王
居心地が悪い。そのとき。
「…騒がしい」
無視し難い声が、通りに響いた。
そう、通り、だ。しかもここは、都市の中でも大通りとも言える場所と思われる。
周囲を見渡し、どうにか、テツは状況を把握した。
いるのは警邏隊だけではない。
先ほどただ野次馬と認識した一般市民も多数―――――騒動の成り行きに注目している。
その、全員が。
「何事だ」
先ほどの声がもう一度するなり、完全に静まりかえった。
…さもありなん。
音もなくその場に進み出た存在は、立っているだけで、彼は『特別』なのだという説得力を持っていた。
面の奥に見える目は緑。
髪はまるで、太陽の黄金。
内心、テツは肩を落とす。
会ってしまった。
コウガの声が、脳裏に響く。
―――――ライ・ガユス太子も今日は外出してるってよ。
彼こそ―――――次代のガユス藩王だ。
市民の何人かが、わけも分からず狼狽しているのが見て取れた。
落ち着かないに違いない…ライを前にして、立っているのが。
おそらく、ああいったタイプの人間は、跪けば落ち着くだろう。
ライには、そういった気分にさせる何かがある。
この特有の雰囲気と威圧でまだ十歳と言うのだから、藩王家は底知れない。
彼はざっと周囲を一瞥し、最後にテツに目を止めた。
「テツ・フェリックス…<歩く災厄>か」
フルネームで呼んだ理由は、周囲にテツの身分を知らしめるためだろう。
特に、フェリックスの問題児だと注意を呼び掛けているわけだ。
野次馬が、更にざわつく。
彼等を無視して、テツはライに対して、わざとらしく折り目正しい礼をした。
「これはこれは、ライ・ガユス。相変わらず、<王>の呼び名に相応しい風格だね」
仕返しとばかりに、フルネームで呼んだ。
久しぶり、と上げた目は親しみとは程遠い。
問題児のテツと、すべてが正統のライ。
水と油だ。そもそも。
ライ・ガユスという人間は、ただ合理的に考え、行動する。
彼の持論と照らし合わせた結果、テツの言動には無駄しか感じないのだろう。
曰く、平地に乱を起こす。
テツ・フェリックスという人間は、平地なんてつまんない、という考えだ。
よって、昔から何かと、二人の間には意見の衝突が絶えない。
テツの言葉には応じず、ライは平坦な声で命じた。
「学園に戻れ」
テツはこれみよがしに手で耳を塞ぐ。
端的に言えば、ライは優等生の級長だ。
教科書通りのことだけを盲目的に信じ、実行し、疑問を抱きもしない。
「僕を邪魔する権利は君にはないよ」
誰にもない。
ガユス、フェリックス、と藩王家の名が市民の口からこぼれ、渦巻く中央でライは静かに告げる。
「迷惑だ」
ライは基本寡黙で、言葉が端的過ぎる。
だが、付き合いの長さのせいか、テツにはある程度、読み取れた。
つまり、テツの存在は、皆にとっての迷惑だ、と。
ライは面と向かっていったわけだ。
相変わらず、歯に衣を着せない。
ライのそう言うところは、情がないという者もいるが、テツは気に入っていた。
よほどいい。嘘やごまかしを言われるよりは。
どう返すか、とテツが両手を耳から下ろしたとき、ライは静かに付け加えた。
「二日前のことも」
「へえ?」
二日前。
ライもあの場所にいたのか。
ところで。
今ライは、何を指して二日前、と言ったのだろう。
競技場での件を言っているのか。
禁術のことを言っているのか。
―――――一拍置いて、テツは開き直る。
よし、ヴァリスの件に絞ろう。
「僕は誰にも迷惑かけてないよ。やったのはヴァリスの甘ったれでしょ」
「相手の卑怯さに」
ライは言葉を続ける。
「捨て身で向き合ってやる必要などない」
おや、と少し仁は首を捻った。
その台詞はまるで、ライがテツの身を案じていたようだったからだ。
ともすると、ある意味で、ライはテツを認めているのかもしれなかった。
テツがライを認めているように。
「えぇー? でも、さあ」
テツはライに大股で近寄った。身を屈める。顔を下から覗き込んだ。
「避けようなんてないし。誰かに助けを求める方が迷惑でしょ。ライはさ」
挑発的なテツの態度にも冷静さを崩さず、ライは彼を見返した。
「僕が助けてーって言えば、助けてくれたってことかな? 僕にそんなみっともない真似しろって? いや、それとも」
嘲るように言葉を続けた。
「助けを求められない限り助けないのかな、君は?」
ライは何も言わない。
顔の中で唯一見える口元は、静かに引き結ばれている。
それを真っ直ぐ見詰め、テツは大きく息を吐きだした。
「卑怯を許せないのは、君の問題だ、ライ」
とたん、ライは何かを言おうと口を開く。
面倒そうにテツは手を横に払った。
「僕は卑怯な手段を認める。ただし、覚えておいてほしいな」
無理やり立たされた男が青い顔をしているのを横目に、テツは微笑んだ。
悪意を隠さず。
「認めるってことは、僕も卑怯な手段を使うことを臆さないってことさ」
淡々と、ライが呟く。
「死にたいのか?」
まさか、と鼻で笑ったが。
確かに。
二日前といい。
先ほどといい。
まるで死にたがっているようだな、とも思う。
そんなつもりはない。ただ。
テツは素っ気なく言った。
「生きていたいと思ったら、こうなった」
死んだように生きるのは、嫌だ。
死にさえ怯えたくない。
その言葉に誰かが息を呑んだ。刹那。
テツとライは、揃って空を見上げた。否。
