イミテーション
暑い日の午後、三田拓郎は美術室にいた。
夏休み中でも、ほぼ毎日学校へ来て部活動に
取り組んでいるのは拓郎ぐらいである。
室内は外からのジィジィという蝉の声が絶え間なく響く。
時折、窓から生温い風が頬を撫ぜてくれるが、
何度拭っても汗は止まらず不快感は増すばかりである。
拓郎は筆を置き、眉間にシワを寄せながら首を鳴らした。
椅子の下の水筒を取り、飲み口のボタンを押すと
ポンッという音と共にふたが開いた。
中のポカリは甘めに作ってあるので、ひと口
口に含むと余計に喉が渇くが、この暑さでは仕方ない。
冷たい液体が体の中に染み込んでいくのを感じると、
はぁ、と口から自然にため息が出た。
今モチーフにしている目の前のリンゴとマスカットも、
模造品ではあるが若干萎びているように見える。
拓郎は何の気なしにそのモチーフ達の向こう側、
教室の後ろの道具置き場の方をチラッと見た。
若い女性の石膏像がある。
両腕の上腕から先と、腿から下のない半身像だ。
腹筋はすこし割れ、引き締まったくびれを
悩ましげにくねらせている。
口元にうっすらと笑みを浮かべ右下に俯いた顔。
伏し目がちな二つの眼。
頭や肩にすこし埃を被ったそれは背もたれのない
木の椅子の上でシンボルのように悠然と佇み、
美術室のどの位置にいても目につく。
しかし、この像の近くに座りたがる生徒はいない。
原因は彼女の目であった。
真っ白な顔の真っ白な両眼には、誰の悪戯か、
渦を巻くように油性ペンか何かで黒目が描かれている。
いつ頃、この石膏像が美術室に置かれたか分からないし、
誰が石膏像に黒目を描いたのかも知らないが、
いかに鈍感な生徒でも彼女の視線に耐えられないのだ。
もちろんそれは拓郎も例外ではない。
むしろ拓郎は人並み以上にそういった類の話が
苦手であり、一人きりの美術室では意識せざるを得ない。
拓郎は耐え切れず席を立った。
暑い日はずっと座っているとお尻が汗まみれになる。
美術室に冷房は備わっているが、そのスイッチは
鍵のついた制御盤の中で、その鍵を持つ先生も
毎日学校にいるわけではない。今日は今年一番の猛暑日らしい。
外では野球部が練習をしている。雲一つない空の下、
金属バットでボールを打つ音と部員達の掛け声が校庭に響く。
ふと、拓郎の背後を風が通り抜けた
拓郎は驚いて振り返ったが、当然誰もいない。
しかし、その風は普段学校で人とすれ違う時の
微かに感じる風そのものであった。
遠くで吹奏楽部の演奏がほんのり聞こえるが、
外と違って美術室はしんと静まり返っている。
拓郎は顔は向けずに、目だけを石膏像へ向けた。
変化はない。
汗を拭って拓郎は椅子に座った。
しかし筆を取ってキャンバスを見ると違和感がある。
先ほど自分が塗ったときよりも色が暗い。
モチーフに目を向けた瞬間、拓郎は椅子から転げ落ちた。
遠くの石膏像と目が合った。
俯いているはずの顔が、しっかりと拓郎を見据えていたのだ。
椅子から落ちた際に足が画架に当たり、
騒がしい音とともに画架の部品やキャンバス、筆が床に落ちた。
拓郎は腰を抜かし起き上がることもできず呆然とした。
額の汗が頬を伝って顎から滴り落ちる。
目に入った汗をまばたきで拭うことすらできない。
真っ白な石膏像に慈悲などある筈も無いのだが、
今の拓郎はそれを望まずにはいられなかった。
あの像には“何か”ががいるのだ。
そうでなければ、あの像が“何か”であるに違いない。
石膏像がいわく付きであることは知っている。
先輩からも、同級生からも聞いた。
この学校で細々と伝えられてきた根も葉もない噂。
誰かが暇潰しに学校へ流した詰まらないデマ。のはずだった。
しかし自分は今日、目の前でソレに遭遇してしまった。
世の中の禁忌に触れてしまったようで、
ひょっとすると自分は日常に戻れないのではないだろうか。
つい先程まで考えもしなかった死の予感が
突如として頭の中に現れ、拓郎は恐怖した。
ドッドッドッドッドッと心臓の鼓動だけが響く中、
拓郎は美術室の出口のほうをちらと見た。
引き戸は閉まっている。
それに出口までは拓郎より石膏像のほうが若干近い。
ここから腰を上げて駆け出し、戸を引いて逃げるまで
あの像は自分を見過ごしてくれるのだろうか。
最悪、手元のキャンバスでも何でも犠牲にしてでもと、
覚悟を決め行動に移そうとした拓郎だが、
彼はもう一度、石膏像を見て戦慄した。
またポーズが変わっている。
「今からそっちに行くよ」
とでも言うように目は嬉々としてカッと見開き、
口元の笑みはそのままで、椅子の上で
