警邏隊
ばかげた因習は、どの世界にもあるようだ。
この世界にも数多存在する。
そのうちの、ひとつ。
貴族階級の人間が街中を歩く時は、面を着用する。
こんな仮装まがいのことが、当たり前の決まりごとらしい。
理由は、顔を見せることをもったいぶっている―――――わけではない。
もちろん、そう勘違いしている者も多い。が、もっと実際的な問題がある。
個人が有する実戦力の差だ。
特に藩王家の人間ともなれば、一騎当千どころか人間兵器と言い換えられる力の持ち主だ。
面は、襲った者の無事は保証できないぞという脅し、ないしは警告の作用を果たす。
ただし、その目立ちようはある意味広告塔のようなもの。
身分を大声で宣伝して回っているのと同じだ。
むしろ、あえて狙われる場合もある。
小さな危険は、事前に排除できる。
ただし、大きな危険に対してはかかってこいという挑発になった。
とはいえ、大きな危険を自力で排除できてこその後継だ。
そう言った危険は力試しの試金石とされる見方もある。
それらはさておき、面を被ることに関して、テツ・フェリックスの見解は。
(面倒くさい)
他人がすれば指差して笑う。
自分がするとなると非常に手間だ。
もし、これが仁であるなら。
我慢の選択をする。自然に。
ともすると、しきたりというだけで、疑問を感じることなく従うかもしれない。
ただし、こういう時の仁の意識は、完全に、物見だ。
テツならこうするだろうと掴んでいる感覚を止めるつもりはない。
テツは、無造作に、転移門から足を踏み出す。
帯から提げていた面を手に取った。
卒業生が置いて行ったというものの中から拝借したものだ。
持ってこなければよかったのだが、長年の習慣とはやはりばかにならないものだ。
自然と手にとってしまっていた。
中でも特に醜悪と感じたものを選んだ―――――その辺りが、テツのひねくれた性格が表れている――――わけだが、それでもまだこぎれいなイメージがある。
つけると何かが変わりそうで、わくわくする、と言った感覚はない。
そう言ったものを感じないと、どうも、無駄なことをしている気がする。
テツは、面を見下ろし、しばらくまごついていた。
…気がそぞろだったのは、間違いない。
上の空で突っ立っていると、いきなり耳元で、野太い声が響いた。
「―――――ついて来い!」
直後、腰を掻っ攫われる。足が浮いた。
気付けば、丸太めいた腕に荷物のように小脇に抱えられている。
認識と同時に、周囲の景色がすごい速さで後ろへ流れ始めた。
テツを抱えた相手は、限界までの全力疾走に挑戦しているらしい。
虎の兄妹には負けるが、テツの未だ小さな手足から考えれば、速いものは速い。
ただ、地面を蹴る衝撃が、一歩一歩、腹に伝わるのが気持ち悪かった。
内臓が揺れる。
身体の位置を調整しつつ、テツは不安定な体勢で面を被った。
これだけ賑やかに走っていれば、注目されているに違いない。
ならば、面をつけるしかなかった。
場所を変え、少し立ち尽くしていただけでこれだ。
絶えないトラブルからの求愛にうんざりする。
何も常に命の危険がついて回らなくてもいいだろうに。
それにしても。
世界でも有数の、平和で統治された街。
それが、この環状都市―――――のはず、だが。
評判は、準備された武力の賜物というのが、真相なのかもしれない。
警邏隊が整然とした動きで移動しつつ、包囲網を狭めていくのが分かった。
噂通りの、有能な働きだ。
(市長のウィル・フィーリーはやり手って噂だしな)
すくなくとも、警邏隊を指揮する隊長がスゴ腕なのは間違いない。
テツを抱えて走る男が、敵対するには、残念なほど無能と言うことも。
刻一刻と、男は面白いように追い詰められていた。
自ら罠にはまっていくように。
正直言って、逃げる男にとって、テツは重荷以外の何物でもない。
それでも抱えて走るのは、いざとなれば警邏隊を威嚇する人質として使おうという魂胆以外の何物でもなかった。
果たして。
この街の警邏隊が、役目でも信条でもいい、最優先事項としているのは何だろう。
犯罪者を仕留めることか。
どこの誰とも知れない子供の命を優先することか。
甘い考えは、最初から捨てておかなくてはならない。
人質となった子供など、尊き犠牲として見捨てられる可能性の方が高い。
テツの記憶を見る限り、この世界は意外とシビアだ。
どうすれば、最低限、五体満足で事態から逃れられるだろう。
転移門から出るなり、虎の兄妹の存在は感じ取っていた。
つかず離れずの距離を保って、彼等もついてきているのは分かる。
さて、テツはまだ死ぬわけにはいかない。
いつものことだが、まずは状況を理解しなければ。
はっきりしていることは、ひとつ。
この街の正義は警邏隊だ。
彼等の正義がだれにとっての正義かは知らないが、つまり、彼等に追われる男は悪者。
少なくとも、被害者ではない。
なら?
