少女二人
シルヴィアは、行く先に見える男子寮の屋根を見上げる。
まだ遠い。
先ほどから、一体何度確認しただろう。
けれど、心は弾む一方だ。
なにしろ、あそこにいるのだ。
テツ・フェリックスが。
彼が近くにいる。
いや、シルヴィアが、彼の近くにいられる。
そのことが。
嬉しくて嬉しくて嬉しくて、たまらない。
喜びに、耐えられない。
今日は、待ちに待った休日だった。
ようやく、会える。
自然と、まっしろな頬が淡い色に染まった。
手に提げていたバスケットをそわそわと胸に抱える。
早く会いたい。
先日、あんなことがあったのだ。
寝込んでいると聞いた。心配だ。が、同時に嬉しくもある。
だって。
寝込んでいれば、いくらテツでも外へ飛び出して行けない。
なら、シルヴィアは彼をいくらでも見つめていられる。
それが危険な考えという自覚はあった。
だから、決して口に出しては言わない。
思うなり、隣で、尖った声が上がる。
「うふふ、…って、その笑い方、別にいいけど長いわよ、シルヴィア」
シルヴィアは眼を見張った。いけない。
首を傾げ、隣を見遣った。
ふんわりとした白金の髪をゆらし、恥ずかしげに身を竦める。
「…笑っていた? 私」
「少なくとも、学園歴代屈指の才女が聞かせる声じゃなかったのは確かね」
つん、と不機嫌に顎を逸らしたのは、アイシャ・オーズ。
<女帝>の二つ名を持つ同級生だ。
傍系のシルヴィアとは違う、オーズ藩王家正統の血統の持ち主だが、それを鼻にかけることなく、シルヴィアと接してくれる。
誰にでも平等だ。
シルヴィアは慌てて首を横に振った。
「『天才』は、ライくんみたいなひとだよ?」
アイシャの言葉尻を捕らえ、にっこりと話を逸らす。
ライ・ガユス。
ガユス家の次期藩王に不可能はない、と世間に言わせるほど万能の人物だ。
<王>の二つ名にも素直に納得する。
相対すれば、彼こそ『本物』だと誰にでもわかった。
ライ・ガユスは存在だけで、万人を説得できる。
次元が違った。
「私程度の成績じゃ、才があるなんて言えないよ」
ヤト学園へ入学できるのは、藩王家の子息は基本的に十歳からだが、一般募集は、八歳からだ。
シルヴィアは一般人として入学した。
いつか藩王家から自立するために。
血の薄い傍系の立場で、藩王家の人間としての入学は、気がひけたからだ。
それでも、彼女がこれまで好成績をおさめられたのは、藩王家の教育の成果だろう。
とはいえ、他の藩王家の子息たちが入学したのだ。
今まで通りにいくわけがない。
シルヴィアは変わらず、コツコツと続けていくだけだ。
彼女の行動は、基本的には地道な努力の積み重ねである。
華やかな、他の子息たちとは違う。
藩王家の子息の入学が十歳からである理由は、学園へ行かなくとも、それなりの教育を領内で施すことができるからだ。
中には、入学せずとも良い、と考える傾向もあった。
それでもヤト学園へは藩王家の人間がやってくる。
理由は、ひとえに人間関係の構築に役立つためだ。
ライやアイシャなら、学園への入学を希望しても、不思議ではない。
より正統の名に相応しくあろうとしている彼等は、勤勉だ。
ただ、ディン家のヴァリスやコウガは意外だった。
より以上にあり得なかったのは。
―――――テツ・フェリックスだ。
彼の性格が問題なのではない。
もちろんシルヴィアとて、テツが問題児だというのに反対はしない。
ただ、今回の場合、一番の問題は、彼の弟妹にある。
試しに、大人たちの前で、フェリックスの三兄弟、というお題を出してみればいい。
ああ、と頷いた彼等は、小一時間は優に話し続けるだろう。
話題が尽きることはない。
彼等はちょっとした名物なのだ。
強大な神通力を持つフェリックス兄弟は、性格の活発さもあり、目につく。
力の操作に一日の長を持つ長男は、弟妹の面倒をよくみていた。
結果、強力な弟妹の力の安全弁の役割を果たしている。
そのせいか、フェリックスの長男に対する下の弟妹の信頼は厚い。
慕い方は、傍から見て冷や汗をかくほど盲目的。
この兄弟が、果たして一日でも離れていられるか?
