虎の兄妹
『聴こえるか?』
環状都市でも、より東端に近い路地裏。
揃って蒼穹を見上げていた銀髪の男女が、待ちかねたように顔を見合わせた。
互いの黄金の双眸に喜色がきらめく。
青年――――クロガネが胸元に提げていた革ひもを首から外した。
その先にぶら下がる深紅の貴石を持ち上げる。
獲物が逃げるのを警戒するような慎重さでそろりと顔を寄せた。
二人、左右から囁く。
「はい、若さま」
『…っ、耳に響く、少し離れなさい』
二人は従順に距離をとった。
仕組みを探るように、クロガネが貴石を揺する。
「これは思念石だろう」
「距離が関係あるのか」
クロガネの逞しい腕にもたれかかり、シロガネが嬉しそうに貴石を見上げた。
『俺はテツの記憶を頼りに行動している。初体験だ、すべて。理解は、試したのちに得る』
「そんな苦労をしてまで他人の汚名を背負い込む人間は若さまくらいだろうな」
クロガネの口調ににじむのは、無垢な賞賛―――――皮肉と紙一重だ。
確実にそれを読み取りながらも、思念石の向こうの相手、仁は動じず応じた。
『テツは自由であっただけだ。あの子には罪も汚名もない』
「その子供が、どんな性質でもか」
『どんな子でもだ』
短髪に太い指を埋め、クロガネは巨大な岩石めいた厳しさで、言葉を続ける。
「若さまの眷属たるおれたちは、あなたがテツ・フェリックスとは別人だとわかる。
常磐仁という―――――異なる世界から訪れた者だと。あなたの記憶を共有しているからだ。
だが、他の者はわからないままあなたを責めるだろう。そう考えるとやりきれん」
『それなりに新鮮だぞ。
やったことのない言動を行い、経験したことのない反応を受けるのは…というのか、眷属は主と記憶を共有するのか?』
「それは、」
テツの質問に応じようとしたクロガネの言葉を、シロガネが遮った。
「周りは子供ばかりだろう。苦痛ではないのか」
『九十歳で大往生したじいさんを舐めるな』
仁は淡々と言葉を紡ぐ。
『息子が三人、孫が…そうだな、七人いたんだ。子供と遊ぶのは嫌いではない』
「遊んでやっているのか」
『肯定したいが、まだあまり関われていない』
「もう二日目だろう」
『テツ・フェリックスが歓迎されると思うか? 反省室にいたよ』
「閉じ込められているのか」
クロガネが軽く目を見張り、シロガネがわずかに身を乗り出した。
「どうだ、テツ・フェリックスの人生などもう投げてしまえば」
『そうはいかない。常磐仁として死んだ後、<あの男>によって死んだテツの身体に放り込まれたわけだが、
俺自身の望みがなければテツの身体に定着することはなかったんだ』
「それが謎なんだが、若さまには、やり直したいことでもあったのか?」
拗ねたように流水めいた長い髪を指にくるくる絡めるシロガネの頭を撫で、クロガネは不思議そうに尋ねる。
まだ十日にも満たない付き合いだが、仁はそんな人物に思えなかったからだ。
もう少し正確に疑問を言葉にするならば。
転生を、しかもこんな中途半端な形で性急に望むだろうか、彼が?