テツは、わくわくと声を弾ませた。
「キミ、どんな悪さをしたんだい?」
無礼、不躾、厚かましさは、万人共通のテツに対する初見だ。
それによって、相手がどう出るか、をテツは見たがる。
ライオンが、獲物相手にまずは一吼えするようなもの。
結果、どんな反応をされても、自業自得だ。覚悟はある。
その上、正直言って、テツは、偉大な正義などには興味がない。
関心があるのは、小悪党の姑息な手段の方だ。
興味は純粋なものだったのだが…やはり、相手が悪い。
刹那、―――――こめかみに衝撃が走った。
脳が揺れる。殴られた。一瞬遅れて、理解する。
血が流れた気配はない。
なら、たんこぶができるか、あざができるか…。
冷静に考える端から、頭上に怒声が降った。
「黙ってろ!」
意識の奥で、仁はため息をつく。
―――――やったなぁ、坊主…。
テツなら、念入りに仕返しせずには終わらせない。
つまり、この男は今終わった。
同時に、彼について、またいくつか、理解する。
子供相手にほとんど加減しない暴力―――――つまり、遠慮しなくていい相手だ。
これは、朗報といえる。ただ。
残念なことに、会話が成り立ちそうになかった。
男は完全に、パニックを起こしている。
これは困った。情報を引きだせない。
他人事のように考えるなり。
がつがつと地面を蹴っていた男の足が、唐突に止まった。
全身の筋肉を使って急停止―――――直後。
「わ」
テツの身体を振り回すようにして、男は子供の身体を盾にする。
間髪入れず、テツの首筋に刃物を押しあてた。
そして、常套句。
「オレに近寄ればコイツを殺す」
テツは顔を上げる。
数歩先に、警邏隊の制服を着た男が数人立っていた。
黒をメインに構成された仕立ては、身にまとうだけで気を引き締めるだろうと思わせる洗練されたデザイン―――――かと言って動きやすさも忘れられていない。戦闘のための衣服であることは見間違えようもなかった。
つまり、着て立っているだけで絵になる。たとえ凡庸でも男前に見せそうだ。
揃いの制服を身につけ、それぞれ異なる得物を手にした男たちは、テツと男を見比べる。
とたん、一様に困惑を浮かべた。
彼等は、揃ってちらと背後を一瞥する。
「どうしましょう、リュウ隊長」
誘われた気分で、テツはさらに視線を上げた。そこには。
厳しい顔立ちの男がひとり、黙然と立っている。
精悍。
ただし、目つきが鋭すぎる。
普通なら、まずは眼を逸らしたくなるだろう。
これは、安穏とした暮らしの中で培われるものではない。
となれば。
―――――彼は、戦士階級の生まれだ。
教師のアルバートと同類。
タイプは随分異なるが。
彼はテツを一瞥―――――わずかに瞑目し、男に視線を戻した。
よく通る声で男に尋ねる。
「貴様、承知の上でその方を人質にしているのか」
深みのあるいい声だ。
ただ、静けさの中に猛烈な凄味がある。
一瞬、テツの身体に鳥肌が立った。
テツを拘束している男はと言えば―――――一瞬ナイフを取り落としそうになった。
強面に浮かんだのは、抑えようもない恐怖。
じわじわと身にしみてくる力量の差が、津波のような絶望を彼に運んだ。
目を合わせているのも苦しいが、逸らすのも恐ろしい。
と言って、言われたことを理解しないでは反応のしようもない。
男はうろたえた態度で、それでもどうにか盾にした子供を見おろした。
テツはあえて冷静に顔を上げる。
とたん。
面の向こう、男の小さな目がいっぱいに見開かれた。
パニックにパニックが上塗りされる。
残念なことに、荒療治は冷静さより混乱の渦を加速させたようだ。
男は、何かを誤魔化すように早口で言う。
「知ってるさ」
テツを抱えた腕に、不必要に強い力がこもった。