―――――子供の目から見ても、危ういと言わざるを得なかった。
それこそあの弟妹は、幼い力を暴走させてしまうのではないだろうか。
よって、フェリックスの長男は、学園に入学しない。
それが、各藩王家の一致した見解だった。
というのに。
…テツは、来た。
嵐を引きつれて。
正直なところ、シルヴィアにとって、彼が抱えた事情はたいした問題ではない。
彼女は、テツを見ていられたらそれでよかった。
生きていてくれたら、それだけで。
彼の姿。
声。
行動―――――すべてが、シルヴィアにとっては、引力だ。
意識をごっそりさらわれる。
それ以外の、それ以上の、何が他に必要だろうか。
テツを、あんなに近くで見られるとは思わなかった。
ましてや、言葉を交わせるとは。
他のいっさいが、それだけでどうでもよくなる。
アイシャは半眼でシルヴィアを横目にした。
「…その台詞、嫌味にもとれると言ったはずね、わたくし」
シルヴィアは空色の瞳を瞬かせる。
どこかで、聞いた覚えはある。
だが意味がよく分からなかった。
「ごめんなさい」
ひとまず、謝罪する。
きっと、シルヴィアが悪いのだろう。
特に自己主張する意見を持っていない彼女は、あっさり折れる。
アイシャはため息をついた。
「それが貴女だって知ってるから、わたくしはいいけれどね…」
彼女は顔を上げた。
木々の合間から男子寮の屋根が見える。
「折角の休日に、あんなヤツに会いたがる感覚だけは理解できそうにないわ」
「アイシャ」
シルヴィアは、友人の顔を、そっと覗き込んだ。
ライと一緒に立っていても見劣りしないという、とびきりの輝きと鋭い美貌が眩しくて、つい目を細める。
「テツくんはいいひとじゃないけど、誠実だよ?」
アイシャは渋々、頷いた。
「認めるわ。ただし、悪い方向に誠実ってことにね」
苦笑したシルヴィアの脳裏に、遠い日のテツの言葉が響く。
―――――醜い笑い方をするなよ、気分が悪くなる。
彼はかつて、シルヴィアにそう言った。
そのとき、身体が震えた。
彼が怖かった。
怯えた。
ただし。
侮蔑されたとは思わなかった。
テツの顔にあったのは、途方もない呆れ―――――間違ったものを見つけたような違和感しかなかった。
ゆえに、シルヴィアは確信した。
―――――見透かされた、と。
からっぽの自分を。
シルヴィアは、認められたかった。
藩王家に。
…傍系とはいえ、藩王家の者としてお前は相応しい、と。
―――――居場所が、欲しかったからだ。
シルヴィアは、旅芸人の母親に連れられ、それぞれの都市を転々としたが、北方の街で、母親は呆気なく息を引き取った。
手玉に取ったはずの男に短刀で、百回以上全身を刺し貫かれるという恨みのこもった殺され方をした。
その光景を、シルヴィアは見ていた…らしい。
じつのところ、あまり覚えていないのだ。
何がどうなったのか、気付けば、藩王家の使いというひとが、シルヴィアに手を伸ばしていた。
―――――君の身体には藩王家の血が流れている。
これから外へ放り出されたら野たれ死ぬだけだ、なら、自分を試してみないか、と。
唆す声は、彼女を道具としてしか見ていなかった。
察しながら、シルヴィアはその言葉に縋った。
もう振り回されるのは嫌だった。
ならば自分ですべてを選ぼう。
道具として見てくる相手など、踏み台に使ってやる。
道具となるのが嫌ならば、本物になればいいだけだ。
そのために。
傍系のシルヴィアが藩王家に認められるために。
彼女は、自分で自分を殺した。
嘘に嘘を塗り重ね。
努力の名の下、本当に欲しいものから目を背けた。
そのうち、いつしか。