水泳選手の飛び込むように前屈みになっている。
次に目をそらせばアレはやってくる。
拓郎は石膏像を見つめたまま、ゆっくりと立ち上がった。
要するに視界に入れておけばいいのだ。
縦横無尽に揺れる瞳を必死に一点に留めて、
拓郎は教室の黒板の前を横切った。
石膏像は動かず前傾姿勢だ。
しかし像は少しずつ、気のせいかと思わせるほどゆっくり、
だが確実に拓郎を目で追い、次に顔を動かそうとしている。
その証拠に像の関節部分はひび割れ、今も首元から石膏の
欠片がパラパラと床にこぼれ落ちている。
アレはだるまさんが転んだのように隙を見つけては
こちらに近づこうとする。
近づかれた後を思うと、拓郎は背筋を凍らせる他なかった。
ギ、ギギギッと奇怪な音を立て像はゆっくりと首を回す。
拓郎は出口に辿り着き、視線はそのままに引き戸に手をかけた。
だが引き戸は拓郎が力を込める前に突然開いた。
「おう三田、何してんだ?」
美術教諭であり美術部の顧問の平松だった。
「先生!」
振り返って拓郎は思わず叫んだ。
背後で、ガゴンッと倒れる椅子の音。
後悔したときにはもう遅かった。
電流が背筋を上って頭の頂上までやってきたとき、
拓郎は平松教諭の横をすり抜け、一心不乱に廊下を走った。
「おい、三田ァ!どうし……」
平松教諭の声はまもなく蝉の鳴き声にかき消された。
拓郎は荷物も全て置いて学校を飛び出した。
そしてそれきり夏休みに学校へ来ることはなくなった。
九月の始業式に平松教諭が行方不明であることが
全校生徒に知らされた。
皆一様に戸惑っていたが、拓郎は言い出せなかった。
警察にも他の先生にも親にも、誰にも言い出せなかった。
石膏像が動いたなんてそんな噂、真に受けるものなどいない。
「……なぁんて話があってねー」
「華ちゃん、ここでそんな話しないでよぉ」
「まとめに載ってた話。怖くない?」
「像が動くって、なんかアメリカの映画っぽくない?」
三人は放課後、美術室にいた。
部活が終わりあとは帰るだけなのだが、
ここで一人がふざけ半分で怪談話を始めたのだった。
「そんな話されたら、嫌でも意識しちゃうじゃん……」
気弱そうな小柄の女子生徒が教室の後ろを見た。
作品や用具の置かれた木棚があるが、その隅に石膏像がある。
「……あれは動かないよね?」
「だから作り話だって。果穂は信じやすいねぇ」
三人が飽きずに雑談をしていると教室の扉が開いた。
「あ、ミタちゃん」
三人の中の一番遊んでいそうな、怖い話をした生徒が
扉を開けた男を馴れ馴れしく呼んだ。
「“先生”をつけろって。お前達、終わったら早く帰れよ」
「わかってるよ。小学生じゃないんだから」
文句を言いながらも、三人は言われたとおりに
鞄を肩にかけて席を立った。
「さよなら先生。また来週ぅ」
「気をつけてな」
扉がガチャンと閉まるのを見届けて、三田は振り返った。
教室の隅にある石膏像。
先日、この学校の美術教諭が学校に持ってきた像だ。
知人の教師から譲り受けたものだという。
非常勤講師である三田はひと目で震え上がった。
口元にうっすらと笑みを浮かべ俯いた顔。
真っ白い顔に浮かぶ二つの黒い渦。
三田が数年間記憶の底に沈めていた、
あの時の恐怖の光景が鮮明に蘇った。
三田は誰かがアレの正体に気付く前に、
躊躇うことなく破壊することを決めた。
石膏像を壊した後のことは考えていない。
恐らく気が狂ったと思われるだろう。
しかし、それでも構わなかった。
これが病気による幻覚の類であればどんなに楽だったことか。
自分が目にしたことは夏の暑さでおかしくなったからで、
平松先生が失踪したこととは無関係なんだと。
しかし、どんなに忘れようとも忘れられなかった。
勘違いだったとしてもいい。
とにかく自分を苦しめてきたこの石膏像が
粉々に砕け散り、その欠片を見て胸を撫で下ろしたいのだ。
ホームセンターで買った金槌を服の下から取り出し、
像にゆっくりと近寄っていく。
近づくにつれ心臓が激しく騒ぎ出した。
目の前に立ち、金槌を振りかざした。
頭部を目掛けて振り下ろそうとした。その時、
「……バレた?」石膏像が喋った。
四、五才ぐらいの女の子の、幼い無邪気な声で、
パクパクと口を動かして声を上げたのだ。
石膏像はゆっくりと顔を上げ、瞼を大きく開けた。
黒い渦の瞳がグルンと上にひっくり返り、
その下から黒目が縦長な、猫のような眼が現れた。
拓郎は恐怖のあまり絶叫した。
そして強く握りしめた金槌を振り下ろした。
石膏像の頭頂部が勢いよく砕け散った。
しかし、舞ったのは石の破片だけでなかった。
