ビーフシチューという贅沢
毎日同じことの繰り返しでは飽きるだろうと思ってわざわざ部屋にまで侵入してみたが、これも駄目だったか。私はリビングに戻って、一人分の食器を棚から出した。ルーを入れ過ぎて水気のなくなったビーフシチューが、コンロの上で温められてぐつぐつと音を立てている。近づいて鍋蓋を持ち上げると、黒と赤の中間色の表面が、見事な艶を宿して鍋底から吹き出てくる泡を包み込んでいた。フランスパンが欲しいな、と思ったが、用意するのが面倒だったので食卓の上にあったバターロールで我慢する。シチューを底の深い陶製の器に盛り付けて、パンでそれを掬いとって食べる。昨日食べたものから一段と熟成したシチューのコクと、フカフカのパンの舌触りが何とも言えない。
昼食を一人で食べるのは今日で何日目だっただろうか。最初のうちこそカレンダーを見ながら指を折っていたものの、途中からどうでもよくなって数えるのを止めた。今、私の目の前には旨いビーフシチューがあり、旨いロールパンがあって、食事には一向に困っていない。大学での友人関係も、学業の方も特に問題と言う問題はなく、四年になって危惧すべきとされている就職活動の方も、教育学部だから教員一本道。いろいろと大変だった教育実習もつい二週間ほど前に終了し、単位も足りているから、あとは卒論を書けば無事に卒業できる。最近は、その情報収集に忙しいと言えば忙しいが、テーマがかなりメジャーなものであるため、逼迫しているわけではない。それにこの不況の時代で既に行くべき場所が決まっており、自分が社会の歯車になれるというのは、ある意味喜ばしいことだ。
どう見たって私は幸せだ。幸せなはずなのだ。
食事は正味三分程度で終わった。食べた量は少なかったが、食欲が落ち気味の夏には寧ろそのくらいがちょうどよかった。普段あまり運動をしないから、尚更食事の摂取カロリーはあまり多くない方が宜しい。最近は大学の授業もめっきり減ってしまい、自宅と学校の往復どころか家の中と庭の往復だけの日も少なくない。無駄に食べると太るから止めろ、と母にも言われている。
食べ終わった食器を流し台に持って行って、洗剤をたっぷりつけたスポンジで洗う。液体石鹸が海綿状のスポンジに絡み合って滑らかな泡を吹き出し、汚れは陶器をこすると何の抵抗もなくするりと落ちた。食器を洗い終わったら、次は掃除だろうか、と考えたが、この家は妹の部屋を除き、散らかったり汚れたりする場所がほとんどないのだった。就寝前に面倒だと母が脱いで放置する服を洗濯すればそれで終わりだし、洗濯は朝起きてすぐに片付けたから問題ない。あれだけ汚れている妹の部屋は、侵入すると逆切れされるから、まともに掃除もできない。
どうやら今日は夕食までもうやることはなさそうだった。泡まみれの食器をきれいに洗い流しながら、私は久々に、〝面白そうな〟サイトの巡回でもしてみるか、と思った。
私は昔の経験から一種のインターネット恐怖症に陥っていた。というのも、中学時代に絵や漫画や小説を展示しているサイトを見つけて嵌り込んでしまい、まともに思考できなくなってしまったのだ。勉強が疎かになった、というわけではなく、何をやるにしても「さて、これが終わったらあのサイトであれを見よう」と考えるようになってしまった。その時にインターネットの世界には、フラッシュと言うものがあり、動画、画像、文字情報等、大方のものが無料で見られることを知ったのであったが、情報の世界に浸れば浸るほど、自分が現実に対しての執着をなくしていくのが手に取るように分かった。ある日、リビングにあるパソコンを使って遊んでいたところを母に目撃されて激怒されたために、私のネット生活は幕を下ろしたのだったが、その後は現実感の色あせた世界にまた嵌り込むことに恐怖を感じるようになってしまい、学校の勉強のためかどうしてもパソコンでないと見られない情報を得るため以外はネットに接続しないようにしていた。ネットと一切縁を切ることも考えたが、やはり情報を得るにあたっては本よりネットの方がより早く量が多い。それゆえ、知識を得る目的以外では使わない、という縛りを付けたのだった。
どうして今更それを破ろうと思ったのかは私自身にも判然としなかったが、久しぶりに浮かんだこの考えには強く惹かれた。どうせ今は家事以外に何もすることがないのだから、やることをしっかりやっていれば多少遊んでいても母に叱られることはあるまい。私はレポートの作成と卒論の情報収集のためにしか使っていなかったノートパソコンを持ちだしてきて、インターネットエクスプローラーを起動させた。
さて、なにから見ようか。
「ねえ」
パソコンの画面を眺めて呆然としていたら、後ろから不意に声がした。何事かと思って振り返ると、開け放したドアから入って来たらしい妹が、まだ眠そうな目をしたままコンロの前に突っ立っていた。
「ご飯」
手を差し出すわけでもなく、食器を準備するでもなく、私の向かい側の席に腰掛けながら、食事を要求した。
「お前、さっきいらないって言ったじゃん」
「うっさい」
「鍋に、シチューあるから。自分で用意して」
「やだ」
「せめて、手と顔ぐらい洗ってきたら?」
妹は無視した。全く動くそぶりを見せずに、着いてもいないリビングのテレビを不機嫌そうな顔で睨みつけている。仕方がないので私は席を立ち、先ほどと同じく食器を棚から出した。コンロの上で未だ湯気を立ち昇らせているシチューを器に盛り付けて、ついでに軽く焼いたパンをシチューの脇に添えおく。どちらも量は私のものより遥かに多めにした。
「ほら」
食卓を振りかえると、いつの間にか妹は、私がパソコンを開いた席に移動していた。差し出した食事を見るなり、キーボードを叩いていた指を止めて何か言いたげな顔でロールパンと睨めっこしている。
「何」
「ご飯がいい」
「はあ」
そうならそうと先に言えばいいものを。私は妹に見捨てられたロールパンを摘んで自分の口に放り込み、炊飯器の中を確認した。だが弁当を作るわけでも昨晩和食を食べたわけでもない我が家の炊飯器にはご飯らしきものは一粒として残っていなかった。どうしようかと迷った末に、冷凍庫に凍らせておいたものがあったのを思い出し、電子レンジで温めてから妹に提供した。妹は私のパソコンの前から移動もせずに、渡されたご飯をビーフシチューの中にぶち込んでパクパク食べていた。食事が終わると、口を拭ったティッシュもパソコンも食器もそのままにして、あの薄暗い自室に戻って行った。