兆候
「し げ とっ」
横になった山田重人を見下ろし、少女が言った。優しさと厳しさのいり混じった声である。
幼い頃に両親を亡くし、昔から交流の深かった鈴置家に引き取られた重人にとって、鈴置春のこの朝の声は、最早馴染みの“めざまし”だった。
「もう朝だよ! ねえっ」
そうやって数回声をかけられ、重人はうざったそうに布団をのけた。
「んだよ~。休みの日くらいゆっくり寝させろよ」 文句を言って起き上がり、寝ぼけ眼を声の方へ向ける。
そんなパンツ一丁の彼を見て、春は一瞬きょとんとした。だがすぐに険しい表情になると、薄い唇を曲げて「なに寝ぼけてんのっ。休みは昨日まででしょ」と一喝した。
夢うつつの重人を見て春が「仕方ない」と口にした。その目がじーっと彼の背を捉える。そして――
「こらっ、おきろ!」 平手がとんだ。
「いってえなっ!」
「こうでもしなきゃ、あんた起きないでしょっ」
「馬鹿か! 起きてるっての!」っざけんなよ、と小言のように呟いてから重人はゆっくり首をまわした。
バラ学の生徒と喧嘩をしたあの日。世界をつつんだ白い閃光はIFと名付けらた。そしてその原因や影響がわかるまで学校は休みという事になっていた。
「まだIFのこと何もわかってねえだろ? ってことは休みだろうが」
「原因はわかってないけど、影響はないって何日か前にテレビでいってたじゃん」
春は黒目がちの大きな瞳を窓へ向けた。
「IFは三週間前だし。普通に考えて、そんないつまでも休みが続くわけないでしょ。ていうか『明日から学校が始まる』って連絡網が昨日まわってきたでしょ」
その知らせの電話をとったのはアンタじゃないの、と付け加えて彼女は小さく頭をふった。
つけっぱなしのテレビでは朝のニュースをやっている。
重人はハッキリしてきた目をあらためて“制服姿”へ向けた。
無造作にセットされたショートヘア。東都高校指定の紺色のセーラー服。ギャルソンのリュックを背負い、左の手首にはごついGショック。
完全に通学仕様の鈴置春だった。
彼はこれまでの遣り取りなんてなかったという顔で大きく伸びをした。
「よし、いくかっ」
「いや『いくか』じゃないでしょ。あんた出席日数やばいんじゃないの」
「そうだぜっ。急ぐぞっ!」
「ちょっと重人っ! 着替えっ着替えっ」
「余裕のセーッフ!」
二年B組の教室に勢いよくとびこんで、重人はガッツポーズを決めた。
クラスメイト達は何事かと黒板近くの出入り口を向いた。だがすぐに体を戻した。「なんだ山田か」と言わんばかりである。
それから十数秒遅れて鈴置春が入室した。肩で息をしながら重人のほうを向くと、
「あんた速過ぎ」 息もきれぎれだった。
「へっへ。まあ、生まれ持った才能ってやつだな」
「不摂生ばっかしてるくせに」
腕組みをして無邪気に勝ち誇る重人に、春は頬を膨らませた。
重人が「へっ」と嬉しそうに笑う。
「なんでニヤついてんの。キモい!」
「はあ゛っ!? ニヤついてねーけど!」
そうやってああだこうだ言い合っていると、女子がふたり近づいてきた。
「もう。久々に見たと思ったら、さっそくやってるし」
「さーやっ! あっき!」
春が親しみの篭った声を返す。
三人がワイワイキャッキャとはしゃぐ様子を見て、重人が渋い顔になる。どうして女子はこんな事でいちいち騒げるのだろう。不思議でしかたがない。
彼は退屈そうに室内を見回した。
出席しているのは二十人ほどだ。クラスの三分の一がきていない。サボりゃよかった。
ちらりと春の方を見ると彼女の横で肩にかかる茶色い毛先をいじる『あっき』こと須藤明穂が上目遣いでこちらを見ていた。
「よお」
「や、山田君……おはよぅ」
明穂が恥ずかしそうに返事をした。他の男子や女子の前ではハキハキと喋る彼女だが、重人と話す時だけは借りてきた猫になってしまう。
重人的には初めて出会った時から“そういう子”なので今さら疑問に思う事はなかった。
「友人Bも走ってきたんか?」
この呼び方も出会った頃からだ。当然、猫になっている彼女がそれに意見することはない。
かわりに春が「こらっ」と重人の頭を叩いた。
「痛ってえなぁ」
「あんたがあっきの事そんな風に呼ぶからでしょ」
