児に専念できるという法律だった。何でも運良く妹が生まれる直前に法改正が行われた、とのことだ。おかげで母は一年近く家にいた。一年も家にいたのだから、また以前のように休みを私と一緒に過ごしてくれるものかとばかり思っていた。しかし母がその間ずっと相手にしていたのは、私ではなく妹だった。ただいま、と家に帰ってくると、妹を抱いた母がいつも、お帰り、と迎えた。何かにつけて妹がかわいいという話をして、頭の中にはまるで妹しかいないような話し方ばかりをした。そして何であいつだけ、と文句を言うと、妹は小さいから仕方ないでしょ、といつも返されるのだった。私は、いつもそればっかりだ、と言って、よく母を困らせていた。
私が中学になった頃に、今まで無理を言えば何とか休みが取れていた父親の仕事が激化した。IT絡みの話だったような気がするが、あまりに専門的な話だったので詳しいことはよく覚えていない。父は夜中十二時まで会社にいることが頻繁になった。そのせいで夜九時に帰って来た母は仕事の愚痴を聞いてくれる相手がいなくなり、少しの間不機嫌になった。しかし私がネットに現を抜かしている間に、いつしかその愚痴の受け皿を私に変更したらしく、気がつくとこの頃の母はいつも仕事の愚痴ばかりを言っていた。
それから妹の出来の悪さを嘆くこともあった。母も父も勉強で躓いたことなどなかったとのことだったのに、なぜか妹は頭が悪かった。保育園では年長組になった辺りでひらがなやカタカナの読み書きを教えるのだが、妹は周りの子たちがそれを全部覚えた頃に半分をこなすのがやっとだったとのことだ。母はそのことを連絡帳で知って、妹の心配をしてはあの子は大丈夫なんだろうかと私に漏らしていた。私は、それからは完全に、母の文句の引き受け手となっていた。
頭の中が学校の生徒と妹の出来の悪さでいっぱいの母だったが、それでも私を褒めてくれる時はあった。学校でいいことをした時だ。二児の母になっても、やはり母は教員としての本能を失ってはいなかった。私はテストでいい点数を取る度に母に見せた。何かで表彰されて賞状をとったら、母に見せた。通知表も評価された絵も、作文も、工作も、全部全部母に見せた。ありがたいことに、母は私の功績を見るのに飽きず、その都度よく頑張ったと褒めてくれた。幼い頃から、そうやっていいことを並べ立てて、母が妹のことを忘れて私だけを見てくれているような気分に浸った。私は中学に入って以来は猛烈に勉強した。勉強していい成績を残すことでしか母を振り向かせる方法はないと思っていた。中学時代も高校時代も、部活を適当な文化部にしてとにかく勉強ばかりしていた。成績はウナギ登り、自分が頑張っているという実感も得られたし、母も喜んだ。特に喜んでくれたのは、高校入試と大学入試の時だ。どちらも難関に属するレベルの学校に受かった。家事をしなくてはならないから家から近い場所でと言う条件付きだったが、もともと家が都内だから探せば自転車で通える距離にレベルの高い学校はいくらでもあった。塾の先生も友達も、皆、私を優秀だと言った。もちろん、母もだ。お前は本当に親を楽しませてくれる子だと言ってくれた。私は嬉しかった、とにかく心の底から母が喜んで私を褒めてくれているのだと思っていた。しかし、そうした絶え間ない称賛の最後に、いつも決まって母が言う言葉に、私は愕然とせざるを得なかった。
「本当に、お前はあたしの自慢の子だよ。それに引き換え、全く、妹やうちの学校の連中と来たら……」
私たちの間には埋めようのない溝があった。それを自覚したのは妹が引きこもる前に言ったあの抽象論からだったが、私はずっと以前から、それに気づかない振りをしてきただけなのかも知れない。人間の感情なんて他人と自分への憎悪しかない。私を今まで動かしてきたのは、妹への嫉妬、即ち憎悪だけだった。口では絶対評価だと言いながら、母はどんなに頑張っても妹のことを忘れてなどくれなかった。それ、本当に褒めてくれてるの? と何度問い返したくなったか分からない。私がいい評価を貰った程度で、母の妹や学校の生徒に対する嫌悪は消えなかった。私は根絶することができない母の嫌悪に対してさらに憎しみを燃やし、妹に嫉妬して勉強をし続けた。自分でもこんなのは異常だと薄々気づいていた。しかし、何をやっても取り除くことのできないこの痛みを少しでも癒すためには、いい成績を取り続けて母に上辺だけでもいいから褒めてもらうしか方法がなかった。
