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サイコロステーキという愚痴

 妹が部屋に戻ってから、私は例によって面白そうなサイトを探し回って過ごした。いくらか関心を掻き立てるものはあったが、その中でも特に巨大掲示板の存在が目にとまった。昔インターネットに熱を入れていた時期に、こうしたものを見かける機会がなかったためだ。

何でも、この掲示板というのは、議論したい内容ごとにカテゴライズされた「板」という階層に、自分の議論したい内容を題名にして「スレッド」というものを立て、集まって来た人たちと適当に書き込みをし合う、という仕組みらしい。ただし、大半の者は書き込みを匿名でするし、匿名である以上情報の特定のしようがないから荒らしや誹謗・中傷を行なう者も後を絶たたない。また、情報の出所が分からないので書き込みには信憑性などほとんどなく、皆冗談半分に書き込みを見て、喜んだり、貶したり、褒めたり、励ましたりしているようだった。

数年間パソコンを勉強の道具にしか使っていなかった私にとって、掲示板の発見は本気で話し合わないという点で何となく新しさを感じた。傍から見ればどうでもいいとしか思えない日常的な会話も、品のない会話も、貶されることはあったがなぜかそこでは受け入れられていた。ブックマークでもしておこうかと思ったが、あとで履歴を漁れば同じページが見られるだろうと考えて止めておいた。それからほどなくして、別のページを見始めた。

そうしていくらか興味をそそるサイトを回り続けていると、時間はあっという間に過ぎた。膨大に広がるネットの世界での情報収集は、いくら時間があっても飽きることはなかった。だがふと時計を見て午後六時になっていたのに私は恐ろしくなってパソコンの電源を切った。考えてみればまだ洗濯物を取り込んですらいなかった。

液晶画面から目を離した後の私の行動は自分で言うのも何だが実に迅速だった。洗濯物をさっさと取り込み、それを畳んで洋服棚に仕舞い終わるまで三十分。無洗米を炊飯器の窯の中に放り込み、味噌汁とサラダ、冷凍庫に眠っていたサイコロステーキを全て作り終えるまで四十五分。風呂を沸かすべく、浴槽を磨くこと約五分。すなわち午後七時半までにはやるべきことを全てやり終えたのだった。昔は夕食を作るだけでも一時間以上かかっていたものだが、慣れると手際もよくなるものだと改めて感心した。

妹の部屋の扉をノックして夕食を食べさせ、私も暫くしてから食卓についた。妹は部屋から出てくるときは朝と同じく睡眠を妨害されたかのように不機嫌だが、いざ食事を始めると恐ろしく静かだった。食事をとるのが嫌なのではなく、部屋に入られるのが嫌なようであった。

卓を囲む形は取っているものの、私たちの間に会話はほとんどなかった。音を埋めるために着けられたテレビが滔々と映像を映し出している他には、食器のすれ合う音しか聞こえない。だからといって私たちの間に何か特別なことがあったというわけではない。ただ、お互いに話す内容などないだけなのだ。引きこもり始めた頃こそ、これを息苦しいと感じたものの、もう今となっては喋らない方が自然だった。

食事が終わると妹はまた自室に引き上げて行った。私は食べ終わった食器を流し台に持って行ってすぐに水洗いを始めた。時刻はそろそろ午後八時になる。母が帰ってくるまで、あと一時間ほどだ。食器を洗い終えたら、先に入浴をすませて母の寝室の布団を敷いておこう。どうせ、明日も練習試合か何かで早目に家を出て行ってしまうのだから、早めに寝られる準備をしておいた方がいい。

サイコロステーキの油を水ですすぎながら、すると次は風呂だな、と考えていると、聞き慣れた車のエンジン音が耳に飛び込んできた。バッグ駐車をする際に車体から出る、空気を微妙に放出する音。母だ。私は直感して食器を洗う手を一瞬止めてしまった。いつもより早い帰宅、残業がなかったのだろうか。

蛇口から水が落ちる音の向こう側で、鍵を回してドアロックを外す音がはっきり聞こえる。三秒後、母は鍵を鞄に仕舞ってドアを開ける。玄関で靴を脱いで、スリッパに履き替える。それから、一秒、二秒。

