可能性、あるいは混沌
「いいから、物騒なもんはしまえ」
「へえ」
コウガの表情から、テツは意外なことを読み取り、鼻を鳴らす。
「見逃してくれるんだ」
テツは短刀を鞘に戻した。
コウガは面倒そうに呟く。
「…はぁ、どうだっていいや」
上着のポケットに手を突っ込んだ。
何かを取りだす。
コウガは、手首をしならせ、それをテツに放り投げた。
テツは反射で受け取る。
見下ろせば、それは精密な神代文字が刻み込まれた銀のバングルだった。
ただのバングルではない。微かに、方術の気配を感じる。
ただし、悪意ある仕掛けは感じ取れない。
これはなんだ、とコウガを見返せば、彼は肩を竦めた。
「俺の鍵だ」
鍵。なんの。
素で思ったテツは、すぐ解答を得る。
転移門の鍵だ。
コウガはやりにくそうにぼそぼそ呟いた。
「貸してやる」
なんと、面倒見のいい。
一瞬、都合のいい話だ、と疑いたくなる。
だが思い返せば、テツの記憶の中のコウガには、確かにそういった一面もあるのだ。
仁としては助かる、と言いたい。心から。
ただし。
テツ・フェリックスは、真っ当さからズレている。
バングルを見下ろし、迷惑そうに眉根を寄せる。
その顔でバングルを―――――あろうことか、投げ返した。
「いらない」
コウガは、反射の動きで受け取る。
テツはひらりと手を振った。
「借りたら返しに戻らないといけないからね」
コウガに、意外そうな様子はない。
ただ、わずかに脱力する。
「あー…、アンタってこういうヤツだよな」
何を察したか、コウガは真っ直ぐテツを見つめた。
バングルを片手で弄び、率直に尋ねる。
「戻らないつもりか、学園に」
勘がいい。
テツは隠さなかった。
「ここに、もう利用価値はないんだよ」
「爆弾を仕掛けるには、随分派手に利用したもんだな」
コウガが『爆弾』と揶揄しているのは、二日前の話に違いない。
テツは告げた。
―――――僕は領民に、信を問う。
即ち。
藩王家嫡子のテツ・フェリックスは、力を暴走させた。
彼に、領地の支配権を与えたままでいいのか。
それとも取り上げるのか。
―――――領民に決めさせよう、とテツは提案したのだ。
正直、これはこの世界では前代未聞の話だった。
そのような重大事を決めるのは、五大藩王家の役割なのだ。
そう…今までは。
だが、今回のような事態では、信頼できる判断が下されるとは限らない。
テツは、そう確信している。
なにせ、現在、太古から続いてきたフェリックス藩王家で生存が認められているのは、テツしかいない。
五大藩王家に任せれば、どんな不都合があったとしても、目をつむり、彼等のいいように処遇を決定される。
そうなる前に、手を打つ必要があった。
領民の決定には結局、力はないかもしれない。
だが、たとえ無力であっても、世論はこうであるという周知は、世間になにがしかの一石を投じることとなる。
「結果を待たずに去るつもりか?」
コウガは眼を細めた。
だが、不思議と責める雰囲気はない。
「結果から逃げた臆病者と謗られる羽目になるぞ」
「分かってるでしょ」
その手の安い挑発は、テツに少しも刺さらない。
「ここで結果を待たなくたって、その結果は自然と周囲に鳴り響くよ」
それは、テツが学園でい続ける理由にはならなかった。
結果は、世間にいれば、自然と耳に届くだろう。
テツの言葉に、コウガは反論しなかった。
と言うのに、再度バングルをテツに投げる。
「ヤト学園に利用価値はないかもしれない。けど、人間関係はどうだ?」
傍観者――――仁は内心、感心した。
コウガは悪くない手札を切った。
今度は、情に訴えてきたわけだ。
「フェリックスを慕う者は多い。なにせ藩王家最古の血統だ。そんな奴らを捨てるのか」
だがテツは悩まない。
バングルを投げ返した。
「本気で僕に用がある人間なら、追ってくればいい」
いなければ行き止まり、とすぐ諦めてしまう相手ならつまらない。
テツに会う資格もなかった。
「どうしても欲しいなら、しがみつけばいいと思わない?」
テツは進みたい方向へ進む。
他の誰かのために立ち止まるつもりはない。
コウガはバングルを手の内で、持て余したようにくるくる回した。
なにやら、考えているようだ。
テツを学園に引きとめる方法を?
