その朝
少々同性愛的な傾向があります。
もしももう一度この世界に生まれなくてはならないとしたら、私は観賞魚になりたい。
ちょうどあの人の部屋にある、あの水槽の魚のようになりたい。狭い水槽の中でひらひらと舞うように泳ぎ、あの人と二人きりで生きていく。薄く繊細な鰭を水の中で舞わせるあの人はさぞ美しいことだろう。私はあの人に寄り添い、小さな小さな私とあの人の世界で生きていきたい。穢いものなどない。穢土から放たれた、清浄な箱の中だ。
この現世がそうあれば、どれほど幸福だろうか。
いっそ、死んでしまおうか。あの人と共に生きられる来世を信じて死んでしまおうか。
床の冷たさが現実を伝えている。腹部の痛みが憎しみを紡いでいる。清浄な来世など訪れはしないと、穢れた現世が訴えている。
目の前では見知らぬ父が私を見ている。こんな男は知らない。私の父はとうの以前に他人になった。私は閉じようとする眼で、男を見る。視線が絡み、男の唇が動いた。
何を言っているのだろう。
私の耳は先ほどの衝撃で、すでにその役を果たさなくなっている。おそらくは罵りの言葉だろう。私は聞こえないことに安堵した。
かさついた、厚い唇が動いている。
その周りには疎らな髭が生えているが、清潔そうには見えない。髭にも髪にも白いものが交り始めている。男の年齢は知らない。顔色は青黒くも見えるが、大概の場合酒気を帯びている。そしてその概ねの場合私はこの男から暴力を受ける。それは暴言から始まり、数十分続くのが常だが、必ずしもそうではない。男の気分次第である。
男は、田上という。二年前に母が連れてきた。その後一年ほどは穏和な男だったが次第に酒の量が増え、家にいる時間が増え、私に対する態度が変わった。母には相変わらず優しいようだ。暴力を振るうようになったのは、半年ほど前だったと記憶している。
男に蹴られ、視野が反転した。埃が、あった。
掃除をしなくてはと思う。否、それよりも、今日こそ死ぬのではないだろうか。死ぬのは構わないが、この男の手で死ぬのは癪だ。この汚い男の手では、厭だ。
そう思い、男をねめつける。男は再度腕を振り上げたが、殴らなかった。そのまま後ろを向き、玄関を見た。チャイムの音が、微かに聞こえる。
「学校に、行ってきます」
誰の声かと疑うほどに、掠れた声だった。