「何やってんだよ!」

 怒号が耳を劈いた。思わず、ひっと肩を強張らせる。家に帰ってきて、僅か十秒、母は妹の部屋の前で、自堕落な生活風景を見て絶叫する。何も今日一日だけではない。妹が引きこもりになってから、これは毎日続いている。沈黙を絶叫で破られた妹は逆上して母に食らいかかる。母の怒りには理由があるが、妹の怒りに理由はない。二人はそのまま目的もない怒鳴り合いに突入する。どちらかが疲れるまで金切り声は上がり続ける。わけのわからない争いに、私はひたすら無力で聞こえないふりをしなくてはならない。

 数分に及ぶ死闘を終え、母がリビングにやってきたのは、食事の片付けももう終わろうという頃だった。私は母をとりあえず「お帰り」といって迎えることにした。母は憔悴し切った様子で「ただいま」と返事した。

「食事なら、電子レンジの中に、サイコロステーキとご飯とみそ汁と……その他いろいろある」

 母は、うん、と頷く。声に幾分力がこもったところからすると、少し元気が出たのかもしれない。だが私の話を聞いていなかったのか、目の前にあった電子レンジを開けずに食卓に腰掛けてしまった。仕方がないので、私は電子レンジの中からラップがかかった食事を取り出して、椅子に座ったままの母に差し出した。ついでに箸も添えておく。散々怒鳴って咽喉も枯れただろうと、水も用意した。

 母は最後に用意された水をまず一気に飲み干した。ふう、とため息をついて料理に手を付け始める。ご飯を一口含んで、音を立てながら味噌汁を啜る。それからまた一呼吸おいて、サイコロステーキを一つ摘む。食べる、飲み込む、水を飲む。ご飯をあっと言う間に食べ終える。

「ああ、そうそう。聞いてよ、今日浅田がね」

 母は唐突に喋り始めた。浅田、とは母のクラスの生徒である。このところ、頻繁に母の話に名前が上っていた人物だ。

「また給食費払わなかったんだよ。これで滞納三ヶ月目だわ。まあ予想してたっちゃ、してたんだけど。でもひどくない? 連絡も謝罪もしないんだよ? 払えないなら払えないってちゃんと村上んちみたいに連絡しろっつうの。あの馬鹿親が」

 子供を第一に考えた金の使い方が出来ないなら子供なんか作るな、これだから最近の若い親は! 母はまた学校であった嫌な事を思い出したようで怒りをあらわにしていた。食卓に堂々と頬杖をつきながら、まだ残っているサイコロステーキを箸でつまんでどんどん口に入れる。

私は、また始まったか、と心の中でひとりごちた。

母の話によく出てくるこの浅田という人物は、過去に怒り狂って教室のガラスを蹴り飛ばして割ったことがあるほど気持ちに余裕がもてないらしい。教師が少し注意すればたちまち頭に血が昇って、周囲の制止も聞かず大声を出すわ、奇声をあげるわ、とにかく手がかかるのだそうだ。また、本人もさることながらその家庭内も最悪とのことで、母親は高校時代に知り合った先輩と恋仲になり、十七才の時に妊娠。一時は一緒にいて、妊娠を機に結婚しようとまで言われていたそうだが、父親が高校を卒業してから連絡が取れなくなり、事実上見捨てられた。どうすればいいのか分からず親に泣きつくしかなかった浅田の母親はそれでも子供を堕胎させることを拒みそのまま出産。男の子が生まれた。その後は高校を中退してバイトやパートで食いつないでいたらしいが、たまたま入ったパチンコ屋で一度大儲けしてはまり込んだせいでそれもすぐに続かなくなり、より多くの金を求めるために女であることを売りに夜の街へと繰り出していった。この間、浅田の面倒はほとんど親戚に任せていたとのことで、職員室では専ら、親戚内で浅田の母親の処遇を巡るトラブルから浅田に厳しいしつけがあり、それがあのような性格を形成したのではないか、とあらぬ噂が飛び交っているらしい。浅田の母親のギャンブル癖は未だ抜け切れていないらしく、体で金を得ては子供の養育費そっちのけでパチンコ玉に変えている、とのことだ。そのため浅田は細く小さいし、人一倍食い意地が張っている、と常々聞かされている。

「もう、本当に嫌になるよね。嫌になると言えば、今日また三組でとんでもないことが起きてさあ」

「とんでもないこと」

 母は自慢げに、そうそう聞いて、と言って私の相槌に笑った。

「理科の実験で、永井がアルコールランプとマッチもって脅してきやがった」

 この死に損ないが、ってものすごい気迫で。母は続ける。

「その割に要求してくることが、実験の報告書なんか宿題にするんじゃねえっていうあたりがガキだよね。調子に乗ってたからすぐに若い男の先生呼んで対応してもらったよ。ホント、この職場、年食った女だと子供に舐められるのが困るわ」