まさか。
意外さに、テツは眉を潜めた。
「わからないな」
肩を竦める。
「しずかに暮らしたいコウガには、僕は邪魔だろ。引きとめる理由は?」
テツ・フェリックスは、そこに立っているだけで、問題の中心だ。
たとえるなら。
濃密な台風の目。
底なしの火薬庫。
爆発し続けている爆弾。
要するに、問題児そのもの。
よって、昔からコウガはテツを避けていた。
テツは、それを知っている。
というのに。
一瞬、コウガの顔から表情が抜けた。
その表情に、仁の意識が、首を傾げた。
―――――おや、この子は。
ディン家・妾腹の太子であり、ヴァリスから執拗ないやがらせを受けてきた、ある意味被害者、というテツの記憶にある経歴を背後に見るには、コウガには、ちぐはぐな印象を受けた。
テツを名乗るときは傍観者となっている仁の意識に、ちょっとした警鐘が鳴る。
とたん。
コウガは微笑んだ。
薄い、刃じみた微笑。
…これは、子供が浮かべる表情だろうか。
「―――――二日前のお前の行動に、ちょっと、思ったんだよ」
ゆらり、身体が途方もない荷物だと言いたげに、コウガは歩き出す。
一歩、二歩、距離を詰めてくる。
内緒話をするように、コウガは声を低めた。
「不可能って可能になるんじゃねえのって」
テツは眼を細める。
「だからよぉ」
対するコウガの双眸が、いっとき、濃密な闇に染まった。
「もしお前がここにいれば、それをもっと見れんじゃねーのか? …したら、――――…」
「メーワクだね」
コウガが何かを言い淀んだ隙に、テツは明快な言葉で一刀両断する。
「僕は僕がしたいようにしてるだけだ。キミの望みなんか知らないよ」
二日前の出来事に誰がどんな幻想を見たにせよ、応え続ける義務はテツにない。
不可能が可能になる?
コウガがテツに、なにを見たにしろ、テツが招いたものの正体は混沌だ。
コウガは、口を噤んだ。
諦めの気配も濃厚に、足を止める。…その、態度に。
にわかに。
テツの苛立ちが沸騰した。
ただし、表情に浮かぶのは、笑顔だ。
「あのさコウガ。僕はさっき、なんて言った」
「あ?」
声を出すのすら、否、考えることすら面倒そうに、コウガはテツを見返した。
「どうしても欲しいなら、しがみつけって、言ったよ」
コウガは眼を瞬かせる。
虚を突かれた表情は、歳相応に子供らしかった。
してやったりという表情で、テツは胸を張る。
「もし」
とびきりの悪戯に誘う目で、テツは口を開いた。
「キミが、僕を楽しませてくれると約束するなら、ここに戻ろう」
コウガの群青の瞳に、ゆっくりと理解の光が広がる。刹那。
「はははははっ!」
明るい笑いが、青空の下で弾けた。
普段の粘着質な暗さとはまったく無縁の、爽やかとすら言える陽性の笑い声だ。
刹那。
テツはこのときになって、ようやくはっきりとした違和感に気付いた。
コウガは無気力、ではある。だが。
ヴァリスの暴力に対し、実のところ、傷ついたことなど一度もないのではないか。
徹底的に痛めつけられて。
格下として蔑まれ続けて。
委縮し切った精神が―――――果たしてこれほど屈託なく笑えるものだろうか。
コウガの笑いが続くにつれ、逆にテツから表情が消えていく。
たった今、テツは確信した。
コウガは一方的な被害者ではない。まかり間違えば、加害者の側にいる。
コウガに対する、度を越したヴァリスの憎悪。
ともすればこれすら、誘導された可能性が高い。
…他ならぬコウガによって。
なぜ、そんなことをコウガがしなければならないのか?
理由なら、いくつかある。
自ら誘導したものならば、操作しやすい。
出会い頭にぶつかるより、予測された衝突なら、怪我は軽減されるというものだ。
それに、ある程度の暴力は、禁止するより許した方が不満は少なくなる。
なにより。
被害者であれば、向けられるのは、あくまで同情。
対等な立場と言うものからは除外されるが、弱者を演じれば安全は確保できる。
そして、一番の理由は。
これほど派手に演出すれば、相手に―――――この場合はヴァリスに―――――非難が向かう。
「フェリックス太子は厳しいのに間違いねえんだろうが…」
コウガは見えにくいものを見るように、目を細めた。
「根っこにあるのは、優しさか? それとも、冷酷なのか? …はぁ、ま、―――――燃える条件には違いねえや」
コウガは、バングルを差し出す。
今度は、投げなかった。
その動きは普段の怠惰さはどこへやら、絵になるほど優雅だった。
外見に似つかわしい、洗練された動き。
「アナタが許すなら、しがみつこう。…そして、約束する」
この時ばかりは、口調すら違った。
受け取る前に、テツは少し考える。尋ねた。
「僕が提案してなんだけどさ、いいの?」
「…どうせ、誰も信じないさ」
事なかれ主義のコウガ・ディンが、問題児のテツの提案に乗るなんて。
「ふん」
コウガの手から、テツはバングルを真横からもぎ取った。
テツの反応を、コウガは楽しむように目を細める。
「さて、期限は?」
テツは迷いなく応じた。
「僕が学生でいる間」
「はっ、寛大な条件、…痛み入るね」
皮肉に言ったコウガは気付いているのだろう。
テツは、明日にでも学園を追いだされるかもしれない立場にある。
だが、それならそれで、テツには問題がなかった。
テツはバングルをはめながら、歩き出す。
コウガの横をすり抜けて。
話は終わった。
長居は無用だ。
時間が惜しい。
虎の兄妹はあまり気が長くないのだ。
「ああ、そうそう」
コウガが、いつもの怠惰な物言いに戻り、あまり知りたくない情報を口にした。
「街に降りるなら、忠告を一つ」
面白くもなさそうに告げる。
「ライ・ガユス太子も今日は外出してるってよ」