すぐ近くの建物。
屋根の上。
複数の人影が見えた。
彼等の手元には、弓。
矢が番えられている。狙いは。
ここ。
間髪入れず、神通力が発動―――――ライのものだ。
それらが頭上に結界を張る。
矢の雨が降ったのは、それとほぼ同時。
視界の端で、警邏隊が瞬時に散開―――――直後、ようやく危険に気付いた市民たちの悲鳴が上がる。
子供を庇う母親。
安全な場所を必死に目で探す男。
頭を抱えて蹲る少女。
彼等の頭上、厳格な声が走った。
「守れ!」
リュウだ。
それだけで、人々の顔に、安心の輝きが宿る。
生半可の信頼ではない。
それらを横目に、テツはと言えば―――――なにもしなかった。
こう言う場合、ライが動くのは確実だ。
テツが動けば、むしろ邪魔になる。
警邏隊たちも、間違いなく仕事をこなすだろう。
ゆえに、テツには周囲を観察する余裕もあったわけだが。
―――――ひとつ、見落としていたことがあった。
矢の雨は大半が、ライの結界でへし折られた。
それでも抜け落ちたものは、警邏隊が取りこぼしなく始末する。
それらを見届けることなく、屋根の上の連中は大半、踵を返して駆け出した。
ところが。
たった一人。
状況を最後まで見届けた者がいた。
テツがその人物に目を止めた、直後。
―――――ふヒュっ。
そんな音が、耳元を掠める。とたん。
「が」
あがるなり、ぶつんと途切れた声に、テツは見落としに気付いた。
相手の狙いだ。
振り向けば、案の定。
テツを人質に逃げ惑っていた男が膝立ちの状態で、不自然に仰け反っている。
その眉間には。
突き立つ、矢。
(トカゲの尻尾切り)
本当の狙いは、こちらというわけか。
気付いた何人かが、一瞬呆気に取られた。そんな中で。
あくまで、冷静に動いた男が一人。
屋根の上、最後に背を向けた相手に、彼は矢をつがえた。
警邏隊の隊長・リュウだ。
地面の上、背中から倒れ込む遺体には見向きもせず、無表情に矢を解き放った。
飛び立つその凄絶な勢いに、テツは瞠目する。
思い出したからだ。
この街に訪れた日を。
矢の行方よりも、彼の横顔を見つめれば、解き放たれた矢がどうなったか、読めた。
仕留めそこなったようだ。
それでも、手傷は負わせた、と言ったところか。
ついで、テツは足元で息絶えた男の遺体を見遣る。
「…根性ないなぁ…」
なに簡単に死んでんだ、というのは、酷だろうか。
この男、あれだけ逃げ回ったわりには、真剣に命にしがみついていなかった気がする。
「僕を殴った報いを受けさせようと思ってたのに。殺されちゃうなんてさ」
怒りはない。
ただ、気分的に少し疲れた。
「テツ」
呼びかけたライが、首を横に振る。
これ以上は関わるな。そういうことか。
「戻れ」
「聞けないな」
危険が去ったためだろう、不思議と気が抜けたその場で、テツはライの言葉を一蹴―――――顔を上げ、低く、呼んだ。
眷属を。
「早くおいで」
声を張る。
「僕は走りたい」
街に降りてから、見守る眼差しには、気付いていた。
これだけで、きっと彼等に届く。
思うなり。
ふわり、柔らかな銀毛が視界を掠めた。
足音も、気配すらなく、二頭の虎が、頭上から舞い降りる。
喉を鳴らし、テツに額をすりつけた。
突如、大通りには、時間が止まったような沈黙が落ちる。
テツは二頭の眉間辺りを撫で、ひょいと身体の大きな方の背に跨った。
「悪いね、ライ。僕、ちょっと殴られたんだよ、その男に」
がっしりと安定した銀虎の背から、テツはライを見下ろす。
「もちろん、報いを受けさせるつもりだった。なのに、殺されちゃったわけ。だから」
目を細め、テツは茶化すように続けた。
「殺した相手に代わりに報いを受けてもらおうかなって気分なんだよ、今」
ライは何も言わない。
代わりに、納得した沈黙が返った。
ライは四角四面、教科書通りの人間だが、むやみやたらと反対する者ではない。
己のそれに反しない考えには、素直に賛同する。
どうやら、ライも報復の男らしい。
藩王家の面子というヤツが問題なのだろうが、仁から見れば、容赦を覚えてほしいところだ。
テツは顔を巡らせ、リュウに目を向ける。
彼はしずかに見返した。
少なくとも表面上は、虎に驚いている様子はない。
テツは小さく笑った。
「僕が街に訪れた日、助けてくれたのはキミだね」
都市に入るなり、追手を射抜いた矢を思いだす。
確信があった。
あれは、彼だ。
「ありがとう、感謝する」
先ほどとは違う、流麗な物言いで礼を口にする。
返事も待たず―――――クロガネの首筋を軽く叩いた。
間髪入れず、銀虎は予備動作なく跳躍。
テツは、瞬く間に、屋根の上にいる。
遠くに、去っていく人影が複数見えた。
背にシロガネの気配を感じながら、彼等を指差す。
「さ、追いかけっこだ。今日は、僕らが鬼だよ」
面を外した。
人目はもうないのだ。テツを演じる必要はない。面は邪魔だ。
おやすみ、テツ・フェリックス。
後始末は常磐仁に任せてもらおう。
露わになった顔を、風が撫でていく。
この街に訪れた日のように。
機嫌よさそうに、クロガネとシロガネが小さく喉を鳴らした。
仁として、落ち着いた声で命じる。
「行くぞ」
直後、しなやかな疾走がはじまった。
丁度、同時刻。
学園に、とんでもない報がもたらされていた。
「―――――あの日使われた禁術は、二つです」