逆襲
「ほんとにいいのかい?」
「いいの!思いきってやって…ばっさりと」
白衣を着たおじさんが困ったような顔をして見ているのが鏡越しに映っている。
「でもねえ~紀ちゃん…いくらなんでも丸坊主なんてさ…」
確かに、肩下20センチはゆうにある長い髪を丸坊主にしてくれって言われて、
はいそうですか、ってすぐに承知する人も少ないと思うけど…
「いいの!そのためにココに来たんだから!」
私の決心は変わらなかった…そう、絶対に丸坊主になってやる!
ココ…「遠山理髪店」は私が子供の頃、良く来ていたお店だった。
高校に行くようになってからは段々足が遠のき、
4年前に結婚する時に、顔と襟足を剃って貰ったのが最後だった。
そして、今日…
「おっ!紀ちゃんじゃないか!見違えちゃったよ~
すっかり呉服屋の若奥さんが身に付いてきたね~」
少しだけ老けたおじさんにそう言って出迎えられたのだった。
『呉服屋の若奥さん』…そんな肩書きとも、今日でお別れ
そう決意して私はココに来たのだった。
「だから、おじさん、早くやっちゃって!思いきって丸坊主にして」
白いカットクロスを首に巻かれた私が鏡に映っている。
その後ろには、しぶしぶ、と言った様子で支度をしているおじさんの姿…
手には黒い大きなバリカンが握られている。
「しつこいようだけど…ほんとに、ほんとにいいのかい?」
おじさんの再度の確認に、私は大きく頷き
「ばっさりと…丸坊主にして下さい」
改めて自分にも言い聞かせる様にキッパリと言った。
「じゃあ、やるよ…紀ちゃんは子供の頃から言い出すと聞かなかったからねえ~」
苦笑いしながら、霧吹きで濡らした髪にそっと触れる。
「思い出すね~『兄ちゃん達と同じ頭にして!』って駄々をこねてた紀ちゃんを…」
そうだった…確かまだ4歳くらいの頃…二人いる兄達と一緒にこの店に来ていた私
坊主頭だった兄達と、同じにしてちょうだいって、言ったんだっけ…
さすがに勝手にする訳にもいかなかったおじさんが家に電話をかけて
飛んで来た母に「とんでもない!」って叱られた私…
言われて思い出した自分の子供の頃の姿を想像して私はくすっと笑った。
もう、その母もいないけど…そんな事を思っていた私におじさんが言った。
「じゃあ、いくよ…」
音を立てて動き出したバリカンが、額に向かって迫ってくる。
「どうせなら…思いきって真ん中からやっちゃうよ」
そう、その方がいい…そうすればもう後戻りする事も出来なくなるし…
私はそっと目を閉じた。
『ジジジ…』
額の真ん中にすごい振動があった。
バサバサ…それと同時に、長い髪が本当に『音を立てて』落ちて行くのが判った。
カットクロスを滑り、床にバサッと落ちる音がバリカンの音に混ざって聞こえる。
額から、トップの真ん中を通り、あっという間につむじの方まで振動が移動していき、
そこで私の頭を離れた。
「やっちゃったよ…紀ちゃん」
おじさんはわざと明るい声を出して言った。その声を聞いて私はそっと目を開けた。
額から、真っ直ぐに入った線…真っ黒な長い髪に挟まれたそこには
数ミリに刈られた短い髪があるだけだった。
「あはは…すごいね…」
そう言って笑うつもりだったけど、ちょっとだけ声が潤んだ。
照れ隠しに鼻を啜ると、私は『続けて』とおじさんに言った。
さっき刈った額の横にまたバリカンが入る。
髪をどんどん刈りながら、あっという間にまたつむじの方まで進み
そして、また額から…
事情を知らないはずのおじさんも、なるべく手早くやってあげよう、そんな様子だった。
(ごめんね、おじさん。イヤな役をお願いしちゃって…)
次々に刈り落とされてくる長い髪を見ながら、思った。
トップをすっかり刈ってしまうと、次は右横…
もみあげの下からすくいあげるように入ったバリカンがすうっと上にあがっていく。
その度にまたおびただしい程の髪が落ちる。
それはまるで生き物のように、丸まって膝のくぼみにおさまったり、
床に落ちて広がったりしていた。
『紀子さん、あなたって人はいつになったら
石川家の嫁として一人前になるんでしょうね』
『あなたの育ったお家ではそうでしょうけど、石川家の嫁になった以上は…』
『まったく、あなたみたいに出来の悪い嫁がこの石川家に来たと思うと…』
義母の声が目を閉じると嫌でも聞こえてくる。
それでも、持ち前の明るさで何とかやって来た。
すいません、気をつけます、教えて下さい、笑って頑張ってきた…でも…
そう、あの言葉だけは、どうしても笑って聞いているには辛すぎた。
「いつになったら、石川家の跡取りを生んでくれるの?