赤黒い液体が、ブヨブヨとした何かと共に
周囲に飛び散ったのだ。
更に三田を驚愕させたのは、彼の開けた
像の頭部の穴から生き物の脳のようなものが露出し、
泉のように赤い液体を噴き出しているということだった。
「アアアッ!ギャアアアッ!」と石膏像は女の声で
奇声を発して暴れ出し、そのまま仰向けに床に倒れた。
白い石膏像は瞬く間に赤に塗れ、その姿は
両手足のない女性が苦しみ、のたうち回るようだった。
三田は声が擦り切れんばかりに叫びながら、
教室を逃げ回る石膏像を追いかけては金槌で叩いた。
次第に石膏像の途切れた上腕と腿から、
虫のように細く、先のとがった脚のようなものが飛び出た。
カチカチ、カチカチと脚同士をぶつけ合いながらも
床をカツカツと気味の悪い音を立てて滑る。
三田は臆することなくそれらの脚を一本ずつ丁寧に
金槌でへし折っていく。パキッと乾いた音が
するたびに石膏像も甲高い悲鳴を上げる。
三田は金槌で頭を陥没させてそれを止めさせる。
そんなことをひたすらに続けた。
三田が金槌を振るい続けて数十分ほど経った。
美術室の床は赤絨毯を敷いたかのように赤く染まり、
壁や窓、天井も赤い斑点まみれになった。
次第に叫び疲れた三田は叩くのを止め、
しばらく足下に転がる像を眺めた。
像は生き物のようにビクつき、腹もヘコヘコと波打ち、
胸は呼吸をしているかのように荒々しく動いている。
石膏像が化けたというより何かが石膏像に化けたようだ。
「ンゥゥー……ンンヴゥー…」
上顎から上が無くなっても呻く石膏像を見下ろし、
三田は呟いた。
「……お前は何なんだ?」
石膏像はずっと痙攣している。
三田は石膏像を黒いポリ袋に入れると、
返り血のついた服のまま外へ出て、校舎裏にある
今は使われていない焼却炉へそれを入れた。
用意したポリタンクの蓋を開け焼却炉の中へ灯油を流し込んだ。
ポリタンクが空になるとポケットからマッチを取り出し、
三本をまとめて着火させて焼却炉へ落とした。
火は一瞬で燃え広がった。
老朽化した焼却炉のあちこちから炎が噴き出し、
一本の巨大な火柱になった。
炎の轟々という音に混じって獣じみた鳴き声が聞こえる。
これが奴の断末魔だと信じて、三田は呆然と炎を眺めていた。
美術室の惨状は隠すことなどできるはずもなく、
また血まみれでポリ袋を持った三田の目撃証言が
生徒からも相次ぎ、間も無く世間で騒動となった。
美術室に残された肉らしき断片は回収され、
床や壁、天井にこびりついた血痕はタイルごと交換された。
三田には当初、殺人の容疑もかけられ捜査が行われたが、
収集した血液や肉片が誰のものか最後まで判別できず、
結果、容疑は取り消された。しかし、
三田は精神的に不安定だとして、病院に追いやられる形で
学校を懲戒免職処分となった。
また焼却炉については、内部にあった物体は激しく
炭化しており判別は不可能とされた。
三田に事情徴収をしても内容のない返答ばかりで、
そもそも精神病患者の証言は正当性がないとされ、
彼の証言は却下された。
一部のオカルト雑誌はこの騒動をUMAや呪いなどと
騒ぎ立てたが、そんなものを真に受ける者などいない。
「だぁー!ミミックうっざ!」
「華ちゃんうるさいよ」
三人は美術室にいた。
日に焼けた女子生徒は部活そっちのけでゲームに没頭している。
色白の気弱そうな女子生徒はため息をついた。
「久しぶりに来たと思ったら。休み中は部活来ないって言ってたじゃん」
長身の女子生徒がキャンバスに顔を向けつつ話しかけた。
「そうなんだけどなんか退屈でさ。それにココ冷房ついてるし」
生徒が冷房を使えるようになったのは三田の説得のおかげだ。
「……あーあ。どうしちゃったのかなぁ、ミタちゃん」
「わかんない。私達の前じゃ普通だったのに」
三人が雑談をしていると、美術室の扉が開いた。
蓮見という男が入ってきた。
三田の代わりにやってきた非常勤講師である。
蓮見は無口で生徒とは極力関わろうとしない。
三田と正反対の性格で、生徒からの評価は低い。
彼は何か教室の後ろでゴソゴソとやると、三人を
ジッと見つめ、そして教室を出て行った。
「……ねぇ、今ので四回目。何なの?蓮見って人」
「ちょっと…ていうか、かなり怖いよね。なんて言うか、人間じゃないみたいな」
「そう、それ。死んだ魚の目ェしてるよアレ」
「いつの間にか背後に立ってたりする時があってさ。あれマジやめてほしい」
「……宇宙人だったりして」
ギャー、ナイナイと三人の議論が白熱する様を、
蓮見は扉の向こうから耳を当てて聞いていた。
やはり人間はまだ早かったようだ。