 今更管理職を目指すってのも、もう遅いし、とサイコロステーキを食べ終えて母はため息をついた。

学校では少し気を抜くと、子供が悪さばかりして手に負えないらしい。特に理科の教師なんかしていると、実験用具を玩具や脅しの道具に使いかねないため、子供から目が離せないそうだ。例え、理科室に大して人体に影響を及ぼすような薬品を置いていなかったとしても、そこに珍しいものがあると言うだけで理科準備室に忍び込む子供もいるし、ビーカーやフラスコ等のガラス製品を壊してしまうなんて日常茶飯事だそうだ。もちろん、公立中学であるため壊したものは処理から再購入までが全て学校負担である。何か問題があればすぐに理科専科のせいにされる。母の苦労はいつになっても絶えない。

「全く、本当に定年まであと三年を切って、いい加減この仕事にも飽きて来たよ」

 退職金もらうまでは頑張ろうと思うけど。今辞めたら辞めたでお金は出るだろうけどそれじゃあもったいないし。

「そういえば、今日は帰り早かったね」

 私はまるで明らかに母の話を聞いていなかったと言わんばかりに全く別の話題を提示した。

「ん? ああ。今日は午後から来月の研究授業の話し合いのために出張だったんだ。出張が終わったのが五時くらいだったから、そのまま帰って来たんだよ」

 それに今は夏休みだし。おかげであのクラスの連中の顔を見なくていいから本当に気がラク! そうそう、この前、掃除用具でチャンバラしている奴らがいてね。大声あげて止めに入ったら、危うく腹のあたりを万年箒の持ち手で刺されかけてね……

 母のお喋りはその後もしばらく続いた。内容は主に担当している学年の、悪い子供とその親の悪口だった。主に、というよりそれしか話さない。話が一段落したところで、私が全く別の話題を提示するとそこからさらに様々な事を思い出して子供を貶した。

 貧乏で風呂にも入れないため、頭に虱をつけたまま登校してきた生徒、宿題の提出率は担任になったクラスの中で過去最低だということ、教育熱心すぎて子供の成績の低下を学校のせいにする親、万引きが発覚して警察に捕まり、その付き添いをしなくてはならなかったこと。

 最後は今クラスにいる引きこもりの人数の話だった。学年全体では中学一年の段階で二人ほど登校拒否になり、中学二年になってさらに三人、計五人が現在不登校であるとのことだ。

「まあ、不登校は暴れて授業ブチ壊す奴よりまだ楽だね。不登校なんて、親が甘やかしてるか、本人のやる気がないのかどっちかなんだ。いずれにしても、担任が直接迎えにでも行って、学校に引っ張ってくればいいだけなんさ。浅田とか永井みたいなのが一番手に負えない」

 ようやく腹の虫がおさまったのか、母は食器を持って食卓から立ちあがった。話している間ずっと私がうろついていたキッチンの方にやってきて、食器を流し台におく。

「いろいろあるけど、あと三年の辛抱だしね。もう大きな金が出ることもないだろうし、これからは家の中でのんびり」

「ねえ」

 私はようやく終わりそうだった母の話を自ら続けさせようと声をかけた。どうしても、今の話では納得できないところがあった。

「じゃあ、あいつは?」

 あいつ、というのはもちろん妹のことだ。

「あいつのことは、どう思う?」

尋ねた直後に母もそれを悟ったらしく、こちらをしっかり見ていた目が一瞬泳いだ。母は不登校の話になったのに、明らかに妹の話を避けているように思えた。

「……そんなの、本人のやる気がない方に決まってるでしょ」

「本当に?」

「あたしが甘やかしてるように見えるの?」

 声に怒気がこもる。もしかしたら地雷を踏んでしまったのかもしれない。

「いや、そうじゃなくって」

「何?」

 母の怒りに、私は何とか弁解しようとしたが、自分の考えがうまくまとまらず、またこの訳の分からない感情をぶちまけることもできず、ただ押し黙ってしまった。母はますます憮然として、眉を顰めた。私がそのまま緊張していると、もういいよ、風呂に入るよ、と言ってリビングを出て行った。

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