未完の禁術
高貴な子女が通うヤト学園の安全対策は万全だ。
義務程度でなく、保証する、と言い切れる確実さで。
よって、学園内にいる限り、安全は約束されていた。
生徒たちの間で問題が起こらない限りは。
その前提あっての自由と言うことは、子供たちとて百も承知だ。
ゆえに。
学園内で、今日のような騒動が起こることは、滅多にない。
平和・安全と言うことは、変化がない、ということでもある。
果てまで見通しのつく、決定されたレール―――――それに退屈しているが、降りる度胸もない彼等にとって、危険は、ある意味ひどく魅力的だ。
よって、生徒たちは騒動の中心から目を離せずにいた。
広い競技場の中央に立っているのは、テツ・フェリックス。
その、血を煮詰めたような深紅の瞳を除けば、どこにでもいるような凡庸な少年だ。
彼は、世間で恐れられている審問官に臆することなく、手招いた。
ようこそ、と。
生徒たちはとまどいつつ、目を見交わした。
まだ。
まだ、何か起こるというのだろうか。
「テツくんが」
テツの背中で、シルヴィアが声を上げる。
シルヴィア・ゴネット。
白金の髪に、空色の瞳。内側から輝くような肌。
万人に優しい彼女に憧れるものは多い。
シルヴィアが傷つけられる前に、即刻、テツ・フェリックスから引き離すべきだ―――――誰もがそう思ったが、儚げな少女は、彼から離れる様子は微塵も見せない。
どころか、危険の塊めいた相手に、無邪気に問い掛ける。
「学園に来た目的は、それ?」
誰もが振り回されているこの状況下で、シルヴィアは冷静だ。というより、醒めていた。
テツの目的は、もっと他にある、と。
…言葉の響きには、確信を持った洞察があった。
テツの表情が、いっとき、シルヴィアへの警戒に厳しくなる。
「それだけじゃない」
すぐさま軽い調子で応じたテツの声に、隠し事のやましさはなかった。
「僕が学園に来た、一番の目的は」
大きな声で、テツは宣言する。
「僕が生きているって世界に知らせることだよ」
アイシャが考え深げに呟いた。
「確かに、テツは行方をくらませることもできたわよね」
彼女はふと、テツの姿を見直す。
「その方が、あなたには楽だったんじゃないの?」
「そうだよね、<教>なんて厄介な連中に追われているなら」
備え付けの椅子に身を投げ出し、ヴァリスは億劫に言葉を紡いだ。
「生存の公表は、…標的はここだって叫んでるようなもんじゃないか」
ヴァリスが大きく息を吐きだした。
「ばっかじゃない?」
「いえ」
アイシャが凛と否定する。
「公の場に出る必要はあるわ」
「なんでさ」
唇を尖らせたヴァリスを、アイシャが厳しく一瞥した。
「彼は、テツ・フェリックス―――――藩王家嫡男よ」
アイシャの言外の言葉に、シルヴィアが頷く。
「…そうですね」
苦笑気味にアルバートが同意した。
審問官は飄々とした顔で、成り行きを見守っている。
大人たちは、おおかたの察しがついている様子だが、生徒には戸惑った顔をしているものが多い。
だからテツは、あえて彼等に問いかけた。
「いたんでしょ?」
テツは、ぐるりと周囲を見渡す。獲物を弄ぶ表情で、笑った。
「欠けた藩王家の代行者になろうとした連中がさ。あとで教えてよ」
つまり。
テツの生存は、そういった野心に満ちた彼等をけん制することになる。
だからこそ、名乗りでなければならなかった。
それとて、テツの最終的な目的ではないが―――――今回の、フェリックス家に対する、<教>の襲撃に、その中の何者かが関わっている可能性も捨てきれない。
アイシャの健康的な紫の双眸に、戸惑いが浮かんだ。
「それが目的だって言うなら、あなたは」
自分でも信じていないような声で、アイシャは言葉を続ける。
「誠実ってことよ?」
テツは鼻で笑った。
アイシャは、今度は怒らない。こういう人間だと知っている、という顔で黙った。
「貴公は先ほど、おれを―――――審問官を待っていた、と仰せになった」
審問官は立ち上がる。
一歩、テツと距離を詰めた。
「その目的以外に、何をお望みです?」
審問官に顔を戻したテツが、口を開いた刹那。
「…あの!」
遠慮がちに、女の声が二人の間に割って入る。
教師のタチアナだ。
書類を胸に強く抱き、何やら決死の表情で提案してきた。
「このような場所では、なんです、からっ」
招くように腕を伸ばし、競技場の出入口をタチアナは示す。
「まずは客室で、お茶でも」