―――――シルヴィアは、本当の自分を見失った。
テツの厳しい言葉は。
彼の、眼差しは。
罪、と言っている気がした。
今なお、本物の自分を殺し、ニセモノであり続けるシルヴィアの行動を。
おそらく、彼は。
シルヴィアが本音で相対すれば、…あんなことは、言わなかったに違いない。
本物なら、たとえ無様で醜かったとしても、彼は肯定してくれた。
きっと。
テツに厳しい事を言わせた本当の原因は、シルヴィアの側にある。
けれどもう、シルヴィアは、自分が真実何を望んでいるのか、分からない。
ただ。
他の何を見失っていたとしても、彼に対する感情だけは―――――テツに関することだけは、シルヴィアに嘘はなかった。
彼に対するどんな気持ちもシルヴィアには新鮮で、楽しい。
なにしろ、これは紛れもない、シルヴィアの本音だからだ。
テツといれば、自由でいられる。
自由に、なれる気がした。
もしかすると、…シルヴィアは、取り戻せるかもしれない。
踏み潰し続けた、本当の自分自身を。
「私なら大丈夫だよ」
なのに、アイシャはシルヴィアが心配だからついていく、と言った。
テツなど信用できるか、二人きりにはできない、苛められる、というわけだ。
テツの行動を評する場合、苛める、という言葉は生易しい。
やるなら彼は、容赦なく徹底的に傷付けてくる。
アイシャはシルヴィアを、そんな、テツという凶器から守ろうとしているわけだ。
気持ちは嬉しいが、アイシャが案じるようなことは、ぜったい起こらない。
シルヴィアは、テツが与えるものなら喜んで受け入れる。すべて。
たとえかなしみであっても。
無論、アイシャがシルヴィアを案じてくれるのは、ありがたい。
ただ、それだけ、アイシャの目には、シルヴィアが頼りなく見えるのだろう。
それは否定しようもない事実だ。
よって、あまりシルヴィアも強く出られない。
「大丈夫って…何を根拠に。でも、そうね、―――――」
アイシャは、おとなびた仕草で髪をかきあげる。
難しい表情は考え込んでいる証拠。
こういうとき、同性のシルヴィアでもふと目を奪われてしまう。
だから正直言えば、あまり、アイシャをテツと会わせたくはない、という本音もある。
テツの目をアイシャに向けてほしくない。
なにより、アイシャにテツを見てほしくなかった。
ただでさえ、アイシャはうつくしいのだ。
容姿だけでなく、気質も。
その凛とした潔さが、すべてににじみ出し、周囲を魅了する。
真っ直ぐゆえの不器用さも、アイシャにかかれば彼女特有の愛らしさに代わるのだから、ずるいとも思う。
なのに。
シルヴィアが焦がれても決して手に入れられない正統である自信に溢れたアイシャは、その魅力的な紫の瞳に好奇心を浮かべ、こんなことを言いだした。
「確かに、今まではヤツを敬遠していたところがあるわ」
反省するような語調。
思わず、え、とシルヴィアは顔を上げた。
「表面に見える部分だけで判断していたけど、先日の行動を考えるに、どうも考えていたのとは違っているみたいよね。そこは、認めるわ」
アイシャはひとつ頷いた。
なんとなく、シルヴィアは身を竦める。
待って。
そんなふうに、考えてほしいわけではない。
テツへの考えを、思い直してほしいと思っているわけではなかった。
改めて、テツを見てくれ、などとは頼んでもいない。
むしろ、いやだ。
というのに、
「同じ学園に入るのは、いい機会よね」
気持ちを切り替えたように、さっぱりした顔でアイシャは言う。
だめ。
いや。
やめて。
咄嗟にどう制止するかわからなくなったシルヴィアを置き去りに、アイシャは続けた。
「色々知りたいと思――――」