胸が圧迫される。
息苦しさに、テツは少し呻いた。
一捻りできそうな子供の姿に、無力さを見たのだろう。
男は自信を取り戻した顔で、警邏隊に目を戻した。
「ただのガキだ」
男は現実から目を逸らす。
事態の危険と複雑さは増した。
それは、事態の停滞の予兆でもある。
テツはいっきに白けた。
いつまでこの茶番が続くのか。
―――――面倒だな。
思ったテツは、無邪気に声を張った。
「へーえ? すっごいね、オジサン」
邪気たっぷりの笑みに口元を歪ませて。
テツを拘束している相手は、仁なら兄ちゃん呼ばわりする若造だ。
だが、テツから見れば相当の年上―――――オジサンと呼ぶのが妥当だろう。
「僕を殺せるつもりなんだ」
挑発的に、喉で笑った。
「どうやって?」
「うるせえぞ」
返された低い恫喝は、慣れを感じさせる。
堂に入っていた。
「この状況で何言ってやがる」
逃れることすらできないくせに、と首筋に押し当てられた刃物の切っ先が、テツの皮膚を微かに破る。
「おい」
リュウと呼ばれた男が、警句を発した。
子供の傷に、警邏隊の男たちがにわかに殺気立つ。
テツは面の下で目を細めた。
「あっは、ムリムリ、できっこないよ」
白痴めいた笑いを言葉の奥に潜ませ、テツが放った台詞は、周囲すべてに向けたものだ。
集まる野次馬にも。
警邏隊にも。
…拘束する男にも。
テツの言葉は、全員の燃え立つ意識に、水を浴びせた。
皆が動きかねているというならば。
―――――テツ自身が動くしかない。
「だって、オジサンさ、」
テツは、誰かが救ってくれるのを座して待つ人間ではなかった。
なにより、隙がないというならともかく、男は隙だらけだ。
特に、精神的に。
彼はまだ、迷っている。
ならば、決意が定まる前に―――――拘束の下、テツは思い切りよく動いた。
「度胸ないでしょ」
冷徹に呟けば、
「ぅ…、わああああ!」
刹那、絶叫した男は短刀とテツを、とんでもない爆弾のように投げだす。
それもそのはず。
テツがあり得ない方へ身を乗り出したからだ。即ち。
―――――短刀のほうへ。
路上へ思い切り放り投げられたテツは、打った背中の痛みに呻く。
受身は取ったが、完璧ではなかった。
その耳に、男の悔しげな声が届く。
「死ぬつもりかクソガキ…!」
殺すつもりだったくせに、何を言っているのやら。
思った通りだ。度胸がない。テツは、大きく息を吐きだす。
間髪入れず、また襲われるかもしれないという不安はなかった。
警邏隊が確実に取り押さえるだろう。
その程度の信頼と実力は、一目で彼等に感じている。
身体に異常がないか確認しつつ、テツは起き上がろうと動いた。
とたん、大きな手に抱えられる。
直後、難なくテツは路上に立っていた。
何が起こったか分からず、テツは一瞬、呆然――――――顔を上げれば、
「…ご無礼を」
リュウが難しい顔でテツを見下ろしていた。次いで、
「無茶をなさる」
責めるというより、不思議と頼りない口調で呟く。
鋼鉄そのもののような声とのギャップに、逆に罪悪感が湧いた。
おかしい。
被害もなく、楽に事は済んだはずだ。
ただ、そう言ってのけるには、この男相手には申し訳ない気がした。
テツはわずかに俯く。
手助けなど頼んではいないが、立ちあがるのに手を借りたのは事実だ。
まあ心配もしてくれたのだろう。
少し唇を尖らせ、テツはぼそぼそと呟く。
「…ありがと」
ほぼ棒読み―――――だがテツにとっては精一杯。
リュウはかすかに目を見張った。次いで。
相好を崩す。
驚くほど柔らかで優しげに微笑んで、
「どういたしまして」
寸前に見せた厳しさを思えば、別人と思うほどの穏やかな雰囲気で、無骨に頭を下げた。