大人の女性らしい気遣いは、―――――テツにとって蕩けそうなほど魅力的な提案だった。
彼の全身は悲鳴を上げている。
いくら防御の力で全身を鎧っていたとはいえ、隕石のような攻撃を受けたのだ。
全身筋肉痛のような症状が、徐々にひどさを増してきている。
座っていいかな、と一番に言いたいところを我慢して、先程からその台詞を二番手に押しやっていた。
理由は一つ。
飄々とした顔で、タチアナを見遣る審問官を見上げた。
最初に彼に感じた、くたびれたサラリーマンという印象は、おそらく正しい。
彼は、多忙だ。
ゆっくりお茶などしている暇は、彼にはきっとない。
この場における彼の役目は終わったのだ。
落ち着き払っているようで、すぐにも立ち去りたがっていた。
次の仕事が待っているのだろう。
常磐仁の長男が、そうだったから、なんとなくわかる。
実に合理的で機械のようで、ただ、ひとあしらいを心得ていたために、冷たい、という評価とはかろうじで無縁だった若僧…いやいや。
なんにしろ、早々に用件を済ましてしまわなければ、彼は即刻立ち去る。
「望むなら」
テツは冷静に言った。
「キミはあとで好意をもらいに行くといい。先に用事を終わらせよう」
返事を待たず、テツは続けた。
「さっきの、キミの指摘だけど」
ヴァリスが、悔しげに呟く。
「未完の禁術ってヤツかな」
妬みの暗雲が渦巻く声を平気で聞き流した審問官の、そぞろに反れていた意識が、真っ直ぐテツに向く。
「…現在の、フェリックス邸周辺の状況は、貴公の禁術が原因、ですね?」
禁術、とは。
単純に、禁じられた術、とも言える。
が、今回の場合、新しく発明された術、という意味合いが濃い。
つまり、構成自体が新しいため、確実な制御ができかねる―――――危険と言うよりは未知の色合いが強い、そんな術式のこともまた、禁術、と呼ばれるのだ。
審問官の反応からして、テツの用件に、仕事に対する以上の好奇心を抱かせることには成功したようだ。
「そうだよ」
ある意味、テツの禁術はもう完成していると言えた。
解除の必要がなければ。
「審問官たちは、構成を読み解けた?」
テツとしては、それならそれで構わない。
自分の労力がひとつ減るのだ。
術式を秘密にする意味などない。
審問官は、首を横に振った。
「解除の道筋は見えるので、試みてはいるのですが、…不甲斐ない話です」
それはそうだろう。
あの禁術は、最終的には、解除を目的として編み上げられている。
ゆえに。
未完、なのだ。
テツは、気のないふりで尋ねた。
「―――――今も?」
問うなり、審問官は耳を凝らすように沈黙する。
何かを凝視するようでもあった。
一拍の沈黙の後、
「はい。複雑極まりないですね」
そうか、とテツは頷く。
解き放たれたように高揚する心を感じながら。
なにせ。
先ほどの、審問官の様子から、ひとつ、理解できることがある。
彼は、学園にいながら、フェリックスの領地を見ることができるのだ。
おそらく、テツの思念石のようなもので。
無論、審問官たちが使うものだ。
もっと上等の代物だろう。
たとえば、映像が記録できるような。
ということは、
「向こうにも、審問官がいるんだよね」
「はい」
「何人?」
「…十数人、といったところでしょうか」
なぜそのようなことを、という顔で、審問官はテツを見た。
一騎当千と言われる審問官が、十を越える人数、フェリックスの領地に集っているとは。
確かに、フェリックスの屋敷が消滅するという異常事態だ。
彼らが黙っているわけはないと予測はしていたが、そこまでの手勢が割かれていたとは。
テツはひとつ頷いた。
「最高の状況だな」
呟けば、ふ、と審問官がテツの顔を見直す。
見過ごしていた何かを見咎めたように。
構わず、テツは不敵に宣言した。
「いいよ、僕が解除しよう」
「は?」
審問官は、一瞬絶句する。
隙を突き、テツは早口に言葉を続けた。
「もともと、そのつもりだった。ただし」
テツは前へ、一歩踏み出す。
シルヴィアと、距離をとるためだ。
直後、ど、と渦巻く神気がテツの身体を取り囲む。
周囲が、唖然となった。
いっきにある方向性を取った、その激しさに。
一番近くにいたシルヴィアは、一瞬瞠目―――――すぐさま、唇を噛みしめた。
両の拳を強く握る。
逃げもせず、その場にとどまった。泣きだしそうな顔で。
その気配に、テツは思わず舌打ちしたくなる。
(もっと怖がらせる必要があるのか?)