「ダメ!!」
気付けば、信じられないほど大きな声が、シルヴィアの唇から飛び出していた。
得体の知れない激情に、全身が戦慄く。
唇が、震えた。
思わず強く引き結ぶ。
アイシャが振り向いた。驚いた目が、シルヴィアを映す。
シルヴィアも、驚いた顔をしていた。
自身でも予測しない大声だったのだ。
振り向いたアイシャが立ち止まったことで、シルヴィアも自分が立ち止まっていることに気付いた。
すぐ、ごめん、と謝れたらよかった。
脳裏の浮かんだのは、その言葉だけだ。
だがどうしても、謝罪する気になれない。
目が、泣きだしそうに潤む。
きっと、みっともない顔になっている。
そんな表情で、どうしても、アイシャを睨むのを止められない。
力なく睨みながら黙りこんだ友人に、いつも強気のアイシャが、困ったように言った。
「心配しなくても、シルヴィア」
シルヴィアは、どうにか息を吐きだす。
知らない内に、息をつめていた。
そうしたら、今度はうまく息を吸えなくなる。
困った。制御が、できない。
感情に、揺さぶられて。
アイシャが言いにくそうに言葉を続ける。
「藩王家の血筋同士は、結ばれないわ」
知っている。シルヴィアは頷いた。
気遣うように、アイシャは口を開く。
「わたくしだけじゃない。貴女だって、そうよ。傍系とはいえ、貴女の力は強いのだし」
藩王家同士の婚姻は、禁忌だ。
世には、藩王家同士の結びつきは希薄に保たれるべしとする風潮がある。
理由は、はっきりしていた。
第一に、藩王家の一方が他家に吸収されるのを防ぐため。
第二に。
一部藩王家同士のつながりを強くして力の均衡を崩すのをよしとしないためだ。
直後、アイシャは面食らった。
シルヴィアが、空色の瞳を、大きく見張ったからだ。
「まさか、と思うけど」
アイシャは眼を瞬かせた。
「…結婚を、考えたことはなかったの?」
シルヴィアは勢いよく頭を横に振る。
思わぬ方向から突風でも受けたと言わんばかりに。
唖然と尋ねた。
「テツくんと、だよね」
「でも、好きってことは、最終的にそうなるわよね? 藩王家には婚姻のしきたりがあるんだし」
「そうだけど」
二人の少女は、ようやく認識の差に気付いた。
お互いの顔をまじまじ見直す。
この世界において。
結婚という制度が適用されるのは、藩王家のみである。
それもそのはず。
家督を相続するには、両親がはっきりしている必要があるからだ。
裕福な商人や、官の家庭でも、結婚が推奨されてはいる。
が、結婚という法は存在しない。
よって、子供たちは、自分を産み落とした母親のことなら知っているが、父親が誰かを知るものは少なかった。
父親の存在は、あまり重要視されないのだ。
一般的に、人々の生活は、地域ごとの自治体によって保たれる。
そこに集う人々は全員でひとつの家族だ。
結婚はないが、恋愛はある。
一定の禁忌はあれど、男女は好きなように交わり、好きなように別れる。
必要なのは、子供をつくる許可だけだ。
そうやって、自治体全体で、子供たちの世話をする。
ゆえに、結婚という概念は、一部の階級だけのものだ。
実のところ、そこに『恋愛』という感情は絡まない。
儀式、あるいは契約というイメージが強い。
ある意味での束縛だ。
どちらかと言えば庶民的な感覚の強いシルヴィアには、結婚は他人事という印象がある。
今回のことで、それがはっきりしたわけだ。
とはいえ。
アイシャが眉を潜める。
「残念だけど、シルヴィア。貴女くらいの力があれば、この先」
「理解はしてるよ。でもテツくんとはつながらなくて」
テツを、束縛などできない。だれ一人。