案の定、仁はさっぱり応じる。
『いや? もう、色々と沢山なんだが、単純に、』
言葉を探すように、仁は一拍沈黙した。
苦笑い気味に続ける。
『死に際のテツの姿勢が気に入ったんだ。彼は諦めなかった。最期まで』
シロガネは足元に転がるものを邪魔そうに蹴った。
『…何の音だ』
「足元に死体が転がっている」
シロガネはしれっと答える。
クロガネが付け加えた。
「中央から離れた路地裏は、だいたい、こうだ」
『環状都市は治安が整っているとテツの知識にあるが、完全な理想郷と言うわけでもないようだな。お前たちは大丈夫か?』
「わたしたち兄妹には問題ない。それより」
冷めたシロガネの声が、不意に燃える。
「いつ会える」
クロガネが真顔で頷いた。
「あまり待たせると喰いに行くぞ」
『心しておこう』
仁は、真面目に続けた。
『この綱渡りがうまくいけば、二日後には会えるはずだ』
「では?」
『審問官が来る』
兄妹の顔つきが厳しくなる。クロガネが言った。
「予定通りだな。問題は、」
「審問官が、のるか、」
『そるか、だ』
三人がそれぞれに頷いた直後、
「あ―――――――――――――っ!」
緊張感を打ち砕く邪魔な大声が、路地裏を突きぬける。
クロガネは無視だ。
シロガネは面倒そうに大通りの方へ目を向けた。
「鬱陶しい…」
『どうした』
仁へシロガネが応じる前に、先ほど大声を放ったのと同じ声が響く。
「ようやく見つけたぞ! 旦那がお捜しだ、いい加減おとなしく…」
言葉の合間にも、大通りから複数の男たちが、兄妹のいる路地を覗き込んでくる。
その先頭にいた小柄な男が鼻息荒く叫ぶのを尻目に、クロガネとシロガネは彼等とは逆方向へ駆け出した。
様子を察したか、仁が声を潜める。
『…追われているのか?』
待て! という声と共に複数の足音が兄妹の後を追ってきていた。
あの勢いで追われたら普通は逃げる。
しかも皆、強面だ。
『俺がいない間に、何があった』
「「何もない」」
クロガネとシロガネは声を揃えた。
「この街で、おれたちはまだ何もしていない。…あれは、シロガネへの求婚か?」
「なら遠慮なく蹴るが、兄者のことも追っているぞ、連中は」
仁は、それ以上尋ねなかった。
納得したわけではないだろうが、
『ほどほどにな』
窘めるように告げ、どこか寛容な声で、
『では二日後に』
という言葉を最後に、仁の気配は石から消えた。
つい、兄妹は眼を見交わす。
確実でもないのに、仁は確約の言葉を彼等に与えた。
だが、たとえ状況が許さなくとも、一度した約束を彼は違えないだろう。
彼は、半端をしない。
なにより、彼等が、させるつもりはない。
約定を違えれば、殺してやる。
再び二人は、空を見上げた。
環状都市中央の天空には、巨大な岩石が浮いている。
そこに、ヤト学園はあった。
「環状都市の空に浮かぶ岩石は、神人・ヤトが手慰みに造った玩具といわれていたな」
「玩具と言うには大きいし、遠い」
呟くなり、背後から大きな声が迫ってくるのに、辟易した表情になる。
それでも、と思い直したように言った。
「我慢も、あと二日だ」
自分たちに言い聞かせるなり、二人は悟った。
彼等の主人は、つまり、これを見越していたのだ。
確実な期限を設ければ、兄妹はその間だけでも、忍耐する、と。
実際、それがなければ暇つぶしに惨劇の一つでも起こしてしまいかねない不満が腹の底に沈んでいた。
主がいれば、どれほど凄惨な戦場でも、至福を感じていられるだろうに。
その主人ときたら、彼等の手が届かない場所で、一人、危険に身を投じている。
いや、そんなことはどうでもいい。
問題は、この瞬間、主の傍にいられないということだ。
それだけで、今すぐにも死んでしまいそうな飢えが、彼等を苛んでいた。
だが、彼は約束したのだ。
会える。
二日後には。
歓喜の絶頂が、彼らをいつも以上に、身軽にした。
「では、いつもの場所で」
どちらからともなく囁き、兄妹は別々の方向へ跳躍した。
だが現在、仁が置かれた状況を見れば、二人は我を失っただろう。
仁は、反省室にはいなかった。
学園にはいたが、立っていたのは、外だ。
競技場とも言えるような、整えられた場所で。
―――――彼は、攻撃の標的にされていた。
通信を終わらせた刹那、彼の耳を貫いたのは、癇癪を爆発させた耳障りな幼い怒声だ。
「おとなしく処刑されろよ、ヒトゴロシ!」