「んな……今さらじゃねえか」
「だからでしょっ。もうお互い小さい子供じゃないんだから。あっきはねっ」
言いかけたところで顔を真っ赤にした明穂が「わあっ」と、春の前に飛び込んだ。
「は、はるっ! 呼び方なんて何でもいいからっ。もうホームルームもはじまるし席にいこっ」
彼女は春の肩を後ろから掴むと、そのまま自分たちの席まで誘導した。
二人の後ろに『さーや』こと魚沼さやかが続いて歩く。しかし数歩して不意に足を止めると、重人のほうを振り向いて言った。
「あたしの事は、ちゃんと名前でよろしく」
「おう、まかせろA」重人がニカッと笑った。
魚沼は無表情のまま数秒、その屈託のない笑顔を眺めると「『友人』すらなくなったか」と呟いて春たちの方へ歩いていった。
五時限目の授業が始まってすぐに重人は大きなあくびをした。
満腹の腹をさすりながら、彼は昼休みにクラスメイト達が盛り上がっていた話について思い出していた。
その話題というはIFが起こる直前に何をしていたかというものだった。
話をしている生徒のほとんどは、教室で授業の準備。または朝礼が始まるまで友達と喋っていたとか、ウンコ……と告白する勇者もいた。
思い思いに過ごしていたんだなと重人は思った。
ついでに、そのとき自分はまだ外だったけどな、と心の中で生徒達の会話に割込んだ。
そんなこんなで盛り上がっているなか、一人の生徒が「じゃあお前らさ、IFが起こった時は何してた?」と訊ねた。
話をしている生徒は皆一様に困った顔をした。
答えたくても答えられないといった様子だ。
それまで賑やかだった教室に気まずい空気が流れる。
理由を、皆はわかっていた。
重人もわかっている。
というのも、IFが起こった瞬間、全世界の人々が全員同時に気を失ったのだ。
メディアは今でもこれを取り上げている。
以降テレビで最も耳にするようになったフレーズが「光が見えて目が覚めた」である。
溜息がでた。
それがあくびに変わるのに、時間はかからなかった。
社会科の教師で担任でもある野中浩彦の声が、丁度いい具合に眠気をさそうのだ。
抑揚の少ない淡々とした喋りで授業が進んでいく。勉強が苦手な重人には非常に退屈なものに感じられた。
気づくと彼は夢の中にいた。
そこには家も木も学校もビルも、何も無い。地平線の彼方まで砂と突起に乏しい岩だけが続いている。空は灰色で、太陽さえも濁っている。
IF以降、眠りにつくと必ずこの夢を見る。
現実と同じ制服姿で、何もな無い世界にひとり佇むだけ。味気ない夢だ。
重人はいつも通りボンタンに両手を突っ込んで目が覚めるのを待った。
するとふと、遠いところに影が見えた。
それがゆっくりとこちらへ近付いてくる。
まるで黒い日の出だ。
あと数メートルという所まで影が近付き、重人は口をあんぐりとさせた。
影の正体が何とも形容しがたかったからだ。
とにかく地球の生き物ではない。それでもあえて地球上のモノで例えるなら、龍の様で虎の様な牛の様でイカの様な人だった。
近くにいるのに大きささえ曖昧に感じた。見えているのはほんの一部で、本当はもっと大きくて、もっと禍々しいモノではないのだろうか。
眺めているとそんな気がした。
重人は、そうするのが当たり前かのように、怪物の体に触れた。
すると二人は溶けて混じって――次の瞬間には何も無い真っ白な空間に制服姿で浮んでいた。
「おきて! ねえ! しげとっ」
春の声が聞えて目を開くと、横向きになった教室の風景が見えた。
夢はいつの間にか終わっていた。
数人の生徒がニヤつきながらこちらを見ている。
ふと上から険しい視線を感じた。
重人が机から体を起こす。
「やっと起きたか」
彼の横で担任の野中が忌々しげに言った。
重人は悪びれる様子もなく「よおセンセ」と返事をした。
一つ前の席に座る鈴置春が肩越しに顔を顰める。
あやまんなさい。
そう促がされている気がした。
重人は小さく息を吐いた。
「すんません、ちょっと風邪気味なんすよ」
「風邪……ねぇ。まあ、つい今しがた今日の授業が終わったところだ。さっさと帰ってはやく寝ろよ」
野中は眉をよせて言うと、不機嫌そうに教卓へもどり終礼を始めた。