妹は年齢を重ねると事あるごとに母とも私とも常に衝突するようになった。最初は、今まで面倒を見て来た私が大学になって突然時間がなくなり、妹の夕食を用意できなくなったことが批難の対象になった。今まで私に頼り切って料理の一つも満足に覚えられなかった妹は、毎日たまごかけごはんを食べて暮らしていたという。たまに早く帰宅した時に、さすがに毎日たまごかけごはんだと飽きる、と文句を言われた。本当のことを言うと、大学も家から近いからフルコマであっても早く帰宅することなど造作もなかったのだが、この時になってなぜか自分の時間を割いて妹に食事を与えることが嫌になり、サークルの飲み会に積極的に出席しては、「ごめん、忙しいんだ」と嘘をついて妹を宥めた。後に妹がこれを母に申告したために私の嘘は見破られてしまったが、今までやり続けてきた家事を放棄したのは、これが最初で最後だった。
妹の頭の悪さは学年が上がるごとに拍車がかかっていった。小学校の高学年になると、先に学校での功績を挙げた私に憎んで、お前がいるから、私はダメになったんだ、私が勉強嫌いなのは全部お前のせいだ、と自分のことを棚に上げて文句を言うようになった。その度に私が、違う、お前が自分なりに頑張れば、母さんが認めてくれると慰めてやっても、妹は聞かなかった。そうしてどんどんやる気をなくしていき、毎日のように宿題をさぼっては夜遅く帰ってきた母に怒られた。当然、母のストレスもたまる一方で、私に吐かれる愚痴はいつにも増して多くなった。
私はもうどうすればいいのかわからなくなっていた。一時的な家事の放棄で母に目をつけられてから、大学での勉強も家事も全力で行ったが、最早妹に何を言われても怒る気力もなくなっていたし、教育学を勉強するうちに思春期の子供は非難されることで構って貰いたがるのだと教わったので、最低限食事だけ与えていればもういいか、という気になって来た。私は思考を停止して、自分を幸せ者だと思い込むことにした。学業も生活も一切不自由がない。両親が共働きをしているおかげで、汗水垂らしてバイトして金を稼ぐ必要もない。不況の時代だが、自分の将来は教員のみ。迷う要素も困る要素も何一つない。これ以上の幸福がどこにあるというのだろう――そう思い込むことにして、それからは日常的な家事と勉強を淡々とこなした。そうして過ごしていると、妹と母に至っては、私のことなどもう空気のような扱いをした。何をやっても楽しくなかった。金はあるし、食うものにも困っていない、私は満たされているんだという思い込みは、空回りして徐々に虚しくなった。
妹の論理に照らし合わせれば、あれは紛れもなく、憎悪に端を発した無気力だった。あとあと、妹の論理を知って、私がさらに嫌悪に落ち込むのは、そうした感情が全て妹への憎悪から始まっていると分かったためだった。自分の感情の所在をどうやって見つければいいのか、私はさらに混乱した。考えれば考えるほどわけがわからなくなって、本当に自分の感情の全てが憎悪でできていると思い込みかけた。状況を打開するには妹の言う論理を崩壊させなくてはならなかった。でなければ、次は私が壊れてしまうような気がした。しかし、家族の溝を自覚してから何度過去を振り返ってみても、妹が生まれてからの私は嫉妬という感情に苛まれて生きる亡霊でしかなかった。妹が引きこもりを宣言した時、私の中に生まれたのは憐れみではなく、また母に構って貰いたがって、私の欲しいものを独り占めする気なんだろう、という憎悪から始まった懐疑だった。私はまたそれを認めるのが嫌で、家事だけに集中して、よく出来た料理の鍋にひたすら蓋をし続けた。