だいたい、『嫁いで3年、子なきは去れ』って言って、普通だったら…」
義母は事有る毎にその言葉を口にするようになった。
初めは聞き流せた言葉も、半年前の流産以来、身体中に突き刺さる。
私だって…私が一番望んでいた事なのに…
夫の孝行は、名前の通り『親孝行息子』として評判の親思いの息子。
もちろん、私を愛してくれてはいるけれど、何かに付けて
「ごめん、お前がちょっと我慢してくれ」
「お前の気持ちも判るけど、母さんを立ててやってくれ」と言う。
それも親思いの優しい人だと思って受け入れてきた。でも…
でも、もうそれも限界…
『ジジジ…』
後ろの髪が持ち上げられて、そこに冷たいバリカンの刃が当たった。
くすぐったさと、振動に身体がビクッとして我に返った。
「ごめん、くすぐったかった?」
おじさんがちょっと笑いながら言う。
その間にもバリカンは後ろの髪を襟足からどんどん上に向かって刈上げていく。
バサバサと更に大きな音を立てて落ちて行く髪…
「紀ちゃんは子供の頃からくすぐったがりだったからなあ~」
おじさんは、そう言いながらも手を休めることなく髪を刈っている。
襟足からつむじの方に上がっていくバリカンが、
後ろの髪もあっという間に数ミリにしてしまった。
「子供の頃の紀ちゃんも、ココを刈上げにする時、決まって首をすくめてたっけ…」
私の気を紛らわすためか、おじさんは話を続けた。
そして、後ろから、唯一長い髪が残された左側へと移動して刈り始めていた。
やがて、最後の髪にバリカンが入り、そしてバサッと音を立てて落ちていった。
「ふぅ~」
大きく息を吐くと、私はそっと背中を伸ばした。
鏡には、まるで野球少年のようになった自分が映っている。
さっきまでのちょっと思い出していた暗い気持ちは
今のため息と、そして切り落とされた髪と一緒に捨てた。
「あはっ…裕兄ちゃんだ!」
確かに、鏡の中の顔は、二つ年上の次兄にそっくりだった。
「うん、似てるね。思い出すよ…」
刈り残しのないように、また頭中にバリカンを走らせたあと
おじさんは、シャンプーして、丁寧に仕上げてくれた。
「さ、出来たよ」
カットクロスを外しながら、おじさんは私に手を貸してくれた。
子供の頃のように、勢い良くイスから飛び降りるように立ち上がると
私は丸坊主になった自分の頭を触った。この感触…!
「おじさん、ありがと!」
にっこりと笑った私に、おじさんは心配そうな顔で尋ねてきた。
「でも紀ちゃん…余計なお世話かもしれないけど、こんなにしちゃっていいのかい?」
いいも何も、もう丸坊主にしちゃったんだから、仕方ないじゃん
私はそう言って笑った。それでもおじさんの心配そうな顔は消えなかった。
「いいの!良くなくする為にしたんだから」
そう…代々続いた呉服屋の若奥さんが、坊主頭で商売が出来る筈がない。
着物を着るために、結婚以来伸ばすように言われてた髪を
どうやってもアップどころか、ヘアピンひとつ付けられない丸坊主にしてしまったのだから…
「いいのって、紀ちゃん…」
「我慢の限界!いちいちうるさいんだもん。髪を伸ばせとか、
嫁として恥ずかしくない人間になれとか…二言目には石川家の嫁として、ってさ」
だから、これは私の最初で最後の反抗。
そう言った私におじさんは少し笑った。
「紀ちゃんらしいよ、相変わらずだ、変わらなくて安心したよ」
それでも、勘のいいおじさんは、言わなくても
私の辛い気持ちも全部理解してくれたようだった。
黙って、坊主頭を撫でて「頑張れよ」と笑った。
「このまま堂々と帰るわ。お店から『ただいま~』ってね!」
もちろん、ただで済むとは思っていない。それが目的なのだから…
「追い出されたら…間違いなくそうなると思うけど…また遊びに来るねっ」
複雑な顔をして送り出してくれたおじさんに手を振りながら私は店を出た。
(さてと、紀子の大逆襲…準備は整ったし)
私の心は嘘のように晴れやかで弾んでいた。
***一年後***
遠山理髪店の「おじさん」は一枚の葉書を受け取った。
そこには、可愛らしいショートヘアの紀子が、
にっこり笑って真っ白い産着を着た赤ちゃんを抱いている写真があった。
横には、ちょっと照れたような新米パパの笑顔。
当然のように中央で孫を抱いていると思われた義母の姿は
親子3人の後ろに隠れるようにして写っていた。
『おじさん、その節はありがとう。おかげさまでこうしてまだ若奥さん続けてます。
大変だけど、もう怖いモノなしだよ』
紀子の弾むような元気な字が写真の下に添えてあった。
「頑張れよ、紀ちゃん…」
送り出した時と同じ言葉を写真に向かってつぶやいた。
END