テツ自身、制御が難しい力だ。
今のテツの傍にいるのは、自殺行為だと、分からないシルヴィアでもないだろうに。
聡い者は、すぐ察したろう。
この術式の発動はもう、止めようがない。
ゆえに、引き止められる前にテツは動いたわけだが。
内心、うろたえていた。
(うん、これは。――――――本気で制御、しかねる…っ)
解除に必要な術式は、人造生物からの逃走中に編み上げている。
あとはそれを解放するだけ、だったのだが。
予想外に、神気の消耗が激しい。
いや、予測はしていた。
なにせ、テツ・フェリックスの命は一度、禁術のために消えている。
その解除ともなれば、当然同じリスクがあると推察してしかるべきだ。
だが、想像と現実は、落差が激しい。
そもそも、体力が万全でない状況だ。
余計、持っていかれた。
一歩間違えれば、干からびる。
いや、それならそれで。
―――――とことん、つぎ込んでやろうじゃないか。
どっちが先に耐えられなくなるか、勝負だ。
術に、術の創造主が負けたら、格好がつかない。
テツは言葉を絞った。
「約束がほしいな」
「そんな場合ではありません、フェリックス太子!」
審問官は、厳しく告げる。
「このまま続ければ、貴公の命が、」
「舐めんな!」
テツは、一喝。
さすがにもう、余裕は演じられない。
苦痛がにじむ。声に。表情に。
その上で、宣言。
「僕は意地でも、禁術を解除する。それは、審問官の望み通りだろ」
「おれたちが、なにを望むと」
「―――――世界の均衡」
即答に、審問官は息を呑んだ。
狼狽が表情に浮かぶ。
それも一瞬、眉を寄せ、唸る。
「しかし…」
「僕の自業自得だとしても、僕が危険をこうむることをよしとしないなら、約束しろ」
審問官の逡巡に、テツはあっさり、つけ込んだ。
「屋敷にいる<教>の連中を、一人も逃がさないって」
たちまち、審問官が真顔になった。
「生死は問わない。それができないんなら」
テツは冷静に告げる。
「…僕はいまここで、学園もろとも心中してやるよ?」
宥めすかし、脅す。
やっていることは、めちゃくちゃだ。
それだけ、必死だった。
論理より、その懸命さに負けたか、
「心中は止めてください。やくそく…しますから」
審問官は、諦めたように両肩を落とす。
だがテツには、もう話をしている余裕などほとんどなかった。
解除の術式が、ようやく完成―――――直後、フェリックスの領地にある禁術の構成を捕まえる。
無論、ヤト学園と、フェリックスの領地の間には、それなりの距離があった。
とはいえ、こういうものは、実のところ。
距離の遠さなど、大した問題ではないのだ。
捕まえるのは容易―――――ここからは、時間の勝負だ。
なにより。
一欠片でも、合わせ方を間違えればすべてはついえる。
過酷な集中力が必要だった。
「少し、尋ねても?」
アルバートが、不意に声を上げる。
「施行された禁術とは、なんなのでしょう?」
審問官が、渋い表情になった。
神気に乱れる髪をおさえながら、シルヴィアが審問官を見遣る。
「現状において、フェリックスの屋敷周辺は消滅しています。それを為したのがテツくんだということですよね」
「消滅させたのに、誰も殺していないって、どういうこと」
アイシャが厳しい声で尋ねた。
「詰問はかんべんして頂けませんか」
審問官は空を仰いだ。
「禁術に関しては、おれたちも仮説しか立てられていないのです」
「どんな仮説だよ。いいから、話していけ」
ヴァリスが苛立つ声を上げた。
やれやれ、と審問官は首を横に振る。
アルバートへ顔を向けた。
「フェリックス太子は、支配したのです」
気のせいか、現れた時よりくたびれた表情で、ぼそりと告げる。
「時間を」
「つまり?」
アイシャが、息を潜めるように尋ねた。
ある程度の答えを推測した態度で。
シルヴィアが冷静に呟く。
「現状を解として、時間という要素が解を出す問題に加わっているとすれば、それは」
「誰でもいいから、はやく答えろよ」
ヴァリスが喚いた。審問官は、半信半疑ながらも、
「信じ難いことですが…フェリックス太子はやってのけたとしか思えないのです」
わずかな興奮を、言葉の端ににじませる。
その合間にも、解除の術式が、組み合わさっていく。
がちん。
がちん。
歯車のように。整然と。
ただし、一瞬でも気を抜けば、失敗する。
それだけの巨大な神通力が顕現していた。
フェリックスの地に。
フェリックスの、現地では。
危険を察した審問官たちは、一人、また一人、と屋敷跡から距離を置き始める。
すぐそばに奈落が口を開けて待っているのは、目に見えていた。
極度の緊張の中、テツは他人事のように、審問官の言葉を耳にする。
「時間凍結」
その通りだ。
あの日。
テツは、無力だった。
何もできなかった。
自ら招き入れた不幸に、対処できるものなど何一つ持っていなかった。
…なら?
―――――どうすれば、助けられる。
ああ、助けを呼んでいる。
弟が。
妹が。
助けなければ。絶対に。
父と母の、気配がない以上、テツが。
どうすればいい、どうすれば。
今。
たったいま、対処する手段はなにもない。
だからって見過ごすのか。
何もしないまま。
…このまま?
―――――待って。
待て。
進むな。
時よ。
…風よ。
肺腑を抉るような、テツの絶叫が、過去の記憶からこだまする。
―――――――――――とまってろ!
刹那。
―――――リィンッ!
最後の欠片が組み合わさった手応えが、涼やかな音と共に、テツの全身を震わせた。
いや、まだ。
…気を抜くな!
噛みつくように、怒鳴る。
「屋敷跡にいる審問官たちをもっとさがらせろ!」
審問官は、息を呑んだ。
それでも、彼はすぐさま意識を凝らす。
ここではないどこか―――――おそらくは、フェリックスの領地に。
「風が動く…!」
とたん。
清爽な風が、テツを中心に舞い上がる。
無理やり縛られていた鳥が、自由に歓喜し、飛翔していくように。
へたり込みそうになった。
膝に手を突き、こらえる。
「…これは」
審問官が、深刻な声で呟いた。
何を見ているのか、一瞬棒立ちになる。
直後、身を翻した。
「失礼致します。ろくな挨拶もない非礼を、お許しください」
駆け出す背中に、肩で息をしながらテツは言う。
「約束が守られなかったら、地の果てまで追い掛けて報復してやる」
無論、蚊が鳴くような小声だ。
普通に声を出す体力すら、ほとんどなかった。
気付けば、肌触りのいいものが、テツの頬に触れている。
横目にすれば、シルヴィアが、テツのこめかみから伝う汗をハンカチで拭っていた。
泣きそうな顔で。
その、表情に。
「あ」
テツの記憶の淵から、蘇った光景があった。
そうだ。
確かに、シルヴィアとテツは出会っている。ただし。
テツが口にしたのは、ひどい暴言―――――好意をもたれる要素など、欠片もない。
一定期間行われる藩王たちの社交―――――その場に、確かに、シルヴィアもいた。
今より、もっと幼い頃から、愛くるしい容姿の彼女は、よく目立った。
そんなシルヴィアに、かつて、テツは言ったものだ。
―――――醜い笑い方をするなよ、気分が悪くなる。
「…」
それでどうして、近寄りたいと思うのだろうか。
それとも、シルヴィアが望むのは、報復なのか。
思い出したはいいが、テツはますます、彼女がわからなくなった。
一見、おとなしく、気弱に見えるシルヴィア・ゴネットは、頭がいい。
そして、洞察力も優れている。
読み切れないものとは、距離を置くべきだ。
結論し、テツは、シルヴィアの手を押しやる。
首を横に振った。
必要ない、と手の甲で顎から滴る汗を拭う。
ひどい頭痛があった。一日中、全力疾走でもしていたようだ。
かろうじで身を起こし、背筋を伸ばしたが、すぐにも倒れ込みそうだった。
だが、まだだ。
フェリックスの領地のことは、もう審問官たちに任せるほかないが、…あとひとつ。
テツには、やるべきことがあった。
それを為してこそ、ヤト学園を訪れた目的がすべて遂げられる。
「フェリックス太子」
気付けば、頭上からアルバートの声が降ってきた。
「生徒たちが、興奮しています。申し訳ありませんが、今夜も反省室で…」
「アルバート・キルヒス」
厳しく呼べば、優しげな表情で、彼は、はい、と頷く。
「触れを出したい。フェリックスの領地に」
虚をつかれたように、アルバートは眼を見張った。
「映像でも文書でもいい、手配してくれないか」
「…どういった、ご内容で」
さて、地味だがこれが、今日最後の大仕事だ。
「僕は、生まれ持ったこの力で、好き勝手やったわけだ。こんな人間を主に、と望む者がいるかい? よって」
テツは微笑む。
解放感のあまり、ひどく無邪気に。
「僕は領民に、その意志を問う」